咲き誇る花を
稲はすくすくと育ち、分けつを迎えた。今は水を抜いて中干しし、出穂を待っている。
先日、猿守が茶葉を、兎守が干菓子を届けてくれた。八重が山から帰り山菜を届けると、家守が鶏守から頂いた湯呑みに茶を注いで、干菓子を出して労ってくれたのだ。
浅蒸しで仕上げられた茶は水色が淡く、若芽のような色をしていた。香り高く清涼感のある味わいの中に、ほのかな甘みと程よい渋み。すっきりとした後味を追いかけ干菓子を口に含めば、優しい甘みがじゅわりと舌上で溶けていく。口の中で転がさずにただ溶けてゆくのを楽しんで、それからまた茶をいただく。目を閉じて余韻を楽しむ、素晴らしいひとときだった。
八重は山の中で山菜を摘みながら、目を閉じてほうと息を吐きその時のことを思い起こしていた。
「すごく美味しかったねえ、ナズナちゃん」
ナズナは野の精だからものは食べないのに、八重は頬を押さえてナズナに話しかける。
「べっ甲飴も美味しかったのに、風味も溶け方も違うんだよ、すごいねえ……渋みのあるお茶がまた良くて、甘味ってすごいねえ……」
干し柿もうっとりするほど美味しいもんねえ……と八重はまたほうと息を吐いた。ナズナはくるくると渦を描くように回り、一度跳ねてどこかへ向かって飛び始める。
「待って、次はどこに行くの?」
すいすいと進むナズナの後をついて、八重は普段足を踏み入れない方向へ歩いていく。周囲を見渡しても大鹿守の姿はない。御加護のおかげで思った以上に歩ける場所が増えているのだ、と八重は感謝の念を胸に歩き続けた。
ナズナは時折弾むようにして、うれしそうに進んでいく。暫くして、ここだ、と言わんばかりにナズナは八重の前で二度飛び跳ねた。
木々の間から覗いた風景に、八重は言葉を失った。山の中に突然現れた広い空間には、一面に蓮華の花が咲き誇っている。蓮華咲き敷くその光景は、まるで薄紅に煙るようだった。
奥には東屋が建っていて、屋根には藤が咲きこぼれている。薄紫をした滝のように垂れ咲く見事な藤は、たおやかで優美。圧巻の光景に、八重は暫く陶然と見入っていた。
「…………すごいねえ、綺麗だねえ」
八重は息を吐くようにささやく。ナズナは誇らしげにくるりと回り、花をこぼした。
「連れてきてくれてありがとう、ナズナちゃん」
八重はナズナに微笑んで、ゆっくりと膝を折った。蓮華の合間には蜂が飛び交っている。八重は東屋を見やって、もしかしたら、と思いを巡らせた。
牛守が以前、「白陽様はよく為歩く御方だ」と言っていた。山にも行くと。もしかしたらあの咲き誇る藤の下に腰掛けて、白陽はこの眺めを楽しんでいたのではないか、と、八重は在りし日の光景に思いを馳せる。
(お届けできたら……)
未だ動けぬ大御神に、この光景を欠片ばかりでも。八重はそう考えて、そっと手を伸ばし蓮華を一本手折った。
「そこで何をしている」
煙る薄紅の向こうから、姿を現したのは猪守だった。猪守は静かに立って、険のある声で八重を質す。
「も……っ申し訳ありません!!」
八重は飛び上がるように立ち上がって、蓮華を握り締めたまま頭を下げた。猪守は、はあと溜め息をついて八重に再度問いかける。
「何をしているか、と聞いているんだ」
「蓮華を……蓮華を手折ってしまいました……」
「何故」
「白陽様に、捧げたいと思い、つい……」
身を縮こませる八重に、猪守は両手を腰にあてて下を向き、はあぁと深い息を吐いた。
「ここは俺の管理する場所だが」
「申し開きの……しようも……ございません……」
八重はとんでもないことをしてしまった、と項垂れる。猪守は顔を上げて、じとっとした視線を八重に送ってぶっきらぼうに言葉を落とす。
「別に、構わぬ」
「えっ」
「構わぬと言った! 人の子が白陽様に捧げるのだと聞いては否やはない!!」
驚いて顔を上げ、目を見張る八重に猪守は怒鳴るような声を返す。そのまま踵を返し、八重に背を向けた。
「特別美しい花を選んで、白陽様にお届けしろ」
そう言い残して猪守は姿を消す。八重は猪守を見送って、手の中の蓮華を見つめた。
(ああ、なんて、お優しい)
猪守は、八重の存在を認め難いのだろうと八重は感じている。現にさっきも『巫女』と呼ばれなかった。それでも、八重が蓮華を摘むことを許してくれた。美しい花を選んで白陽様に届けよ、と。
丹精込めて花を手入れしているのだろうと、この光景を見れば一目でわかる。蓮華は茎をぴんと伸ばして、藤は剪定され、形良くつるを巻き花を咲かせている。
八重は時折飛んでくる蜂を避けながら、特に美しいと思った花を選んで蓮華を摘んでいった。少しでも白陽の心慰になればいい、と願いながら。