災厄
「では、帝様は……巫覡様は」
失われた、と、牛守が以前話していた。『帝から文の返事が届かない』と里長が焦燥していたことも、八重は覚えている。震える手で口元を押さえる八重に、白陽は重々しい声で頷いた。
「怨念に喰われたんだ。あの子は、神聖な結界の奥で、確かに護られていた筈だったのに」
帝の居所を中心に御山と大社を置いて星を描き、居所の四隅に要石を置いて聖域を区切る。御座所には御山で作られた塩を盛り、帝は常に三重に護られているはずだった。怨念など取り憑く余地もなかったはずなのに何故、と白陽は沈鬱な息を吐く。
「――私にも、あの時真に何が起こったのか、詳細には分からない。だが、あの子が喰われたと察知した瞬間、私と巫覡との繋がりが蝕まれ辿られた。私は怨念と繋がってしまったんだ」
ただ『全てを手中に収めたい』と妄執した怨念は、繋がりを辿って神洞の泉の底を打ち破り、上天を侵す。不可逆な筈の繋がりは呪われたことによって白陽を侵犯する管となり、神力に喰らいつかれた。怨念は神の御力を喰って未曾有の災厄と成り果てる。巫覡を一人喰ったくらいで起こる筈のないことが、それも瞬時に、起こってしまったのだ。
「私は災厄と神力を引き合い、滅しようと戦った。だがひとつの力を奪い合っているのだから決着はつかず、眷族たちは瞬く間に力を吸い上げられ眠りについた。上天は灰と化し、そして私も、こうして力を失い動けずにいる」
眼前で、必死に涙を堪えて真剣に話を聞く八重に、白陽は覚悟を固めて言葉を続ける。
「八重、落ち着いて聞きなさい。私には未だ災厄が取り憑いている。相討ちと成りかけた瞬間、滅びるわけにはいかないと共に強く感じた結果、この状態で均衡したのだ。だからね、八重。私が目覚めれば、共に災厄が目覚めることとなる」
「そんな、それでは……っ!」
白陽はこのまま目覚めることが出来ないのでは、と、遂に八重の瞳から涙が溢れた。八重が願い続けたうちの一つが叶わぬのかと涙を落とす。白陽はそんな八重に、重い声で話を続ける。
「私は天陽であり、人の世を支える支柱。私が目覚めなければ、陽光が陰り大地は崩れる。もう、然程猶予はない」
白陽が目覚めれば災厄も目覚める。白陽が目覚めなければ人の世が崩れる。八方塞がりの状況を知り、八重は指先が白くなるほど膝に爪を立てた。そんな、どうすれば、と八重は歯を食いしばる。
「――だがね、八重。そなたがここに来てくれた」
白陽の言葉に、八重は言葉の先に縋るような視線を向ける。白陽の声は穏やかで、八重の心を包み込むかのようだった。
「私も眷族らも、もう何が起こるか知っている。備えることが出来る。八重、そなたのお陰で希望が見出だせたのだ。私も、眷族らも、皆目覚めに向けて備えている。もう勝手は許さぬ」
八重は唇を引き結んで白陽に頷いた。不安は尽きない。白陽のことも、眷族たちのことも、みな心配だった。だが、八重が直接災厄を祓うために出来ることは何一つとしてない。八重はただ白陽の言葉に頷き続けた。
八重が涙を拭うのを待ち、白陽は穏やかな声音で話を続ける。白陽には、まだ八重に伝えなければならないことが残っていた。
「そしてね、八重。どこでどう耳にするか分からないから、私の口から言わせておくれ」
はい、と、震える声で頷く八重に、白陽は自分の口から伝えなければならないと腹を据える。眷族たちのことは信頼していても、どんな切っ掛けがあるかも分からない。そして白陽は、災厄が八重を惑わせ利用しようとすることを案じていた。
「八重、災厄の元となった怨念は、そなたの血筋に関係する」
八重は目を見開いて、その言葉を反芻した。喉が引き攣った音を立てる。今まで然程気に留めていなかった『生まれ』が、今ここで八重に迫る。そんな、と八重は言葉に出せず唇を震わせた。猿守に試され、猪守に認められずにいたわけだ。思えば、犬守にも生まれ育ちの話をした。あれは、八重を検めていたのだ。当然のことだった、八重の存在が守護神らに認められる筈など――――
「八重、私の巫女」
――私の巫女。白陽の優しく響く呼びかけに、八重は瞳の裏に溢れんばかりの涙を湛える。白陽は始めから、そうと知って八重を『巫女』だと呼んでくれていた。
「……ッはいっ」
「そなたに罪など、ひとつもない」
「――――はい……っ」
八重は両手で顔を覆って涙を流す。知らせずに済むならそうしてやりたかった、と白陽は眼前で泣き濡れる八重を憐れんだ。だが、そういうわけにもいかない。万が一、災厄が八重に目を付ければ、八重がその時初めて災厄が血縁と知り、絶望に沈み災厄に取り込まれてしまったら。白陽はきっと冷静ではいられない。それに。
「確かに災厄の核となった人の子はいる。そして、災厄と八重には深い血の繋がりを感じる。だが、それだけとは思えないんだ。確かなことはまだ何も言えないが、八重、自分を信じなさい。そなたは全ての神に認められた私の巫女だ」
八重と白陽は、そして眷族たちは、ここで過ごした月日のうちに、互いに信じ合う関係を築けたと白陽は願っている。
「自分と、皆と、そして私を信じておくれ」
「はい、はい……!」
八重は胸元を握って白陽の言葉に頷く。動けぬ白陽は、涙を零し頷き続ける八重を、ただじっと見守っていた。