釣り
「よう、釣り竿が出来たぞ」
朝、まだ八重が朝餉を摂っている時に、鶏守が訪ねてきた。箸をとめてぽかんと鶏守を眺める八重に、鶏守はハアと溜め息をついて頭を掻いた。
「ンだよまだ食ってんのか。ほら、急げ急げ。釣りに行くぞ。食ってる間に牛守に言っといてやっから」
そう言い残し、八重の返事も待たずに鶏守は田んぼへ向かう。八重は慌てて朝餉をかき込んで、「ご馳走様です!」と声を上げて立ち上がった。
急いで膳を下げようとする八重に、家守は「こちらでやろう。鶏守様は気が短くいらっしゃるぞ」と笑って和室に上がってくる。ナズナは急いで八重の頭に飛び乗って、八重は「ありがとうございます!」と叫んで屋敷を飛び出した。
「おお、早エじゃねえか」
鶏守はすでに牛守に『釣りに行く』と伝え終えて、田んぼから上がってきたところだった。鶏守はそのまま「行くぞ」と言ってすたすたと歩いていく。
〈とりのかみさま、せっかち!〉
ナズナの可愛らしい声が早朝の澄んだ空気に響く。八重は何度も田んぼの方と鶏守の背中とに視線を往復させて、小さくなっていく鶏守の背中を追いかけ走り出した。
足早に進む鶏守を追いかけて、町を抜けて鳥居をくぐり、浜辺につく。鶏守はようやく足を止めて八重を振り返った。
「ほら、巫女殿の釣り竿だ」
「あっありがとうございます!」
差し出された竿を受け取って、八重は兎にも角にも頭を下げた。鶏守は自分の釣り竿で肩をトントンと叩き、雲海を眺める。
「ちょい投げでキスやベラ狙ってもいいけどよォ、せっかく釣ンのに、船でも浮かべれりゃ良かったんだが…………そうだ、龍守を呼ぶか」
船と釣りと龍守と。繋がりが見えずに八重が戸惑いながら頭を上げると、鶏守は頓着せずに雲海に向かって大声を上げた。
「おおい、龍守。ちっと来てくれや」
「何ぞあったかの」
すぐさま浜辺の海水が盛り上がり、龍守が姿を現す。事態が飲み込めずに八重が首を傾げていると、鶏守は当たり前のような口調でとんでもない事を言い始めた。
「おう。巫女殿が初めて釣りすンだけどよ、どうせなら沖合いに連れてってやりてェだろ。ちょっと背中に乗せてくれや」
「はっはっは、我を船の代わりにすると申すか」
(とんでもない……! とんっとんでもない……!!)
踏んで、尻に敷くのかと、八重はあまりの畏れ多さに顔色を蒼白にしてぶんぶんと頭を振る。龍守は愉快げに笑って、鷹揚に頷いた。
「よかろ、暫し待つが良い」
少し離れた処にいるからの、と言い残し、龍守の姿は水に戻ってばちゃりと落ちる。八重が絶句している間に、沖合いからぐんぐんと白銀に輝く龍体が近付いてきた。
「よろしいのでしょうか! よっよろしいのでしょうか!!」
白銀の龍は浜辺に身を伏せ、「さあ、乗ると良い」とおおらかに誘いかける。ナズナは〈わあい!〉と無邪気に喜んで、龍守の上で飛び跳ねた。八重はおろおろと視線を泳がせて肩をすぼめる。
「龍守も良いって言ってンだから気にするこたァねえよ。どれ、乗せてやろうか」
鶏守がついと指を動かす。八重の身体はその動きに同調して、ふわりと浮かんだ。そのまま龍守の背に乗せられて、八重は身を縮こませて龍守の背の上に正座する。
「ひえ、ひええ」
「そんな座り方じゃあ雲海に投げ出されッちまうぞ、オラ、足伸ばせ」
鶏守もひらりと龍守の背に飛び乗って、八重の腰に鬣を巻きつけて固く結ぶ。「痛くは! 痛くはないでしょうか!! 龍守様の鬣が!!」という八重の悲鳴には愉快げな笑い声が返ってきて、「ではゆくぞ」と龍体は海へと滑り出した。
ぐんぐんと潮風をうけて、龍守は沖合いへ進んでいく。波は荒いが驚くほど揺れることなく運ばれて、八重はぎゅっと瞑っていた目を開いた。
空は抜けるように青く、波は光を受けて煌めいている。濃い潮の香りを運ぶ風が心地良い。波飛沫が伸ばした足先にかかって、八重は冷たさにひゃあと声を上げた。「ここが良かろう」と、龍守はゆったりと体を海に浮かべる。
「さて、釣るぞ」
鶏守は言うなりびゅんと音を鳴らして竿を振る。八重も見様見真似で、釣り糸を海に投げ入れた。
「どれ、魚があまた釣れるよう竿に加護をかけてしんぜようか」
「止めとけ止めとけェ。変なモンがかかって巫女殿が雲海に落っこちたらどうすンだよ」
〈おさかなたのしみねえ、ねえ!〉
青空の下、鶏守と並んでのんびり釣り糸を垂らす。稲は分けつを迎え、そろそろ出穂する頃だ。こんなにも呑気に釣りをしていていいのだろうかと、どこか呆として動かぬ釣り糸を眺める八重に、鶏守が海面を眺めたままぽつりと呟いた。
「あんま気負いなさンな」
振り向く八重に、鶏守は片肘ついて竿をさびかせながら、言葉を続ける。
「張り詰めたまんまだと疲れッちまうぞ。手を尽くしたら休むのも備えのうちだ」
鶏守の言葉に、八重は、ああ、と息を吐く。強引に誘い出して、釣りをする以外にない場所まで来て。近付いてくる『目覚めの時』に、日に日に八重が緊張を強めるものだから、見かねて連れ出してくれたのだ。
思えば、あまりにも自然に皆に送り出された。八重は胸いっぱいに潮風を吸い込んで、「はい!」と大きく返事をした。