秋の山
田植えを終えて稲が青々と育った頃、八重はナズナと共に山へ行こうと、屋敷の裏手にある山路に向かった。
「巫女殿」
山へ入ろうとしたそのときに、突然上から声が降ってきた。どこから声が、と辺りを見回す八重の前に、木の上から音も立てずに男神が降り立つ。姿を現したのは、犬守だった。
「山へ行くのか?」
「はい。ナズナちゃんと、山菜を採りに行くのです」
「そうか。俺も今から山へ行くのだが、良ければ共にゆくか? 秋の実りが採れる場所に案内しよう」
「まあ、よろしいのですか?」
「ああ。ついてくると良い」
犬守は穏やかな笑みを浮かべて八重を誘う。八重はよろこんで返事をし、犬守の後をついて歩いた。
普段は入らない方向へ歩いて進む。険しく道なき道を歩けば、ちらちらと何度も後ろを確かめる犬守と目が合った。
「巫女殿は」
またふり返った犬守が口を開いた。
「山路を歩き慣れているのだな。誘ったはものの、置き去りにしてしまうのではないかと後から気付いたのだ」
「ええ、はい」
立ち止まった犬守に合わせて足を止め、八重は言葉を返す。
「私は山で育ったのです。幼い頃からずっと山を歩いておりました。それに、たくさんの御加護を頂きました。お陰様で近頃は疲れることもないのです」
「山で? 町や都に住んだことはないのか?」
「はい。山中の、小さな里で育ちました」
ふうん、と犬守は顎に指を当てて、それから柔らかく笑う。
「まだ少し歩く。歩きがてら、どんな処で育ったのか聞かせてくれ」
「はい!」
八重は喜んで返事をし、揃って歩き始めた。ぽつりぽつりと、だが途絶えることなく言葉を交わす。八重は顔を綻ばせて、御山はどんなに美しく実り豊かであったか、里の皆はどんなに勤勉で優しかったかを語り続けた。子どもたちと里を駆けたこと、一緒に蛇や蛙を捕まえて、歌を歌ったこと。山を歩いて山菜を採ったこと、どんぐりを拾って、駒を作って遊んだこと。塩を炊く男衆。飯を炊く女衆。田んぼや畑、里の風景……まだ一年しか経っていないのに、とても懐かしく、遠く感じられた。――そして、あの飢饉が。
「……そうか」
八重の話に楽しげに相槌を打っていた犬守が、声を落とした。
「それは心配なことだな。その里には、親や兄弟もいるのだろう?」
「ああ、いえ、その……」
八重は少し言い淀んで、手をさすった。
「生みの親はいないのです。いえ、どこかにはいるのかもしれませんが、赤子の頃に、どこからか里に連れてこられたのだ、と聞いております」
「そうなのか?」
「はい。そのまま里長が、爺様が預かり育ててくださいました」
どこか心配そうに八重の手に乗るナズナに笑みを浮かべ、八重は空を見上げる。
「私は、里の皆から多くのものを貰いました。だから、血の繋がりはなくとも、親は爺様と婆様で、家族は、里の皆なのかもしれません」
「ならば、皆を守らねばならぬな」
犬守は足を止めて、八重を振り返り不敵な笑みを浮かべる。
「大丈夫だ、そなたの想いは届く。俺が、目覚めた皆が、守ってやろう。――さあ、この辺りだ」
力強い犬守の言葉に胸を熱くして、促されるまま辺りを見渡せば、いつの間にか山の景色が変わっていた。赤や黄色に色付く木々に、足元には枯れ葉とどんぐり。少し先には松林が見える。
「まあ、いつの間に……!」
「術がかかっているからな。俺は狩りをしてくるから、この辺りで何か採っているといい。余程遠くへ行かない限り見つけられるが、危ない所には近寄るなよ」
「はい!」
八重の素直な返事に、よし、と返し、犬守は姿を朧げにする。八重が目を瞬かせると、犬守がいた所には一匹の犬が立っていた。
「いぬ、い、犬守様?」
ピンと立った耳に、黒い体毛。眉に丸く二つと、口吻部や胸の辺り、手足の先は足袋を履いたような白。くるりと丸まった尻尾を持つ黒い柴犬だ。
「狩りはこの姿の方がやりやすい」
黒柴は犬守の声でそうこたえると、疾風のように駆けていった。八重は呆然とそれを見送って、ナズナに向かって「……そういえば、龍守様も龍のお姿になられるものねえ」と呟いた。なんだか、うまく繋がらなかったのだ。もしかして他の方々も名に付いた生き物の姿をお持ちなのかしら、とナズナに話しかけながら、八重は秋の実りを探し始めた。
「待て待て待て」
余り遠くへ行かないよう気をつけながら背負籠に色々なものを入れていると、犬守が戻ってきた。八重が下を見下ろせば、足元には丸々と肥えた雉を持った犬守が呆れ顔で八重を見上げている。
「巫女殿、どこに登っているんだ」
「その、木通を見つけまして……」
木の上で木通を握っていた八重は、そっと背負籠に木通を入れて恥じらいながら木から降りた。
「ははっ巫女殿は存外お転婆だな」
「袴は着物よりも、木に登りやすかったです……」
照れくさそうにする八重の周りをナズナが回る。犬守はその様子に、もう一度愉快げな笑い声を上げた。
「さあ、そろそろ戻ろう」
犬守は笑いながら歩き始める。八重はその後ろを歩き、何が採れたかと声を弾ませて話しながら帰路についた。
山では栗やむかご、たくさんの茸を見つけた。木通も、里での秋の楽しみだった。八重は歩きながら、秋の御山に思いを馳せていた。