潮干狩り
八重はあれから、また米を育て、山に入り山菜を摘んで変わりない日々を過ごしている。だが、皆の前では普段通り振る舞おうと気を張っても、一人になるとどうしても不安がよぎった。八重は皆を信じるのだと頭を振り、それでも払いきれぬ寒心に思い悩んでいた。
「そうだ八重殿、雲海を見に行かれたか?」
朝餉の膳を洗い場に下げてきた八重に、井守が声をかける。八重は、そういえば、と思いながら首を振った。
「いえ、まだ行っておりません」
「なら、今日昼から我らと共に行かぬか? 丁度昼頃に潮が引くから、貝を採ろうと家守と話しているのだ」
急ぎの御用がなければ、と微笑む井守に八重は頷く。霧が晴れるのを楽しみにしていたのに、心配事に気を取られすっかり忘れてしまっていた。
「はい、ぜひご一緒させてください」
「うむ。では八重殿が田んぼから戻られたら共に行こう」
必要なものは御用意しておくからな、と笑って手を振る井守に見送られ、八重は田んぼの世話に向かった。
田んぼには、稲が青くそよいでいる。八重は水の具合や温度を確かめ、周りの草を引き、牛守と畑の世話をして午前を過ごした。牛守に午後からは雲海へ行くと断って、八重は農具を片付け屋敷に帰る。扉を開けると、井守と家守が八重を待ち構えていた。
「おお八重殿、戻られたか」
「さあ、準備はすっかり整っておるぞ」
井守は冷たい水の入った湯呑みを八重に差し出す。八重はありがたくそれを受け取って、きんと冷えた水を飲み干した。
「ありがとうございます」
「いやなに。さて、では行こうか」
湯呑みをさっと片付け、井守は熊手や網を持って戻って来る。家守は熊手を片手に腰に網を下げ、襷掛けをして気合十分だ。八重は「はい」と頷いて、連れ立って屋敷を後にした。
色を取り戻し活気付いた町を歩く。八重が歩けば、方々から「巫女様」と声がかけられた。「お出掛けですか?」という声に「貝を採りに行くのです」とこたえれば、「沢山採れるといいですねえ」「お気をつけて」と見送られる。八重は久方ぶりに、心が浮き立つ思いがした。
「さあ」
井守に促され、八重は少し緊張しながら鳥居をくぐる。目の前には砂浜と、岩場と、そして大きく波打つ大海原が何処までも広がっていた。
沖合いには丁度白銀の龍体が見える。八重は眼前の絶景に思わず駆け出して、「龍守様!」と大声を上げ、手を振った。
龍守は八重の声にこたえるように、一度天に舞い上がるように空を泳ぎ、海に沈んで遠くへ向かっていく。龍守が立てた飛沫は陽の光を受けて煌めき、雲海は青く果てなく、八重はその光景に言葉を失って立ち尽くした。
「どうだ八重殿、美しいだろう」
「はい……!」
後ろからかけられた井守の言葉に振り返れば、井守は優しい眼差しで八重を見つめ微笑んでいた。
「八重殿が取り戻してくれた光景だ」
八重は井守の言葉に目を見開き、もう一度大海原を見やった。ここは以前霧に覆われていて、八重が足を踏み入れることさえ禁じられていて。
今八重の眼前には、澄み渡る空と波頭を白く輝かせる大海原が広がっている。白陽も眷族たちも、この平穏を守るために備えてくれている。何処かで繋がる人の世ごと、守ろうとしてくれているのだ。八重は目の前の大自然に、気鬱が晴れる心地がした。
「はい!」
井守と家守は、元気付けようとしてくれたのだ、と八重は気付く。晴れやかな笑顔を浮かべる八重に、井守はにかっと笑いかける。家守は熊手を差し出して、「さあ、浅利を探そう!」と弾んだ声を上げた。
熊手で砂を掻けば、ごろ、と浅利に当たる。一つ見つければその周囲に沢山集まっていて、八重は夢中になって砂を掻いた。深く砂を掘り返そうとする八重に、家守は「浅利は然程深い所にはおらぬから、浅く広く掘ると良い」と助言をくれる。
小さい浅利は網に入れずにその辺りに転がした。埋めなくていいのか、と聞く八重に、井守は自分で好きな深さに潜るから置いておくのがいい、とこたえる。手のひらに乗るくらいの大きな浅利が見つかった、と八重が声を弾ませると、それは蛤だな、と井守が笑った。あちこちと場所を変えて、八重たちは網にたっぷりの浅利と蛤を詰めて満面の笑みを浮かべた。
浅利も蛤も一晩砂抜きをしなければ食べられないからと、盥に並べて薄く塩水を張り、土間の暗がりに置かれることになった。八重は物珍しく、夕餉の後に盥を覗く。
〈にょろにょろ〉
〈にょーん〉
ナズナも楽しそうに、水管を出す貝を覗き込んでいる。だらしなく寛ぐように貝殻から身を伸ばす様は愛嬌があって、このまま飼いたい気持ちが芽生えてしまう。
〈ぴゅー!〉
〈やえさま、ぴゅーした!〉
「そうだねナズナちゃん」
浅利がぴゅうと水を吐いて、ナズナは喜んでくるくる回る。八重はくすくすと笑って思わず浅利を突いた。
突かれた浅利はすぐさま殻に固く閉じこもる。八重は怖がらせてしまった、と指を引っ込めて、ぼんやりと浅利を眺めた。怖がって殻にこもる姿に、八重はどことなく自分を重ねる。
八重は白陽と話したあの日から、愛を歌うことに迷いが生じていた。