好きなもの
田植えを終え、稲はすくすくと育ち始めた。八重は大きな徳利を抱えて、ナズナと共に町を歩いている。蛇守に御神酒を届けに行くのだ。
「ごめんください」
「まあ巫女様、ようこそおいで下さいました」
蛇守の屋敷の玄関で声をかけると、すぐに蛇守の童子が出迎えてくれる。八重は微笑んで徳利の存在を示した。
「御神酒をお届けに参りました」
「まあまあそれは、有難う存じます。ささどうぞお上がりくださいませ」
童子に歓迎され、八重は屋敷に上がる。そのまま先導されて奥へと向かった。
「本日は兎守様もいらっしゃっておりまして」
「まあ、では私はこのままお暇いたします」
足を止めて、御神酒を預けて帰ろうと徳利を差し出す八重に、童子は振り返って笑顔を見せた。
「いいえいいえ、巫女様を帰らせたとあってはわたくしが主様に叱られてしまいます。さあどうぞ主様のお処へ」
「よろしいのでしょうか」
「ええ、ええ。兎守様もさぞお喜びになることでしょう」
童子が叱られるとあっては帰るわけにもいかない。八重はおずおずと童子について歩き、蛇守の御座所に通された。
「失礼いたします」
「八重ちゃん!」
御座所の奥の高座には蛇守が座っており、そのすぐ近くには兎守がいる。顔を見せた八重に振り返り、弾んだ声をあげたのは兎守だ。
「蛇守様に御神酒をお届けに参りました」
八重ちゃん、という懐かしい響きに面映くもじもじとしながら、八重は御座所に入ってすぐの場所に座り手をついた。
「よかったね、みーちゃん」
「ほんに待ちわびておったぞ。ささ巫女殿、もっと近う、こちらへ」
「はい」
八重は徳利を持って蛇守の近くに寄る。高座の少し手前で座れば、白露が徳利を受け取りに姿を現した。ナズナは白露の頭にぴょんと飛び乗って、はしゃぐように跳ねている。蛇守は白露から徳利を受け取ってにんまりと笑い、ついと手を動かし何処からか朱塗りの大盃を取り出す。
「そなたも呑むかえ?」
「いいよう。私はみーちゃんの呑みっぷりを見てるから」
兎守は蛇守の誘いを断り、八重に話しかける。
「私はね、みーちゃんにお砂糖を貰いに来たの。お菓子を作るんだよ! 小豆がないから作れるものは限られるんだけどね……」
今作れるのは干菓子くらいかなあ、と兎守は耳を後ろにぺたんと倒す。蛇守は大盃を傾けながら、愉快げな笑い声を上げた。
「早う饅頭が食べたいものじゃ」
「みーちゃんお饅頭をおつまみにしてお酒飲むもんね……ね、八重ちゃんはどんなお菓子が好き?」
「は、はい、その」
八重はとっさに答えられず、下を向いて頬を赤らめる。兎守は八重の様子に首を傾げ、思い当たったと耳を立てた。
「呼び方馴れ馴れしかった!? ごめんね、ちゃんと『巫女殿』って呼ぶね!」
「いえ、いえ、その、人の世で暮らしていた頃に、そう呼ばれることが多かったのです。だから嬉しいような、懐かしいような気がいたしまして……」
八重は両手を振り、下を向いたままはにかんだ笑顔を浮かべる。兎守は八重の様子に、ほっと息を吐いた。
「よかったあ。八重ちゃんって呼ぶね!」
「はい、ありがとうございます」
「私のことも、『うーちゃん』って呼んでくれていいよ!」
「それは、その、畏れ多く」
いっそう顔を赤らめて身を小さくする八重に、兎守は「誰も呼んでくれないんだよねえ」と言ってあっけらかんと笑った。断ったことを一切気にしていない兎守の様子にほっと息を吐いて、八重は質問に答えようと口を開く。
「砂糖の菓子は、べっ甲飴以外知らないのです。以前蛇守様にいただいて、とても美味しかったです」
「それは良かった。帰りにまた持たせてやろう」
神酒の礼じゃ、と蛇守は機嫌良く笑う。恐縮する八重に、兎守はそっかあ、と頷いた。
「じゃあ、色々作って白陽様の処にお届けするね。まだ材料が足りないけど、八重ちゃんも食べてね!」
「はい、とてもたのしみです」
八重と兎守は顔を合わせて微笑み合う。蛇守はその様子を見守って、良い酒肴じゃ、と大盃を傾けにんまり笑んだ。
「みーちゃんがお薬で私がお菓子なんだけど、ひーちゃんは反物を作るのが上手なんだよ。八重ちゃんにお礼に着物を贈りたいって言ってた」
楽しみだねえ、と兎守はにこにこ笑う。八重はその言葉に、蛇守が『みーちゃん』だから『ひーちゃん』とは羊守のことだろうと思いながらそっと着物の衿元を押さえた。
「着物は……」
「その着物、大事だった?」
八重はこくりと頷いて、衿をそっと撫でる。
「成すべきことを遂げるまで、この着物を身に着けていたいのです。勝手な言い分でお申し出を断るなど、申し訳ない限りなのですが……」
兎守は、勝手なんかじゃないと首を振って、ことさら明るい声を出した。
「じゃあ、こうやってお出かけするときに着る羽織を作ってもらおうよ!」
ね、それがいいよ、と兎守は手を叩いて笑みを浮かべる。
「どんな柄にする? やっぱりお花かな、八重ちゃんは何のお花が好き?」
「花は、どれも美しいと思います。ですが、そうですね……」
八重はほっとした笑みを浮かべ、好きな花を答えようと思案する。椿も、桜も、野に咲く小花も。どれもとても美しく可愛らしい。――でも今は。
「梅が見たいなと、そう思います」
雪の中に咲く花々よりも、春に満開になる花々よりも。雪解け時期に春の訪れを知らせる、そんな梅の花が。
「梅かあ、いいねいいね! ひーちゃんに伝えておくから、任せて!」
「はい、よろしくお願いいたします」
八重は笑みこぼれて、兎守に頷いた。
屋敷に戻ったら井守と家守に小豆とは何かを教わって、それから牛守に「下段の畑に小豆を植えてほしい」と頼もうと考えながら。