変化の訪れ
稲の植え付けをしてすぐの頃。山で山菜を摘む八重の前に猪守が姿を現した。猪守は顔を真っ赤に染め上げて、八重を睨みつける。
また何かしてしまっただろうか、と狼狽える八重に、猪守は口を開いて、閉じて、また開いてと繰り返し、何事かもごもごと呟く。
「………………った」
「はいっ! ええと、はい……?」
思わず返事をして、聞き取れずに恐る恐る問いかける八重に、猪守は真っ赤な顔を更に赤らめて大声を出した。
「だから! 悪かった!!」
八重は、きょとんと目を丸くして、猪守を見つめた。
§
猪守は、犬守と話してすぐに猿守を訪ねた。「あれは只の、いや、稀に見るほど信心深い善良な人の子じゃ」と笑う猿守に、納得がいかず押し黙ると、「なんじゃ! 儂の力が信用できんか! よしではそなたの心を暴いてやろう!」と言って追いかけ回された。大笑いしながら追い回されたので、確実に愉しんでいたと猪守は思っている。
なんとか猿守から逃げおおせた猪守は、その日を境に八重を付け回すことを止めた。それでも屋敷に帰り難くて山で寝泊まりし、蜂の世話をしていると、ある日八重が姿を現したのだ。
顔を見せるのも気が重く、まだ信用したわけではない、と様子を伺っていると、八重はしゃがみ込んで手を伸ばし、蓮華を手折った。
それ見たことか、と言ってやろうと思った。どれ程信心深いと言われようが、意味もなく、手すさみに神が丹精込めて世話する花を折るのだ、と。――だが八重は、『白陽様に捧げたくて』と、そう言った。
八重の、その真っ直ぐな瞳からは、それ以外の意図を読み取ることが出来なかった。『余りに美しかったから』『白陽様の心慰になると思って』そんな感情ばかりが伝わってくる。野椎は飛び回って違うとざわめき、葉を揺らす。文句の付け所など、終ぞ見つけられなかった。
その場を立ち去って、それでも、と猪守は拳を握る。――八重の、あの匂いが。
災厄によく似た匂いに、猪守の心はざわめく。忌避感を掻き立てられる。犬守のようには出来ない、と、猪守は拳を木に叩きつけた。
暫くして、新たに神が目覚めたことを猪守は察知する。その中に鼠守が含まれることも。『会いたい』と、そう思って猪守は久方ぶりに山を下りた。
「鼠のばあちゃん」
「あれ、猪の坊、よく来たねえ」
鼠守は、猪守が皆から逃げ回っていると聞いているだろうに、以前と変わらぬ温かい笑顔で猪守を迎えた。
「ばあちゃん、目覚めてよかったな」
「ほんにねえ。巫女殿のおかげだよ」
猪守がその言葉に下を向き、むっつりと押し黙ると、鼠守は「こちらへおいで」と優しく手招く。「ん」とだけこたえ、猪守は鼠守の近くへ寄り隣に腰掛けた。
「坊、今までどうしていたんだい?」
「別に、変わらん。山で蜂の世話をしていた」
「色んなものがだめになってねえ、蜂の巣はどうだったかい?」
「蜂は生きていたが、巣はだめだった。新しい巣箱で一からだ」
「そうかいそうかい、やっぱりねえ」
鼠守は猪守を責めることも、諭すこともしないでただいつも通りにたわい無い話を続ける。穏やかさに、猪守の心がほっと解れた。
「……ちゃんと食べていたかい?」
暫く話続けると、鼠守はそう猪守に問いかけた。猪守はそっと目を逸らす。
「…………食ってた」
「何をだい?」
嘘だとばれているのだろう、鼠守は微笑んで猪守を見つめる。猪守は決まり悪そうに頭を掻いた。
「別に……なんか、葉っぱとか」
「そんなことだろうと思ったよ」
鼠守は笑って立ち上がる。
「何か食べておいき。どれ、握り飯でも拵えてやろうかね」
「米は!」
猪守は弾かれたように顔をあげ、尖った声を出す。
「米は、あの人の子が作ったものだ」
「坊、猪の坊、米に罪なんかありゃしないよ」
鼠守は猪守の頭を撫でて、優しく話しかける。
「坊は鼻が格別良いから、私らじゃ分からないことまで嗅ぎつけてしまうんだねえ」
「……うん」
「辛かったねえ、坊は隠し事が苦手で、ごまかしが効かないからねえ」
「…………うん」
「食べておいき、私の顔に免じて、ね」
「うん」
猪守は、ず、と鼻を啜って頷いた。鼠守にこうまで言われては、もう、諦めてやろうとそう思った。
鼠守が拵えた、小さな握り飯に齧りつく。喰めば、伝わってくるのは何処までも澄んだ信仰心だ。
人の世を案じて、神への感謝と祈りを込めて。あれ程きつく当たったのに、感謝を捧げる神に、猪守が含まれていることも。――もう、認めるより他なかった。
「……こんなに小さくては、食った気にならない」
猪守は涙を一粒零して拗ねたような声を出す。鼠守は笑みこぼれて、「なら、たんと食べておいき」とまた猪守の頭を撫でた。
「ばあちゃん、ごめん」
ぽつりと落とされた猪守の呟きに、鼠守は優しく頭を撫で続ける。
「いいんだよ。でもね、ほら、もうどうしたいか、決まっただろう?」
「うん」
猪守は、八重に謝ろうと、そう決めた。