夏
朝、八重が自室で身支度を整えて、窓の外を眺めた時だった。ふと、後ろに懐かしい気配を感じたのだ。八重は目を見開いて後ろを振り返る。
部屋の中をふわふわと、小さな野椎が八重を目指して飛んでいる。――どんなに見た目が他と似通っていても、一目でわかる。可愛い野椎の気配を違えるはずもなかった。八重は目に涙を湛え歓喜の声を上げた。
「ナズナちゃん……!!」
〈やえさま!〉
両手を伸ばす八重目掛けて、ナズナは速度を速め飛んでくる。また両手の上に乗って、くるくると舞っては花を散らすのだ、と思えば、ナズナは八重の手前でこうと輝きぶるぶる身を震わせた。
何事か、と動転する八重の真ん前で、ナズナはいっそう強く光を放つ。
「やえさま!!」
光の中から、つるりと滑るように幼い童女が飛び出した。ふわふわした短い白髪に若草色の瞳。山吹色の着物を纏った年の頃は五つに見える童女は、勢いのまま八重の胸に飛び込んでくる。八重は驚きに涙を引っ込めて、兎にも角にも童女を抱きとめた。
「なっな、な……ナズナちゃん!?」
「やえさま、よかった!」
童女の姿になったナズナは、八重に縋り付いて安堵の声を上げる。ナズナは目覚めてすぐに八重を目指して飛んできたのだ。ナズナが覚えている最後の光景は、灰と化してゆく山裾と祈る守護神たち。それから戦いの光と、共に必死に逃げる八重の姿だった。
自身に起こった変化に気付いていないのか、それとも気にもとめていないのか。ナズナは八重に抱きついて心弛びの息を吐く。八重は口をぱくぱくと開閉させて、こうしてはおられないとナズナを抱きかかえて立ち上がり一目散に白陽の元へ走っていった。
「はっは白陽様……! ナズナちゃんが、ナズナちゃんが、童の姿で!!」
血相を変えて飛び込んできた八重に、白陽は目を瞬いて八重に抱かれた童女を見やった。
「ああ、野椎が帰ってきたんだね」
白陽はナズナの姿に動じることなく、良かったねと微笑んで八重にこたえた。
「ええ、あの、はい。あの、いえ、そうではなく……!」
焦りきった八重の様子に、白陽は穏やかにこちらへおいでと八重を手招く。八重は大きく深呼吸して息を整え、ナズナを抱えなおして白陽の前に座った。
「八重はこの子に名を与えただろう?」
「はい……」
白陽は手を伸ばし、八重の膝上に座るナズナの頭を撫でる。ナズナは心地よさそうに首を伸ばして目を細めた。
「以前少し話したが、神は精らに名を与え己の従者とする。精らが名を受け入れれば、主に近い姿へと変ずるのだ」
そういえば、と八重はかくんと口を開けた。確かに以前聞いた覚えがある。上天の成り立ちを聞いたときのことだ。
「ですが、私がナズナちゃんに名前を付けたのはずっと以前のことです」
「その頃はまだ八重は人であったが、しかしこの子は当時から八重に付けられた名を己のものと受け入れていた」
満足そうな息を吐くナズナの頭を撫でながら、白陽は優しく微笑み話し続ける。
「神と成った八重が改めて呼んだことで正式に従属するものになったのだろう。これで私達もこの子の名を呼んでやれる」
言われてみれば、今までナズナの名を呼んでいたのは、八重と、井守家守くらいのものだった。神々は皆、『あの子』や『この子』、『野椎』と呼ぶばかりで名を口にしなかった。力の強い神が精の受け入れた名を呼ぶことで、主の座を奪い取らぬようにと気遣っていたのだ。
主としてナズナを従属させようと思ったわけではないのにと、八重は眉を下げてナズナを覗き込んだ。
「ええと、いいの? ナズナちゃん」
「うん!」
ナズナは満面の笑みを浮かべて八重を見上げる。
「ナズナはナズナがいい! やえさまと、ずっといっしょにいる!」
「まあ、まあ……!」
ナズナのあまりの可愛らしさに、八重は頬を赤らめてナズナをぎゅうと抱きしめる。
「私も、ナズナちゃんとずっと一緒にいたい……!」
「うん!」
主と従者というよりは、まるで姉と年の離れた妹のような親しさに、白陽は温かな微笑みを浮かべてふたりを見守っていた。
§
「やもりうるさい!」
朝の屋敷に幼子の怒った声が響く。ナズナは今日、心底拗ねていじけていた。
朝も早くから鶏守がやってきて、「奥方様ァ! 鯛釣りに行きましょうやァ!」と叫んだのだ。八重は驚きに目を白黒させて、それから約束を果たそうと釣り竿を用意した。
ナズナも当然ついて行こうとしたのだが、鶏守に「お前みたいな生まれたてのチビを連れていけるもんかよ。危ねェだろうが」と断られたのだ。危ないと聞いては八重もナズナがついてくることを承知しなかった。「魚をたくさん釣ってくるから待っていてね」と言い残し、八重はナズナを置いて雲海に行った。
小さな野椎の姿なら、ふわふわと浮いて、八重の頭に乗って、どこにだってついて行けたのにとナズナは頬を膨らます。そうしたら、『丁度良い』と家守があれこれ言いつけに来たのだ。ナズナはもう拗ねて拗ねて、膨れっ面で走り出した。
「やもりのガミガミ!!」
「こら、ナズナ!」
前も見ずに廊下を走るナズナは、すぐさま何かにぶつかる。
「おっと」
ぶつかったのも、跳ね返ったナズナを掴んで抱き上げたのも、井守だった。
「どうしたナズナ、そんなに膨れて」
「やえさまがナズナをおいていって、やもりがうるさくいう……」
ますます頬を膨らませるナズナに、井守は快活な笑い声を上げる。
「だがナズナ、お前は八重様の御役に立ちたいのだろう?」
「うん」
「ならば家守に教わるといい。八重様はお前が可愛いらしいというだけでずっとお側に置いてくれるだろうが、お前はそれでは嫌なのだろう?」
「……うん」
唇を尖らせたまま頷くナズナに、井守は優しい笑みを浮かべる。
「学ばねば、いつまで経っても大きくなれぬぞ?」
「いや!」
慌てて顔を上げるナズナに、井守はくつくつと笑い声をもらす。それだけが全てではないが、上天では心のあり様が強く外見に影響するのだ。
「さあ、行くぞ。留守番の間に何かして、帰ってきた八重様に褒めていただこうな」
「うん!!」
機嫌を直して満面の笑みを浮かべるナズナを抱き上げたまま、井守は土間に向かって歩き始める。さて、何をやらせたものか、と思案しながら、頼れる相棒の元に向かって。
Q.どうしてナズナちゃんは本編で帰ってこなかったんですか?
A.人の姿になっちゃうんで、強インパクトで読後感かっさらっちゃうんで……