第二想・想曲/伍~涙雨~
耳元で雨の音が鳴っている。まるで天が泣いているみたいだと、ぼんやりと思った。
徐々に意識がはっきりしてくる。焦点の合った視界に、小柄な背中が映った。
何をするわけでもなく、彼はただ、咲き誇る菖蒲の中に立ち尽くしていた。その様はまるで、中世の絵画のように美しい。
声を掛けることも忘れて彼女がその姿に見惚れていると、ゆっくりと彼が振り返った。
どくん、と鼓動が跳ねる。その深緑の瞳の輝きが、あまりにも綺麗で、残酷だったから。心の奥底まで見透かす、深い瞳。
「こんにちは。如月若菜さん。いえ、澤田若菜さんと、お呼びしたほうがいいでしょうか」
宝石のような美しい深緑の双眸を持ったその少年は、外見に似つかわしくない大人びた微笑を浮かべて見せた。
「…どうして・・私の名前を…?」
驚きを含んだ若菜の問いかけに、しかし彼は答えなかった。淡い微笑を湛えたまま、再び彼女に背を向けてしまう。
若菜は数秒躊躇し、恐る恐る少年の隣に並んだ。彼女の視界を埋め尽くすのは、落ちてくる雨にも負けずに懸命に花弁を広げている菖蒲だった。そのあまりの美しさに、無意識のうちに感嘆の溜め息が洩れる。
「…あら?」
力強く咲き誇る数多の花の中で、彼女の足元に植えられた一輪の菖蒲だけが下を向いていた。その花弁を伝って雨が地面へと落ちる様は、まるで…。
「まるで…泣いているみたい…」
膝を折ってその菖蒲を眺めていた若菜の口から無意識のうちに言葉が洩れた。
少年の瞳が若菜へと動く。彼女の視界の先にある菖蒲を認めて、淡く微笑んだ。
「その花の流す涙は、貴女の為のものです」
発せられた言葉の意味が理解出来ず、若菜は訝しげな視線を傍らに立つ少年へと向ける。
「死のうと、思っていたのでしょう?」
静かな問いかけに、若菜はその黒曜石の瞳を見開いた。何故彼がそんな事を知っているのか、訊きたくとも凍りついた喉は思うように言葉を紡いでくれない。
「守れなかった、命の為に」




