牛守との農作業
「さあて、では、やるとするか!」
牛守の力強い言葉を皮切りに、農作業が始まった。八重が脱穀をしている間に、牛守は下の段の畑を耕す。太く逞しい両腕から振り下ろされる鍬は力強く大地に刺さり、驚くほどのはやさで土を起こしていく。
脱穀が終われば、翌日には種籾の選別を行った。まずは真水で軽い種籾を除く。その後は牛守の助言の元、塩の具合を調整して更に浮く種籾を取り除いた。八重と井守は以前塩水選を一度で終えたが、牛守は塩水を変えて何度か種籾を選別するようにと八重に助言した。牛守が指差すと桶に水が入り、選別が終わると塩水は浮いた種籾と共に牛守が空に浮かせる。とても八重には扱えないような、大きな大きな和樽に移されていくのだ。
選別を終えて、溜めた塩水はどうするのだろう、と思ってみれば、牛守はなんとも気軽に水路に向かって「おおい、龍守」と呼びかける。……それで正しかったのか、という思いと、里で畑から誰かに呼びかけていたような、そんな懐かしい響きに八重はつい吹き出した。ここにいるのは八重以外、皆神なのだ。きっと、昔からずっと、どこかで見たことがあるような当たり前の暮らしを神々も過ごしていたのだろう。
重い水を扱う作業は、牛守と龍守の御力で驚くほど簡単に終わっていく。塩水選を行っていた桶には、最後まで沈んでいた立派な種籾だけが残されている。八重はそれを真水で洗いながら、ありがたいことだ、と感謝の念を抱いていた。この胸の神への感謝が種籾に宿りますように、と祈りながら、八重は丁寧に丁寧に種籾を洗い、麻袋に詰めて溜め池に沈めた。
翌日には、溜め池に沈めていた種籾を引き上げ苗箱に蒔いた。苗を育てている間は田起こしだ。「さあ」と牛守に差し出された鍬を振るうと、不思議なほど鍬は以前より軽く、やすやすと土に刺さった。
驚いて八重は牛守を振り返った。牛守は、野菜を植えるために隣の畑を耕している。力強く鍬を振るう牛守の姿に、八重は自分の両手をじっと見つめ、ああ、これが頂いた加護なのだ、と両手を握りしめた。
田起こしは前とは比べ物にならないはやさで終わる。八重はふうと息をついて額の汗を拭い、岩清水を飲んだ。ナズナはそんな八重の周りで嬉しそうに舞っては花を散らす。
「その野椎は巫女殿にたいそう懐いているな」
「はい、嬉しいことに、ずっと一緒にいて、助けてくれるのです」
鍬を肩に担いでやってきた牛守に、八重は振り返って返事をする。牛守は八重とナズナの親しげな様子に目を細め、ナズナに手を伸ばした。
「名を付けてもろうたか。そうかそうか、それは良かった」
手の上で興奮したように弾むナズナに、牛守は喜ばしそうに笑みをこぼす。八重は首を傾げ、口を開いた。
「牛守様は、ナズナちゃんの言葉が聞けるのですか?」
「ああ、簡単な言葉しか話さぬが、意志は伝わるぞ。巫女殿もいずれ聞けるようになるだろう」
「まあ……! それはたのしみです!」
八重は牛守の言葉を聞いて笑みこぼれる。ナズナの言葉がわかるようになるなど、楽しみで楽しみで、待ち切れない思いだった。
「さて、巫女殿。畑には何を植えようか?」
「はい、今は何が植えられるのでしょうか」
上天はいつも春のように暖かく、どの季節の野菜を植えたものか、と八重は首を傾げた。牛守は八重の言葉に、腰に手を当てて呵呵と笑う。
「何でも良いぞ。人の世と違い、ここではいつでも何でも育つ」
「まあ、そうなのですか」
「うむ。同じように思えるが、違う存在なのだ。人の世の作物のように育つわけではない。そも、神気を糧に育つのだからな」
「神気……」
「この上天の、大気や光、水、大地に宿る万物のもとである気だ。我らもそれを糧とするし、物を食うというのはすなわち食物に宿る神気を食う、ということだ」
「信仰心とは、また別なのですか?」
「神気があれば存在し続けられる、といったものだな。神としての力は信仰心なくしては大して振るえぬ。特に人の世に対しては」
成る程、と八重は納得し、田畑を眺めた。深い眠りについてもいずれは目覚める、とはそういうことなのだろう。神気を糧に目を覚ますのだ。そしてそれには、信仰心を得るよりも遥か長い時がかかる。――そして。
「不思議に思っていたのです。肥料もなく、知識もない私が育ててなぜ神米があんなに立派に育つのか、なぜ年に四度も米が実るのか……」
里で肥料といえば、灰であったり、藁や籾殻を発酵させたものであったり、それから、肥溜めに溜めて熟成させた糞尿であった。
八重はじっと、自分の手の爪を見つめる。爪は、ある程度から伸びなくなった。髪もそうだ。身体の肉付きは良くなってきたが、肥えたというよりは健康な状態に戻ろうとしているように感じられる。そして、一度も不浄を必要としない。
最初は、力の湧く特別な岩清水しか摂らないからだろうか、と不思議に思った。だが米を食べても、山菜や海藻を食べても、川魚を食べてもそれは変わらなかった。人の世とは違うものを食べていたのだ。月の障りも止まっているが、日々働くに便利だ、程度に思っている。
「やはりここは、神の御座す処なのですねえ……」
「上天であるからな。さあ巫女殿、何が食いたいか?」
牛守は、何でもござれだ、と腕を組んで八重を促す。八重は牛守に笑顔を返し、口を開いた。
「はい、では大根と、胡瓜と、里芋と――」
旬を問わず、何でも作れるなど夢のようだ、と思いながら。