内に宿した
――この米が実った時。
八重は祈りながら苗箱に種籾を蒔く。八重は白陽から、次の奉納で目覚めの時が来る、と聞かされていた。
神々は皆、その時に備えている。やはり神気や信仰心を内に蓄えることこそ重要であるらしい。牛守は忙しく作物を育てては皆に届け、井守は酒を造り、米と共に神々に届けていた。皆で物を取り交わしているのだ。
神々からは、白陽の元にたくさんの献上品が届けられる。兎守から菓子が、蛇守から砂糖が、猿守から茶葉が、犬守から山の恵みが。鼠守からは卵が届けられた。果樹の立ち並ぶ中庭で、鶏を飼っているそうだ。家守は毎日腕を振るって、美味しい料理を拵えていた。
狐守は、人の世の怨念を祓い続けている。目覚めてすぐの頃は昼夜問わず樹海に赴いていて、その姿を上天で見かけることはなかった。眠っていたことと飢饉が影響して、人の世に怨念が吹き溜まっていたのだ。
最近は少し落ち着いて明け方に戻っているらしく、八重は歌の奉納の際に、狐守が御座所で眠る姿を日々見かけるようになった。日中に狐の姿になって思い思いの場所で眠るようで、畳の上で伸びる姿を見ることもあれば、白陽の膝の上で二匹丸まって眠っている姿を見かけることもあった。
八重は狐守を見かけるたび、愛らしい姿に胸をときめかせると共に、心の底から感謝の念を抱いた。樹海は里のすぐ近くにあるのだ。そもそも、怨念などが人の世に吹き溜まること自体心配なことだ。八重の歌には、新たな感謝が深く込められるようになっていた。
(……なんだろう?)
田仕事の最中、八重が岩清水を飲もうとしたときだった。不意に、柄杓の中の水が煌めいて見えたのだ。不思議に思って目を凝らせば、水はとても細かな白く光る粒で成っているように見えた。水が揺らめき、波紋を描く度に、細かな粒が動き煌めく。八重は首を傾げて、まじまじと動き続ける微細な粒子を見つめ続けた。
「どうした巫女殿」
柄杓を覗き込み一向に飲もうとしない八重に気付き、牛守がやってきた。八重は途方に暮れたように眉を下げて牛守を振り向く。
「おかしいのです。水が光る粒で出来ているように見えて、どうしたのでしょう」
「ほう!」
牛守は感心したように大きな声を出して、顎を撫でさすった。
「巫女殿、神気が見えるようになったな」
「これがそうなのでしょうか」
「うむ。そうだな、指を差して水を呼んでやるといい。心の中で『こちらに来い』と」
八重は戸惑いながら頷き、一度目を閉じて決心した後もう一度頷いて、柄杓の中の水を指差した。
心の中で、こちらへおいでと水を呼んでやれば、柄杓の中から細く水が走って八重の指先で丸く浮く。八重が驚いて指をびくつかせると、水の玉は地面に落ちてばしゃりと弾けた。
「はっはっは、出来たな巫女殿」
「でき、出来ました……!」
「巫女殿はすっかり仙であるな」
口をあんぐりと開けて水の染み込む地面を見つめる八重に、牛守は高らかに笑いかける。八重は牛守を見やり、首を傾げた。
「『仙』とはなんでしょうか。以前、虎守様からも『仙に近い』と言われたことがあるのです」
「内に強く神気を宿し、人の理から外れた者だな。神気を宿し続ける限り寿命はなく、そして我らに近い力を操れるようになる」
「なんと、まあ……」
八重は目を見開いて言葉を失う。寿命がないなど想像もつかず、途方もないことだ、と息を吐いた。
「白陽様の巫覡は代々仙に近くなるものだが、仙にまで至った者は巫女殿が初めてだ。何せこの上天で暮らしているのだからな」
上天を訪れた只人は八重だけだった。人の世で神気を身に宿すなど、並大抵のことではない。有史以前より、幾人か厳しい修行の末に仙と成った人はいた。そしてそのいずれも、次第に生きるに飽いていつの間にか消えている。その者たちの欠片が雲海を越えて上天にたどり着き、精の一部となっているのだろう、と牛守は話す。
「だが、己を過信してはならんぞ。仙になったとはいえ、巫女殿は未だか弱いのだからな」
「はい。重々承知しております」
八重は真剣な顔つきで頷いた。牛守は、いざという場面が来たときに八重が災厄に立ち向かおうとすることを心配している。いくら八重が仙に成ったとはいえ、神々と比べれば微力であることに変わりはない。相対すれば、一巻の終わりだということに揺らぎはなかった。八重は少し水を操れたくらいで増長せぬように、と己を戒める。
白陽の目覚めは、八重の奉納でもたらされる。八重の眼前で起こるのだ。白陽の瞼が開いたとき、即座に逃げろ、と八重は皆から言われていた。