お使い
翌日、家守はふと八重に声を掛けた。
「八重殿、蛇守様に御神酒をお届けしようと思うのだが、八重殿が届けてはくれないだろうか?」
「ええ、はい。私は構いませんが、お届けするのが私でよろしいのでしょうか」
牛守が目覚めてから、八重が山に行く間の水の世話は牛守が見てくれている。草引きやなんかも一緒にやるので、以前よりもずっとはやく、楽に終わるようになっていた。稲も青々と育ち、分けつを待つばかりだ。おかげで八重は今、ひとりで米を作っていた頃よりよほど自由に動けるようになっていた。
「ああ。八重殿は今までずっと働き詰めだろう。少しお役目から離れて、息抜きなさるといい。きっと良いものがいただけるぞ」
「まあ、なんでしょう」
くすくすと笑い、八重は蛇守の姿を思い起こした。『妖艶』と表すのがしっくりとくる、艶めかしいお姿。『良いもの』が何かは想像もつかなかったが、あの美しい女神に会えることは、それだけで心が浮き立つ思いだ。日々の働きはやりがいがあり、希望はあれど辛く思うことはない。だが蛇守は、病を鎮めてくれているのだ。直接会ってその礼が言える機会は、望んでもみないことだった。
午前は田んぼに出て、牛守と田畑の世話をする。八重は仕事をしながら、牛守に午後からは蛇守のところへ行くとあらかじめ断った。「蛇守のところへ?」と意外そうな声を出す牛守に、八重がお届け物をするのだとこたえると、牛守は「成る程、酒だな」と大きな声で笑った。
畑仕事を一段落つけて屋敷に戻ると、井守が酒の入った大きな徳利を用意して八重を待っていた。
「おお、八重殿。これをお願いしてよろしいか?」
「はい、おまかせください」
「重くはないだろうか? 蛇守様の御屋敷まで、俺がお運びしようか?」
「いえ、大丈夫ですよ。最近、なんだかとても力持ちになったのです」
八重は胸を張って得意げに腕を曲げて見せる。いかにもか弱く見える細腕は、最近本当に見た目を裏切る力を発揮するのだ。井守は八重の仕草にははと笑って、八重に徳利を渡した。
「御加護の賜物であろうな。ではお任せする」
「おお八重殿、蛇守様の御屋敷に向かわれるか? よろしくお伝えしてくれ」
「はい」
家守も奥から顔を覗かせ、八重を見送りに出る。
「しかし、あの御方も酒が作れるようになった途端にお目覚めになるのだからな」
「偶々とはいえ、流石と言いたくなるものだ」
井守と家守は顔を見合わせて笑い合う。
「蛇守様は、お酒がお好きでいらっしゃるのですね」
「ああ、いつも米ではなく酒で寄越せとおっしゃるほどに」
「正に蟒蛇でいらっしゃる」
くつくつと笑う井守と家守に、八重は意外なような、しかし酒を呑む姿がしっくりとくるような、矛盾する気持ちを抱えて徳利を持ち直した。
「では、行ってまいります」
手を振るふたりに見送られ、八重は町に向かって歩き出した。町に色を取り戻した屋敷は三軒。白陽の屋敷を背に、左手前から奥に向かって『鼠・牛・虎・兎・龍・蛇』、右手前からは『猪・犬・鶏・猿・羊・馬』の順で屋敷が並んでいると、八重はふたりから教わった。左側の一番奥。蛇守の屋敷を目指して八重は歩いていく。
「少し緊張しちゃうね、ナズナちゃん」
鳥居の近くの色付いた屋敷の前で足を止め、徳利に乗って付いてきたナズナに声をかける。八重を力づけるように跳ねるナズナに和まされ、八重は、ふ、と笑みを浮かべた。
「ごめんください」
蛇守の屋敷の玄関をそっと開け、八重はためらいがちに声を掛ける。すぐさま「はあい」と返事が返って来て、年の頃は十くらいに見える、稚児髷に袴姿の童子が顔を出した。
「まあ、巫女様。御用は何でいらっしゃいましょう」
「蛇守様に、御神酒をお届けにまいりました」
「それはそれは、有難う存じます。ささ、こちらへ」
「お邪魔いたします」
童子に案内され、八重は屋敷に上がり廊下を進む。通されたのは、蛇守の御座の間だった。
童子は「ごゆっくり」と言って下がってゆく。正しい作法がわからず、八重は戸惑いながら奥の高座に座る蛇守に向かって頭を下げた。
「御神酒をお届けにまいりました」
「まあまあ、巫女殿」
鈴を転がすような、甘く艶めいた声で蛇守はこたえる。御座の間は薄暗く、香が焚かれ、蛇守の持つ煙管から紫煙がくゆっていた。
「神酒を届けてくれたかえ。それはそれは、ほんにうれしいこと。さ、こちらへ」
蛇守の美声は、酩酊感を纏い甘く響く。八重は言われるまま蛇守の前へと歩み出て、高座の少し手前に座り徳利を差し出した。
「新米新酒の中汲みと伺っております」
ナズナはぴょんと徳利から八重の膝の上にうつる。しゅ、とかすかに衣擦れのような音が部屋の隅の暗がりから聞こえ、八重はそちらに目を向けた。
黒闇から、ぬるりと、胴が八重の腕くらいありそうな太く大きな白蛇が姿を表す。白蛇は滑るように八重に近付き、徳利の前で鎌首をもたげる。
蛇守は艶やかな唇を弓なりにして、にんまりと笑った。