猿守
一日働き、八重がナズナと共にのんびり風呂に浸かっていたときだった。遠くに声が響き何やら騒がしくなって、ガラリと脱衣場の扉が開かれる音がした。「お待ち下さい、今は八……」と焦った井守の声が扉越しに聞こえたかと思えば途中でぴしゃりと遮られ、驚いた八重が何事かと目を向けたとたんに、風呂場の扉が勢い良く開かれた。
「儂が! 風呂に! 来たぞ!!」
徳利とお猪口の入った桶を小脇に抱え、手拭いを肩にかけ、全裸で威風堂々と姿を現したのは猿守だ。軽く足を開き胸を張って、腰に手を当ててどっしりと立っている。
八重は呆気に取られて猿守の姿をぽかんと眺め、同性とは言え無遠慮に肌を見るものではないと気付いて慌てて目をうろつかせた。
「どう、まあどういたしましょう、先に浸かってしまい申し訳ありません。私は失礼いたしますね」
「気にすることはないぞ、共に風呂に入り親睦を深めようではないか!」
猿守はそう言うなり手早くかけ湯をして湯船に入ってくる。風呂から上がろうと腰を浮かせていた八重は、猿守の素早さにまた呆気にとられて猿守をぽかんと眺めた。
「ん? なんじゃ? ばっちくないぞ、神なのだから汚れはせん!」
「あ、いえその、はい。ではお言葉に甘えます」
腰を上げたものか下げたものか迷ったが、固辞するのも失礼にあたるだろうと八重は湯船に身体を浸ける。猿守は「うむうむ」と頷いた後、手拭いを頭に乗せて両の腕を風呂の縁にかけ、ふいぃ、と満足そうな声を出した。
八重は少し身を小さくして、寛ぐ猿守をちらちらと見やる。誰かと風呂に入るなど、ほんの幼いとき以来のことだった。里で八重が温泉に入るのは『巫女の日』、童の頃は婆様に世話をしてもらっていたが、ひとりで入れるようになってからはずっとひとりで温泉に入っていたのだ。
そう思えば、気恥ずかしいような、誰かと共にできることがうれしいような。胸をむずむずとさせて、八重は顎先までちゃぽんと湯に浸った。
「ええ湯じゃのぅ!」
猿守は機嫌良く笑い、手酌で徳利の酒をお猪口についできゅっと飲み干した。そしてまた、ふいぃ、と満足気な息を吐く。
その様子に、八重は蛇守の姿を思い出してくすりと微笑んだ。
「猿守様も、お酒がお好きでいらっしゃるのですね」
「ん? ああ、蛇守か? あやつほどではないぞ。あれは別格だからな!」
猿守はそう言って呵呵と笑う。そしてまたお猪口に酒をついで、今度はちびりちびりとゆっくり酒に口をつけた。
「しかしこの酒は美味いな! 良きことじゃ! 米も分けてもろうたぞ。あれも実に佳良であった」
「まあ、それは良うございました」
八重は喜んで顔をほころばせる。猿守はにこやかに頷いて、言葉を続けた。
「牛守と畑もやっておるのだろう? 犬守とは山へ行ったとか」
「はい、日々牛守様にたくさんのことを教わっております。犬守様には先日秋の山まで案内していただいたのです」
「そうかそうか、それは結構!」
猿守は快活に笑って、それで? と八重に言葉を促す。猿守は明るく聞き上手で、会話は弾んだ。
牛守がとても頼りになること、胡瓜を冷やして共に畑で齧ったこと。犬守からは、また秋の山に行きたければ声を掛けろと誘ってもらっていること。秋の山は術の濃い場所にあるらしく、ひとりで行かぬようにと言い付けられている。
龍守から加護をいただいた筌は信じられないほど魚が入って大慌てをしたし、小山のように積まれたわかめもいただいた。井守や家守と揃ってとても食べ切れないと途方に暮れたのだと言えば、猿守は「加減を知らぬやつじゃ」と呆れたように呟く。その様子が牛守とそっくり同じで、八重はたまらず笑い声をあげた。
蛇守からはべっ甲飴をもらったこと、初めて食べた砂糖菓子が甘くて驚いたこと。それから、また神酒を持って蛇守を訪ねるのを楽しみにしていること。
家守の作る料理はとても美味しくて、毎日の食事がたのしみなのだと八重が言えば、猿守は「それは食べに行かねばならんな!」と笑った。
ナズナも楽しげに舞って湯に花を撒く。打てば響くような小気味よい会話はとてもたのしくて、こんなに喋ったのは久方ぶりだと八重は息をついた。つい余計なことまで喋った気がしたが、お互い肌を晒して共に湯に浸かっているのだから、これ以上取り繕うことは、何もないように感じられた。
なるほど、里で皆が言っていた「裸の付き合い」とはこういうことだったのか、と八重が感心していると、猿守がやおら口を開いた。
「しかし忌々しい神もおるじゃろう?」
「はい……?」
不意を突く猿守の言葉に、突然何を、と八重は面食らう。
「猪守じゃ。あれは一度思い込めば融通が効かぬ。まこと面倒な男子よ」
猿守は八重に視線を向けて、にい、と笑った。
「いえ、そのような」
八重は戸惑って猿守の顔を見つめる。酒の匂いが辺りに漂う。湯煙が立ち上り、周囲が白く煙る。
急に湯当たりをしたのかもしれない、と八重は額に手を当てた。くらくらと、思考に霞がかかる。
「のう、巫女殿」
霞の先で、猿守の愉快げな声が響いた。