目覚めと、そして
分けつが始まり中干しを、出穂してたっぷりの水を。畑の野菜も背を高くして、花や丸々とした茎、根をつけ始めた。
稲の方が育ちが早いことに八重が首を傾げると、牛守は「神米は特別だ」と言う。神気を蓄える力が別格なのだ。八重は、青く実をつけ風に揺れる稲穂をじっと見つめた。
日々は、穏やかに過ぎてゆく。八重は毎朝の歌の奉納で、大気を意識するようになった。大気に宿る信仰心。八重が歌を通して束ね届けているのは、天を仰いで一心に捧げられる人の祈りなのだ。いつしか八重は、人の世から送られる信仰心をありありと感じ取れるようになっていた。
一度、龍守がわかめをどっさりと持って白陽の屋敷を訪れた。「龍守様! わかめばかりかように、どうせよと言うのです!」と家守は悲鳴を上げて頭を抱え、龍守はそんな家守を前に「巫女殿が美味いと言うたのじゃ」と胸を張る。
小山のようなわかめを前に、流石に食べ切れずに腐らせてしまう、と頭を悩ませ、八重たちは揃って牛守に相談した。牛守は大量のわかめに苦笑を浮かべ、「……まあ、雲海の神気が畑に宿るだろう」と肥料に使うことを提案した。洗ったわかめをよく乾かして、細かく砕いて畑に撒くのだ。山の落ち葉もよく熟成させて、たまに畑に撒くらしい。山の神気をいただくのだ。
龍守に、わかめを肥料にしたいと断ると、龍守は八重の頭に手を乗せて「巫女殿はかように小さいからのう」と笑った。井守と家守は「龍守様の本来のお姿を基準にするのが間違っておるのだ」とぶつくさ言いながら大量のわかめを洗い続けた。
わかめを乾かしている間にも、米は育ちやがて色付き、重く頭を垂れる。黄金色に輝く稲穂を見て、八重は理解した。
(見える、気がする)
米の一粒一粒が、柔らかな光を宿し風に揺れる。それは、歌の奉納の際に奔流のように八重を通り過ぎていく光の粒と同じ、信仰心だ。
「見えるか、巫女殿」
「はい……」
稲穂が風に揺れるたび、淡い光が残像のように田面に広がる。八重は鎌を手に、黄金の光に足を踏み入れた。
刈り取る稲穂は、ずっしりと重い。正しい塩水選と、それから何よりも、牛守の目覚め――豊穣の加護が上天にもたらされたのだ。八重は黄金に埋もれるようにして、稲を刈り続けた。
八重が稲を刈る間に、牛守は稲干し台を組んでいる。小屋にあれども八重には使い道のわからなかったものが、牛守の手によって正しく扱われていく。
刈り終えた稲束を稲干し台に掛け、八重は自然と両手を合わせて頭を垂れた。
「稲穂を、白陽様に奉納致します」
八重は白陽の前に稲穂を積み上げ額づいた。
「ああ、受け取る」
稲穂は光の渦となって掻き消える。白陽の指先が煌々と光を湛えた。
「八重、手を出しなさい」
「はい」
八重は頭を上げて、両手を差し出す。空中に燦然と光が集まり、雫となって八重の手のひらの上に落ちる。しゃん、と高く澄んだ音が蒼天に響いた。
「八重、よくやってくれたね。此度は三柱、目覚めさせることが出来る」
「はい……!」
日々の働きと、牛守の加護の賜物だった。八重は頭を垂れ、光る両手に額を押し当てる。
「猿守、犬守、猪守を目覚めさせるんだ。猿守は魔除けを、犬守は防護を、そして猪守は怪我平癒を司る。さあ、鳥居へ行っておいで」
「はい、行って参ります!」
八重は立ち上がり、町へ向かって歩き出した。
灰の町を進む。色づいた屋敷に、牛守と、龍守と、蛇守の姿を思い出す。これから、もっと町が色づいてゆくのだ。八重は鳥居の下から煙る霧の先を見つめ、町を振り返った。
その場に座し、拍手を打つ。澄んだ鈴の音がしゃんと響いた。
「上天に御座す猿守、犬守、猪守に、かしこみかしこみ白す。白陽様より預かりし御力、献じます。目覚め給え、祓え給い、清め給え」
合わせた手が光り輝く。しゃん、しゃんと鈴の音が鳴り響く。一際大きな音が鳴った瞬間、光が弾けた。吹き抜けた風に瞼を開けると、目の前には一柱の女神と、二柱の男神が姿を現していた。
ふわふわと長く垂れる亜麻色の髪に、雀斑が点々とある赤らんだ頬。知性を感じさせる黒目がちな女神は、松葉柄の着物を纏っている。そして男神二柱は少年神。気の強そうな眼差しに、墨色の垂髪と涅色の垂髪。共に童水干姿をしていた。
守護神らが手を打ち鳴らす。手元から、守護の光を広げるように、闇を祓うように、清い波動が発される。八重の視界の先で、屋敷が三軒、色を取り戻した。
猿守と犬守が八重の頭上に手をかざす。加護の光が二粒、八重の頭に落ちて弾けた。
「礼を言うぞ、巫女殿」
「そなたのおかげで目覚めることが出来た」
深く頭を垂れる八重の視界に、ざりと音を立てて踏み出された足がうつる。猪守が前に一歩踏み出して、八重の頭上に手をかざした。
「そなたのお陰で目覚めることができた。その礼は言おう、対価として加護も与えよう」
加護の光は八重の頭に落ちて弾ける。
「だが、そこまでだ」
堪えきれぬ、燃え盛る怒気を孕んだ声に八重は頭を上げて猪守を見上げる。猪守はぎりと歯を鳴らし、八重を睨みつけた。
「俺は許さんぞ、人の子。災厄を引き起こしたのはそなたらの欲深さだ!」