稲束を前に
のんびりと雲海を眺めているうちにぐんと竿が引かれて、八重は慌てて竿を引き寄せた。「糸をたぐれ!」と鶏守に一喝され、八重は「どうすればよいのでしょう!!」と悲鳴を上げる。
ぐんぐんと竿を引かれればもう気おくれしている余裕がなくて、八重は両足で龍守の背を踏みしめる。「神気で操るンだよ!」と叫ばれて目を凝らせば、釣り糸は白く煌めく神気から成っていると分かった。
八重は必死で、こっちへ来て、短くなって、と願い糸を繰る。ナズナは〈やえさま、がんばれ!〉と八重の頭上で飛び跳ねて、格闘の末浮かんできた魚影にきゃあと高い声を立てた。
鶏守が横からたもを入れて魚を掬い上げる。釣れたのは、丸々と肥えた鰹だった。
「やるじゃアねえか!」
「あ、ありがとうございます……」
八重が鼓動を弾ませてふうふうと息を継ぐ間に、鶏守が針から魚を外してくれる。「どれ」と龍守が声を出し、冷たい海水を巻き上げて大きな水の球を作り、空に浮かべた。鰹はそこに放たれて、水の球の中でぐるぐると泳ぐ。
「どうだ、巫女殿。どっちが良く釣れるか勝負でもするか?」
鶏守がにやりと笑って八重を見る。八重は眉を下げて、へにゃりと笑った。
「お手柔らかにお願いします」
日が傾き始めるまで釣り糸を垂れて、かかった魚に歓声を上げてはしゃぎ倒した。
たくさんの鰯に、鰹を数本。大きな水の球に魚をたくさん泳がせて、龍守と鶏守と並んで町を歩けば、そこかしこから「まあ」「良く釣れましたねえ」と声がかけられる。八重は笑顔を浮かべて返事をしながら、屋敷へ戻った。
たくさんの魚を持ち帰った八重たちを、井守と家守は歓声を上げて出迎えた。早速井守が水の球から魚ごと海水を切り分けて、裏庭に運ぶ。家守も包丁を取り出して浮き立ちながら裏庭へ向かった。
龍守と鶏守を見送りに戻った井守に、龍守は「残りの魚は家でめざしと鰹節を作らせよう」と告げる。井守はその言葉に大いに喜んで、「楽しみにしております」と声を弾ませる。龍守は「うむ、ではの」とこたえ水の球を連れて帰っていった。
「俺も帰るわ」
「魚は下拵えして、後で屋敷にお届けしましょう」
「おう、頼まあ」
鶏守は井守にこたえ、八重を見やってにやりと笑う。
「巫女殿、また釣ろうぜ。次は鯛狙いで、全部終わった後だ」
「はい!」
八重の声に「じゃあな」と片手を上げて、鶏守も帰ってゆく。八重は二柱に深く頭を下げて、小さくなる背中を見送った。
その晩の膳には、白飯と藁焼き鰹、蓄え漬け、豆腐とわかめの味噌汁に里芋の含め煮と湯掻いた枝豆が並んだ。
おろし生姜に刻んだ大葉と茗荷がたっぷりと乗った藁焼き鰹に甘酢醤油をつけて口に運べば、薬味の爽やかな香気に香ばしい藁の薫り、鰹の濃厚な旨みが口いっぱいに溢れる。家守が鰹の柵に串打って、神米の藁で炙ったのだ。口に広がる旨みを白飯で追いかけ、味噌汁をすする。蓄え漬けは丁度いい塩梅に漬かっていて、ぽりぽりとした歯ごたえが小気味良い。甘めに煮た里芋のねっとりとした美味しさに、また白飯を食べて鰹に戻る。たまらない味に、八重は恍惚と息を吐いた。
日はじっくりと迫ってくる。稲は出穂し、色付いて重く頭を垂れた。八重は心を込めて稲の世話をして、祈り、日々を暮らす。やがて八重は、稲刈りの時を迎えた。
昨日刈り終えて稲干し台で風を受ける稲束を眺めて、八重は両手を合わせる。朝から居ても立ってもいられず、かといって何事にも手がつかずに、八重はただただ稲束を前に祈り続けている。目を凝らして稲束を見れば、神米は内にたっぷりと神気と信仰心を蓄えて白と黄金に煌めいていた。
(どうか、どうか)
「巫女殿もここに居たのか」
祈る八重に、後ろから声がかけられる。振り向けば犬守が立っていた。
「犬守様」
「俺も稲束を見に来たんだ。どうにも落ち着かなくてな」
町や白陽の居所の周りを見回っている、と静かにささやいて、犬守は稲束を眺めた。
「美しいな」
「はい」
「明日が終わったら、また共に山へ行こうか」
稲束を眺めながら、犬守がぽつりと呟く。
「またぞろ茸がいる頃だろう?」
「ええ、はい」
そういえば膳に茸が並ばなくなってきた、と思い返しながら、八重は頷く。犬守は悪戯そうな笑顔を浮かべて八重を見やった。
「今度は共に木に登るか?」
「美味しそうな木通を見つけたら」
ふふ、と笑みをこぼして、その日が来ますようにと八重は願う。
神々は皆、八重と先の約束を交わす。明日を乗り越えられるように、強く意志を持って言葉を発し、言魂とするために。
八重と犬守は並んで前を向く。視線の先に広がるのは、美しい町並みと雲海。そしてその先の、どこかで繋がる人の世に想いを馳せて、八重は目に焼き付けるようにじっと眼前に広がる風景を見つめ続けた。
「護ろう」
「はい」
目覚めの時は、ついに、明日。