衛を司るものたち
「巫女殿は何も知らぬというに、なあ」
可哀想に、と猿守の声が甘く反響する。まるで八重の心の奥底を暴こうとするかのように、愉快げな笑い声がこだました。八重は霞がかった頭を懸命に振るう。
「いいえ、いいえ、そのようになど思いません」
ほう、と愉悦めいた猿守の声が八重の脳裏に響く。
「ならば許してやってくれるか。無辜の子を責め立てた愚かな神を」
「許すなど、畏れ多いことにございます……!」
八重は弾むように顔を上げて叫んだ。立ち上る湯煙で先が見えない。今自分がどこに居て、何をしていたかも朧気になってゆく。
「何を詫びれば良いかも知らぬ無知を申し訳なく思いこそすれ、悪しざまに思うことなど」
頭が上手く回らない。辺り一面が白く染まる中響く猿守の笑い声が、胸の内を引き摺り出そうと感覚を麻痺させていく。
「神の怒りを買ったのであれば、許しを乞うべきは人です……!」
必死に言葉を紡ぐ八重の眼前に、霞の中からぬうと猿守が迫った。
「良いな、実に良い」
鼻先が触れる程近くから八重を覗き込むのは、黒き黒き双眸。まるで眼孔に磨き抜いた黒曜石を嵌め込んだかのように、猿守の眼は深黒に光っていた。
「そなた心底よりそう思うておる」
瞼を閉じて、再び開いた猿守の瞳は元の様相を取り戻していた。霞が晴れていく。猿守は体を引き、ざばりと音を立てて勢い良く立ち上がった。
「『魔除け』こそ我が権能。確かめずにはおられんのじゃ。許せよ」
また話そう、と大口を開けて笑い、猿守は颯爽と風呂場を後にする。八重は言葉も出ぬまま、それを呆然と見送った。
風呂場の湯煙は晴れ、いつの間にか湯当たりしたようなふらつきも治まっている。ぴちょん、と雫の落ちる音が風呂場に響いた。
八重の何かを、神に試されたのだ、と気付いて八重は得心する。
「…………すごかったねえ、ナズナちゃん」
ナズナはふわりと浮かんで、八重の頭の上に乗り左右に揺れる。許すもなにも、神が試すというのであれば人の身に否やはない。八重はほっと息を吐いた。
明るく快活で人好きのする顔と、心の奥底を覗き悪心を探る顔。どちらが彼女の真の顔である、というものでもないのだろう、と八重は感じた。猿守は、どちらの面も等しく内に宿しているのだ。
八重は感嘆したように、またほうと息をついた。猿守を恐ろしいとは思わない。ただ、『ここに居ることを認められた』と、そう感じて八重は暫くの間猿守が消えた扉を眺め続けていた。
§
「猪守」
静かな夜の山に、犬守の声が落とされた。
「なんだ」
木の枝に寝そべっている猪守は、億劫そうに犬守にこたえる。犬守はふっと吹き出して愉快げに笑い声を上げた。
「そんな所で拗ねていないで、屋敷に帰ればいいだろう」
「うるさい」
猪守は犬守を見ることもせずに、ふん、と顔をそむけた。犬守は肩をすくめ、猪守の寝そべる枝の近くに一息で飛び乗った。
「猪守、俺は巫女殿を認めたぞ」
「何故だ!! あれは災厄に連なる娘だ! お前も気付いただろう、あの匂いに!!」
勢い良く身を起こし、猪守は犬守に向かって叫ぶ。猪守の視線は射抜くように鋭い。犬守は緊迫した空気を気にもとめず、平然とこたえた。
「当たり前だ」
「ならば何故!!」
「巫女殿は何も知らない」
「何故分かる! 人は嘘を付く生き物だろう!!」
「俺を何だと思っている」
納得がいかぬと苛立つ猪守に、嘘など嗅ぎ付ける、と犬守は不敵に笑う。犬守の嗅覚は鋭い。猪守は反論の言葉を失って、ぐう、と低く唸った。
「猪守、巫女殿は赤子の頃に親に捨てられている。そなたも知っていよう、人の子は親を選べぬ」
親兄弟がいるかも知らぬそうだ、と犬守は首を振った。胡座をかいてむっつりと黙り込む猪守に、犬守は話し続ける。
「それに――可怪しいとは思わないか。何故人の怨念如きが白陽様に襲い掛かれたのだ。あれは、何を喰った」
「それは」
「そもそも、あんなもの一朝一夕に生まれる怨念ではない。いつから、何処に巣くっていたというのだ」
人の世であれ、悪しき怨念など大きな災いとなる前に祓われるはずだ、と犬守は悔しげに歯を鳴らす。そして、ふうと息を吐いて空を見上げた。
「分からぬことばかりだ。問いかけるべきは白陽様なのだろうよ」
「……」
黙り込む猪守に、犬守は苦笑を浮かべて枝から飛び降りた。地に足をつけ、猪守を見上げる。
「それでも巫女殿に疑いを持つのなら、猿守に聞けばいい。どうせあれも巫女殿を試しに行くさ」
特に『衛』を司るものの性だな、と笑って、犬守はその場を後にした。猪守は黙ったままそれを見送り、己の手のひらを眺めてぽつりと呟く。
「それでも、俺はまだ納得がいかぬ……」
犬守と話して、いくら血縁とはいえ八重が災厄に関われたはずがないと、そもそも時間も合わないのではないかと、冷静に考えればそう思うしかないと分かりはした。でもまだ、胸につかえる苛立ちを飲み込むことができない。
意地っ張りな性分のせいだ、と理解している。それでもまだ、今は。
「納得がいかぬのだ……」
猪守の力無い呟きが、山の中に溶けていった。