第5話 推しはロリでも推しなり
なぜでしょう、神様。なぜあなたは私にこんな理性を試すような試練をお与えになるのです。などと天を仰いでも何が解決するでもなし。みら井さんならまだしも、私に過去へ戻る力はない。
放課後の沈黙はなにも無人の教室にだけ舞い降りるものじゃない。何人そこに居ようと、どれだけ話し声が響こうと、互いの間に交流がなければ重い静寂が流れる。それを窮屈と感じるか、あるいは僥倖と思うかは人それぞれ。
いや、嘘をついた。沈黙を心地よく思うかどうかなんて相手次第に決まってる。
理科準備室に集められた生徒達は十数名。みな小さくお喋りしながらも黙々と文化祭に向けた配布物の準備を進めている。
私と今井さんは二人一組で文化祭のお知らせの封詰めをしていた。
文化祭実行委員である今井さんと、たまたま別件で学校に残っていたせいでもう一人の実行委員に仕事を押し付けられた私。この組み合わせにそれ以上の意味はない。そのはずなのに、みら井さんがここ最近落としまくる爆弾のせいで妙に意識してしまっていけない。言動がもう絨毯爆撃なんだよ。火力高えなおい。殲滅戦かな?
なので目の前にいるのが今井さんで助かった気もするし、けどみら井さんとのほうが和やかに仕事ができた気もする。私はどっちもウェルカムだから、これは今井さんに精神的負担をかけるのが申し訳ないという罪悪感だ。やはり推しというのは遠くから観察するものであって、関わるものじゃないな。
今井さんは不機嫌顔でひたすら液体ノリを滑らせている。こんなに苛立ってるのに仕事は丁寧にやってるのやっぱ推せますわ。
今井さんが次の封筒を取ろうとして、そこに何もなくて手が空を切る。今井さんを盗み見しすぎて私の手際が落ちていたらしい。流れ作業が止まってしまい、私は反射的に謝った。
「ごめんね、すぐやるから」
「…………いや、こっちこそごめん。態度悪いよね私」
「えっ」
急な謝罪に驚いてしまう。
それはもちろんそうですけれども。いっそもっと蔑んでくれてもいいくらいだ。どうせなら顔面を踏んでくれんか。なんなら校庭を十周くらい走った直後の足で。許されるなら靴下は家宝としてジップロックしたい。許されんけど。末代様に迷惑かけるな。いや待て、十中八九私が末代になるだろうから問題ないか。
という本音は喉の奥に封じる。
「そんなことないよ」
推しの不機嫌ならどれだけでも受け止める気はあるけど、そんな顔をしてほしいわけじゃない。だから申し訳なさそうな苦しい表情はやめて。
「覚えてないけど、なんか今井さんに嫌われることしたんだよね私」
推しに関わるのはすこぶる嫌だけど、私は自分の欲より今井さんの安寧を優先することにした。こうなったら喋って楽になってもらったほうがいい。
不満ってずっと胸の奥に押し込んでおくと、いつの間にか自分でも意外な形に発芽して形容できない醜悪な感情に成長してしまうから。そうならないうちに手早くどっかで吐き出してしまったほうがずっと良い。そこまで深く関わるのはモブとして不本意だけど、嫌悪の矛先くらいになら喜んで成ろう。
私が促すと、今井さんは手の動きをゆるめてぽつぽつと言葉を落とした。
「加茂さんはなんもしてないよ。ただ……加茂さんが私の嫌いな奴に似てるっていうか。どうしても嫌なこと思い出しちゃって。だからこれは、ただの八つ当たり。ほんとごめん」
「そんなに似てる?」
「うん、もうそのまんまって感じ。背格好とかシルエットとか、あと雰囲気も。加茂さんって歳の離れたお姉さんとかいたりする?」
「いないよ。一人っ子」
「ははっ、じゃあ余計に関係ないよね。ほんとごめん。自分じゃ止められなくて」
洩らした笑いは、らしくなく乾いている。アンニュイなお声も録音して目覚ましどころか私の棺の中で囁きASMRとして流してほしいくらいではあるけれど、どうせなら楽しそうな今井さんの声が聴きたい。
「私のお姉ちゃん(架空)に何されたの?」
問うと、ここまで言って隠すのもどうかと思ったのか今井さんは打ち明けてくれた。
「小さい頃の話なんだけど」
そんな前置きをされると脳内にロリ今井さんが浮かんできちゃうよ。ロリ井さん。いや過去井さん? なんにせよ最高ですありがとうございます。
「私がまだ六歳くらいの頃だったかな。買い物に出かけた帰り道に、お母さんとはぐれちゃったことがあるの。たぶん夕暮れ時かな? 薄暗くて、そんなに人通りの多い道じゃなかったのに、どこを見渡してもお母さんが見当たらなくて、それがすごく不安でさ。泣きそうだったんだけど、でもわりとすぐに、歩道で私を探してるっぽいお母さんを見つけて。駆け寄ったの」
話し慣れていないのか説明はたどたどしい。幼い想い出をつづる柔らかな語り口に、ふっと影が差した。
「そんな私の目の前で、見ず知らず人がお母さんを突き飛ばした」
その情景を思い起こしたらしく、途端に表情が険しくなる。
