春
「おお、奥方様。今日もこちらにいらしたか」
そう快活にかけられた声に、八重は困ったような顔をして言い淀む。口を開いては閉じ、言葉に窮する八重を見て牛守は呵呵と笑った。
「まだ慣れませぬか」
「牛守様……」
八重は眉を下げて牛守を見つめる。もう一度呵呵と笑う牛守に、八重は唇を尖らせ拗ねたような声を出した。
「もう、皆様そうやってお話しになるのです」
「奥方様は白陽様の妻となられたのだからな。儂のことも『牛守』と呼び捨てていただかねば」
愉快げに笑い続ける牛守に、そんなこと出来ようはずもないと八重はますます唇を尖らせる。
神々は、八重が白陽の妻となってから態度を一変した。今まで八重が顔を合わせた中で、変わらなかったのは兎守くらいのものだ。とはいえ彼女も、耳をへにょりと下げて「やっぱり改めた方がいいよねえ……」と呟いたのだが。
会う神皆に畏まった態度をとられることに恐縮しきっていた八重は、兎守の言葉にしょんぼりと肩を落とした。「友と、呼んでくれたことが嬉しかったのです……」と呟き、寂しさに思わず目を潤ませた八重を見て、兎守は頬を赤らめて八重の手を握りしめた。「そうだよね、友達だもんね……!」と瞳を輝かせ、以前と変わらぬ気安さで接してくれる兎守のことを、八重はとても嬉しく思っている。最近は逆に『うーちゃん』と呼ぶようにねだられていて、八重は照れに照れて待ってもらっている始末だ。
井守と家守に関しては、八重が切々と訴え、白陽にまで泣きついて説得し、今まで通りに振る舞ってもらっている。呼び方だけは『八重殿』から『八重様』に変わったが。まだ八重は全員と顔を合わせたわけではないので、龍守の態度は変わらないのではないかと期待している。あのおおらかなお方ならば、と。
「思うのですが」
八重は神妙な面持ちで頷き、口を開いた。
「私は神となり白陽様の妻となりましたが、まだ新参の身。皆様方を敬うのは当然のことにございます」
年長者を敬うようなものだ、とひとりうんうん頷く八重に、牛守は難しげな顔を作って腕を組み、ふうむと唸る。
「ではいずれ、新参ではなくなった頃に呼び捨ててくださると?」
「私が生まれる遥か以前より、長い年月を過ごし人の世をお守りくださった先達に変わることなどございません」
八重はわざと澄まし顔を作ってそうこたえる。それから牛守と顔を見合わせて、揃ってぷっと吹き出した。
「はっはっは、いずれお慣れになるであろう」
「まあ。その前に牛守様が元通りになられると信じております」
ふたりは笑い合って小屋に向かい、鍬を手に取った。
鍬を持ち田に入り、八重は牛守と共に田起こしを始める。今までやってきた通りに鍬を振るい、八重はふうと田んぼからの景色を眺めた。
――八重はもう、巫女ではない。
それどころか、人でもなくなった。だから八重が米を育てたところで、信仰心は宿せない。それでも突然『もう何もしなくても良い』と言われても困り切ってしまうので、八重は相変わらず牛守と農作業をして、山で山菜や魚をとっていた。白陽もそれで良いと言ってくれている。やりたいことをすれば良いと。
八重は暫くぼんやりと辺りを眺め、一抹の寂しさを覚えてふと振り返った。農作業をしている間、いつも近くを飛び回っては花を散らしていた可愛らしい子の姿を求めて。――ナズナはまだ帰ってこない。
ふう、とため息をついた八重に気付いて、牛守は鍬を肩に担いで八重に話しかけた。
「あの野椎ですか」
「ええ、はい。どうしても探してしまうのです」
「懐いておりましたからなあ」
牛守は顎を擦って山裾の方を見つめる。先の戦いで神々はたいそう力を消耗したのだ。大鹿守は山で体を癒しているそうだが、山裾は未だ灰にのまれたままだった。八重と牛守は、暫く黙ってぼんやりと空を眺めた。
「……そうだ、胡瓜を冷やしておるのです」
牛守はふと思いついたかのように、明るい声を出す。
「白陽様をお呼びいただけまいか。まずは並んで、胡瓜を齧ろうではありませぬか」
いつかの約束を果たそうと、牛守は八重に笑いかける。そうやって過ごしているうちに山は緑を取り戻すと、ナズナもひょっこり戻ってくるだろうと言わんばかりの笑顔だった。
「……はい!」
八重は牛守の笑顔に励まされ、微笑んで頷き白陽の元に向かった。
§
白陽は今もよく御座所にじっと座っている。八重が庭から御座所に向かうと、何やら話し声が聞こえてきた。
「儂つかれた〜」
「儂も〜」
視線をやれば、御座所に座す白陽の膝にふたりの童がしがみついて甘えている。白陽に頭を撫でられて、もっとと言わんばかりに頭を手に擦り付けては不満と甘えを含んだ声を上げた。
「五十年分は働いたと思う〜」
「儂は百年だと思う〜」
狐守だ。阿形と吽形は戦いが終わって帰ってくるなり狐の姿でこんこんと眠り続けていたが、ようやく起きることが出来たのだろう。八重は目を瞬いて戯れる神々を眺めた。
「どうしたんだい、八重」
顔を上げ、白陽は微笑んで八重に声をかける。狐守は白陽の言葉を聞いたとたんにそそくさと立ち上がり、素知らぬ顔で白陽の両隣にぴんと正座した。
まるで最初から凛々しく控えていたのだと言わんばかりの様子に、八重は思わずくすくすと笑いをもらす。
「……見られてしもうたではないか吽形」
「……何故気付かぬのだ阿形」
ツンと澄ました顔つきで、狐守は互いに責任を押し付け合う。八重は堪らず笑い声を上げた。
しまいには白陽を挟んで舌を出し合う狐守に滲んだ目端の涙を拭い、八重は笑いを堪えて白陽に話しかける。
「牛守様に、共に胡瓜を齧ろうとお誘いいただいたのです。白陽様をお呼びに参りました」
「ああ、いいね」
白陽は柔らかく頷いて立ち上がり、ふわりと御座所を降りる。
「畑に行こうか」
「はい!」
八重は狐守に手を振って、にこにこと笑みこぼれる。狐守は両腕を上げてぶんぶんと手を振り、満面の笑みで八重にこたえた。
八重と白陽は並んで歩き出す。可愛い野椎が帰ってくる日を心待ちにしながら。