茶碗と湯呑み
井守と家守、八重は頭を寄せ合って、大きな盥を前に真剣な表情を浮かべていた。
「よし、ではゆくぞ」
「はい!」
井守がそっと筌の口を開く。さあ今回は何がどれ程入っているか、と固唾をのんだその瞬間、玄関から低い男の声が響いた。
「……雁首そろえて何してんだァ?」
「ひゃああ!!」
八重はたまらず悲鳴を上げた。
「わっ、あ!」
井守は八重の悲鳴に驚いて手元を狂わせた。盥から逸れて鮎が数尾床にこぼれる。びちびちと床で暴れる鮎に、家守は慌てて手を伸ばす。
「わああ、わあ!」
「あぁあぁ、なァにやってんだよ」
呆れたように声をかけてきたのは、鶏守だ。
「鶏守様、驚かせないでいただきたい!」
「すみません、私が大声を出したばっかりに!」
跳ねて暴れる鮎を慌てて捕まえ、全て盥に入れて八重たちはふうと息を吐いた。
「それで鶏守様、どうなさったのです」
「どうしたもこうしたもねェよ。ホラ、頼まれてたもんだ」
用向きを問う家守に、鶏守はずいと手に持った木箱を差し出す。家守は手拭いで手をふき立ち上がって木箱を受け取った。
「おお、有難い」
「全く、頼まれたもんを届けて怒鳴られるんじゃしようがねェや」
「はっはっは、申し訳ない」
やれやれと頭を掻く鶏守に、家守は快活に笑った。木箱を小上がりに置いて、早速箱を開け始める。
「八重殿、これを」
ちょいと呼ばれて八重が近寄ると、家守は箱の中身を見るよう指し示す。覗き込めばそこには、茶碗と湯呑みが一揃え入っていた。
温かみのある白を基調に、貫入の入った茶碗と湯呑みは、外側はそのまま白に、内側には梅の花が絵付けされている。上品で美しい一揃えだった。
「八重殿の茶碗と湯呑みだ。鶏守様がお目覚めになったから、作っていただくようお願いしていたのだ」
八重殿は塩むすびをお気に召していたから屋敷のものは使わなかったが、折角だからな、と家守は笑う。八重は茶碗を持ち上げるのも勿体ないと、そっと指を伸ばして梅の花をなぞった。
「こんなに美しいものを、私が使ってよろしいのでしょうか」
息を詰めるようにささやく八重に、鶏守が近付いてひょいと茶碗を持ち上げた。
「巫女殿のために焼いたんだ、見事なもんだろうが」
「はい、はい、触るのもおそろしいほど美しいです……!」
「気にせず使えばいいさ。もし割ったら金継ぎしてやる」
鶏守は頓着なく八重に茶碗を持たせた。八重は茶碗を持ったまま動けずに、ただほうと息を吐いて茶碗に見入る。
「兎守が来てよォ、『八重ちゃんは梅! 梅だからね!』って騒いでったんだよ。変えたらうるせェからそうしたが、構わなかったかい?」
「はい! 梅が見たいと、先日お話したのです」
鶏守は声色を変えて、妙に高い声で兎守の真似をする。それはちっとも似ていなくて、どこかひょうきんで親しみやすさを感じさせる鶏守の仕草に、八重は頷きながらくすくすと笑みをこぼした。鶏守は笑う八重に、「そいつァよかった」と言ってにかっと笑う。
目止めをする、という家守に茶碗を渡し、八重は鶏守に向かって深く頭を下げて礼をいう。鶏守は「良いってことよ」と勝ち気な笑みを浮かべ、それから八重の肩越しに井守を見やった。
「それにしてもよォ……なんだァ? そのけったいなもんは」
「その、私が作った筌なのです。龍守様が御加護をくださって……」
「ハアー、それでそんな奇妙なことになってんのか。相変わらず加減を知らねェやつだ」
鶏守はずかずかと井守の方へ向かって歩き、盥を覗き込む。「後でいくらか鮎をお届けしようか」と言う井守の言葉に「いいねェ」と返し、それから「見せてみろ」と筌に手を差し出した。
八重は誰も彼もが龍守のことを『加減を知らない』と言うのだな、と思い、笑い出さないように口を閉じてこらえた。鶏守は「どこに入ンだよ」と呆れたように筌をひっくり返す。
「……しかしこれじゃあ、川か海の浅い場所でしか使えねェな。もうちっと目覚めりゃ霧も晴れるだろうに」
鶏守はためつすがめつ手に持った筌を眺め、勿体ないと呟く。それから筌を井守に返し、八重に振り返った。
「どうだい巫女殿、釣り竿でも作ってやろうか」
「釣り竿……ですか?」
「知らねェかい? 棒ッ切れの先に糸と針を付けた、魚を釣る道具だよ」
「見たことはありますが、使ったことはないのです」
里では、鹿の角から削り出した釣り針で釣りをする人を見かけることがあった。ただ筌や投げ縄の方が身近で、更に食器を作ることと釣り竿を作ることが繋がらなかったのだ。
「『火』こそ我が権能ッてな。火ィ使って作るもんは何だって作ってやるさ」
「火を」
「なんだよ、針は鉄ッだろうが」
ぽかんとする八重に、鶏守は呆れたように声をかける。
「海は深ェからよ。霧が晴れたら折角だ、海釣りでもやってみろよ」
「はい……! とてもたのしみです!!」
満面の笑みを浮かべる八重に、鶏守は、おう、と笑い、くるりと踵を返しては「そんじゃァな」と手を振り帰っていく。
鶏守を見送っていると、土間の台所から「こらナズナ、どこに入っておるのだ」と家守の声が聞こえた。振り返って見てみれば、八重の湯呑みの中からナズナがつまみ上げられている。
ナズナは家守につままれて、むずがるように身を震わせる。「これから目止めに米粉で煮るのだぞ。お前も共に煮てしまうではないか」と続く小言から逃げるように家守の手から抜け出し、ナズナは八重の元へとやってきた。
ナズナは八重の手の上で飛び跳ねて、家守はナズナに向かって「お前と言うやつは……」と呆れたように呟く。何か、まだ八重には聞こえない会話を交わしているのだろう、と思い、八重はくすくす笑いながらナズナをつついた。
(もうすぐ、霧が晴れる)
鶏守が何気なく発した言葉が、八重の心にじんと響いた。あの鳥居の先が。霧が晴れて、抜けるような空と遠くまで広がるという海を見渡すことができれば。八重はそれを人の世の災禍が払われる、象徴のように感じていた。