「そいつはすごい勢いでぶつかって来て。お母さんは吹き飛ばされて。腕からいっぱい血が出てて。今でもその傷はうっすらだけど残ってる。あれは夢じゃないんだ」
「その突き飛ばした人が、私に似てる?」
声を潜めて呟くと、今井さんが私の顔を仰ぎ見る。記憶の誰かと「加茂フイ子」がダブって見えたのだろう。私を見上げたその眼には、暗い憎しみが宿っていた。
けど今井さんはそれを振り払うように肩をすくめ、大きくため息をついた。
「そ。今の加茂さんにそっくり。だったらなおのこと、加茂さんがあいつじゃないのは確かなんだけどさ。小さい頃のことで記憶が曖昧で、嫌なイメージだけくっきり残ってて。お母さんもあの時のこと何も喋らないから、なんか一種のトラウマ? みたいな。加茂さんにしてみればいい迷惑だろうけど」
「う~ん、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いって言うし。そこまで似てるなら確かに仲良くできないと思うな。そんなもんじゃない?」
だってあれでしょ? つまり私って今井さんにとっての嫌いの集合体みたいな存在なんでしょ? だったら無理に好きになろうとするもんじゃないと思う。『このゴキブリは良い子だから』って差し出されても出て来るのは悲鳴だけだろうし、なんなら殺虫剤ぶっかけるよ。もうあの見た目だけで脊髄反射だ。
そういうことなら今井さんが気に病むことはない。人間として正しい防衛本能だと思う。
ということを噛み砕いて話すと、隣で彼女が薄く笑う気配がした。
「加茂さんって良い子だよね。人の悪口とか言ってるの見たことないし、駄目なことに安易に賛同もしないから安心して素でいられるっていうか」
「それ遠回しに空気読めない子って言われてる?」
「違うから。駄目なところはちゃんと否定してくれそうってこと。かと言って物言いが強いってこともないし。本当に信頼できる人って、たぶん加茂さんみたいな人なんだと思う。優しいよ、加茂さんは」
「へ、へぇ……」
あれー? 私はどうして推しに褒めちぎられてるんだろう。すごい過大評価を受けてる気がする。中身はただの変態なのに。おかしいな。本性を見破られないための振る舞いなのに、こうして面と向かってそこを褒められると、騙してるみたいで申し訳なさがヤバい。やだ、私のステルス性能高すぎ……?
「そんな子を目の敵にしてる自分が嫌になるよ」
今井さんの手が止まったので隣へ視線を向けると、その横顔には自虐的な笑みが浮かんでいた。だからそんな顔をして欲しいわけじゃないのに。一周回ってその顔もそそる……じゃないんだよ。その扉は開けちゃ駄目なの! 施錠して早く! ハリアップ! そこ立ち入り禁止! 立札置いといて!
私の脳内は突貫工事で大忙しだけど、外に出力される自分は無言で手元の仕事をこなすだけ。
本当に、今井さんは良い子だ。良い子だからこそ、もっと自分勝手になって欲しい。
他人を嫌うんじゃなくて、他人を嫌う自分を嫌ってしまうなんて、もったいない。嫌いは嫌いでいいのだ。好きになろうとする意思は美徳だけど、美徳だけで幸福になれる人間なんていないのだから。現実を馬鹿正直に受け止める必要はない。少しズルしたっていい。自分勝手に世界を、相手を解釈して、それが違ったからってなんだ。
必要なのは推しのぜんぶを推してく気概だけ。解釈違いなんて呑み下して新しい性癖にしろ。
「あー……なんか重い感じになってごめんね加茂さん。さっさと終わらせよっか」
「…………うん」
けどそんなことを言うことはできなくて。自分の考えを押し付けるのはたぶん間違いだ。
だって私は今井さんの友人でもなければ、都合の良い占い師でもない。ただの私に他人の人生や価値観を否定する権利はない。私は何もかも受け入れるだけで、他人の根幹を覆す変化を促す力はないのだから。
相手の望むままに背中を押すのは得意でも、誰かの意思を裏切ってまで自分を貫けない。
だから私はモブなのだ。
だから選ぶのは現状維持。それでいい。いいはずだ。
けれど、と。少し思う。今井さんの語った過去の光景。そこにいた私似の誰か。
それは他人の空似で済ませていい話なのか。
そんな懸念が私の薄っぺらい胸にやけに引っかかって、見下げてみれば視界はストーンと足元まで真っ逆さまだというのに、どうにも消えてくれない見えないモヤモヤが私を苛むようだった。
私のぺら胸にこれだけ引っかかるなら、みら井さんくらいおっぱいがあったら色んなモノがもっとぎょうさん引っかかるんだろうな。私も引っかかりたいな。掠めるくらいなら許されるかな。いやいやそんな通り魔めいた考えは捨てろ加茂フイ子。ちょっとでも今井さんに触れてみろその指を日焼け痕にそって削ぎ落とすぞ。
……駄目だ。どうしても深刻な空気を維持できない。だってこの世は性癖と妄想あふれる宝箱。私は今日も推しが息をしているだけでハッピーであるからして。
だから推しにも、いつまでだって幸せでいてほしいんだ。