第三想・想曲/陸〜残滓〜
飲まれることのなかった紅茶を片付け、埃が溜まりやすい本棚の掃除が終了した時、彼は帰ってきた。
「お帰りなさい。お風呂が沸いていますが、入られますか?」
「ん」
傘も差さずに雨の中歩いてきて全身ずぶ濡れの彼は、短い返答を残して部屋から出て行った。視線を下に落とし、彼が立っていた入り口の床に微かな水溜りが出来ているのを認めれば、風呂を用意しておいて間違いなかったとラキは微苦笑を刻む。
「お風邪を召されますのに」
台所から雑巾を持ってきて濡れた廊下やら床を拭きながらふと洩れた自分の言葉に、ラキは笑ってしまう。
風邪などと。随分と、人間臭いことを口にしたものだ。彼に仕えてからもう既に何十年と経つのに、まだこの魂は、人間だった頃の事を克明に憶えている。
主が耳にすれば、鼻で笑われてしまうだろう。
「…っと。そろそろ、紅茶の用意をしなければ」
風呂場へと続く扉から響いてきていたシャワーの流れる音が途切れた事に気付けば、ラキは慌てたように残りの水濡れを拭き取った。台所へと戻り、汚れた両手を綺麗に洗ってから棚に仕舞われた数多の紅茶の缶の中から桜の花が描かれた物を選び取る。
帰ってきたら淹れるよう頼まれていたダルベシアの芳醇な香りがふわりと立ち昇り、ラキはその見事なまでな匂いに満足げに頷く。甘みを抑えたチョコレートケーキと共にお盆に載せ、台所を出た。軋む音を立てる板張りの階段を上り、部屋の扉をノックすれば了承が返る。