冬
「八重、冬の山に行こうか」
朝、突然白陽が八重にそう誘いかけた。
「八重は確か、まだ行ったことがなかったね。共に樹氷を見に行こう」
「は、はい!」
八重は頬を赤らめて返事をする。以前牛守から『白陽様はよく為歩くお方だ』と聞いていたのに、白陽はこの一年近くの間、ほとんどの時間を御座所に座して過ごしていた。
遥か長い時を過ごせば、一年程は瞬く間なのだろうか、と八重は少し不思議に思っていた。上天はずっと気候が変わらない。八重も今は、人の世は今冬の盛りだろうとか、ここへ来てから三年以上が経ったのだとか、そういった事を覚えているが、そのうちに曖昧になってゆくのかもしれない。八重は淡く微笑んで切ない気持ちを胸に包み、白陽と歩く山を思って心を弾ませた。
屋敷の裏手から山路に入る。白陽が差し出した手にそっと手を乗せて、八重は白陽の隣を歩き始めた。寒い処へ行くから、今日もナズナは留守番だ。
いつも山菜を採る慣れた山路の土を踏んだかと思えば、白陽と共に一歩歩けば河原の小石を、咲き敷く蓮華の脇を、重なる落ち葉を踏む。周囲の景色は次々に移り変わって、然程歩いたと思わぬうちに、八重は降り積もった雪の中をさくさくと音を鳴らして歩いていた。
(いつの間に……)
はあと吐く息は白く、八重は目を瞬いて雪景色を眺める。寒い、冷たいということは理解できても、それが身に堪えることはない。神の身とはなんと便利なものだろうと思いながら、八重は白陽に連れられ歩き続けた。
開けた処に出れば、見渡す限りの銀世界が眼前に広がり、木々はまるで氷の枝を伸ばし雪の花を咲かせたかのように立ち並んでいる。陽光を受けてきらきらと輝くその様は、今まで見たことがない絶景だった。
「まあ……! なんと美しいのでしょう……!」
八重は歓声をあげて、うっとりと目の前の景色に見入る。冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、辺りを見回す。山の端を見れば空は抜けるように青く、樹氷の合間からは僅かに覗く町並みと、雲海の水平線が見えた。上天を一望して、八重は白銀の世界に白い吐息を流した。
「――八重、私は今まで、君の家族を探していた」
共に景色を眺めていた白陽が口を開く。八重は驚いて白陽を見上げた。
「災厄との決着をつけたあの瞬間、八重の守りを受けた私は、微かだが確かに、災厄の内から干渉する力の流れを感じ取った」
白陽の言葉が静謐な世界に響く。
「八重の心を受け取ろうと、災厄の核までの道を開こうと、切に伸ばされた手のようなあの想いは、君の父母のものだろう」
怨念に喰らわれて、それでも抗い続け残った僅かな欠片は、八重を求めて、共に災厄を打ち払おうと。八重は言葉を失って、震える手を口元にあてた。
「瑞鶴が上天に溶けているのはわかっていたのだが、君の父母は中々見つからなくてね」
それで時間がかかってしまったのだ、と白陽は呟いて稜線を眺める。
「だが、やはり見つかった。想いは残っていたんだよ、八重。皆、煌めく御魂の粒に分かれ、ここの大気に溶けて、そして何れ、何らかの精となってまた生まれるだろう」
記憶も、元の姿形も性質も、何もかもを失くしていくつもの欠片に分かれるのだから、それは生まれ変わりとは呼べないだろう。それでも、と、八重の瞳から涙が溢れた。ここから望む上天の何処かに。
富嶽ならまだしも、桜花は神に仕えたわけでもない只人だった。それでも桜花の欠片が僅かにでも残ったのは、富嶽が、溶け合うようにして守り続けたからなのだ。そして白陽は、ふたりが残っていると信じ上天を探し続けた。ただ御座所に座していたわけではなかったのだ。膨大な砂の中から一粒の砂金を見つけるような、途方もない行いに尽力し続けていた。
「日々君が私に聞かせてくれた話が、ささやかな幸せが、君の父母に力を与えたのだろう」
白陽は八重を見つめ、柔らかく微笑む。
「八重、君の想いは確かに届いていたよ」
「――――はい……ッ」
父母と言われても、声も姿も分からず、思い出の一つも残されていない八重にはその実感が薄い。それでも八重の誕生を心から喜んでくれた父が、命を賭して八重を守ってくれた母が、その末に非業の死を遂げたふたりが、ようやく安寧を迎えることが出来るのだと、八重は安堵の涙を流し続ける。
八重はここで遥かな時を過ごしていく。長い時の中で、いつか父と母と兄の欠片を宿した精に会えるかもしれないと、八重は涙を零しながら空に祈る。
嗚咽を漏らす八重を、白陽がそっと腕の中に包み込んだ。
§
「ずぶ濡れではありませんか!!」
冬の山から帰った白陽と八重を、家守の悲鳴が出迎えた。家守は顔を蒼白にして、ナズナに向かって「拭くものを!」と叫ぶ。ナズナはぴょんと飛び上がって、井守を呼びながら走っていった。
「一体何をなさってきたのです!!」
「八重が、里では雪玉をぶつけ合って遊んだと教えてくれてね」
白陽は穏やかに微笑みながら家守にこたえる。
「それで雪玉をぶつけ合っておいでになったのですか……ッ」
「八重に雪玉をぶつけるなど、そのように憐れなことは出来ようはずもない」
「白陽様に雪玉をぶつけるなんて、滅相もないことです」
ふたりは揃って頭を振る。家守は頭を抱えて、「では何をなさったのです……」と力なく呟いた。
「雪玉を拵えて、木々に当てて遊んだんだよ」
「かまくらも作りました!」
白陽と八重は楽しげに笑って、めいっぱい遊んで来たことを家守に告げる。ほのぼのとしたその様子に、家守は叱ることもできずに肩を落とした。
ナズナに連れられて、布を抱え走ってきた井守が、血相を変えて「湯殿にお行きください!!」と叫び声を上げる。
八重と白陽は顔を見合わせ笑い声を上げた。
この尊い日々の続く先に待つものを想って――――








