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昨日見た夢は今日の続き~終わりは始まりに繋がる~

作者: 若桜

昨日見た夢は今日の続き~終わりは始まりに繋がる~ 1


ある花は…芽を出し


茎を伸ばし

葉をたくさんつけ


やがて 蕾は膨らみ

耐えきれなくなった

美しさを

太陽の下に咲かせる


美しくなるまでにかかったのは

数え切れないほどの

時間

やがてその美しさは朽ちて行く

美しさまでにかかった時と比にならない

早さで


枯れてしまった花は

花と呼べるのか


呼べずとも

果実の中には種子が入っている

新しい…が入っている


新しい物語が始まるのである


いつだって、そう

終わりは訪れ

そして

始まりも訪れる


違う物語が今日も何処かで

終わり、そして


始まる












白い…

真っ白だ…

これは多分夢の中

色がない

あぁ、じゃあこれは無色透明と

言った方が正しいのかもしれない


俺はその「無色透明」の世界に横たわっている

あったかくて、ぬくぬくしてて

いつまでもこの世界にいたいと思ってしまう

誰にも出会わず

誰からも傷つけられず

誰にも傷つけることなく

無音の世界で命が削られるのを待つだけ


それはそれで良いかもしれないが

野球がない

皆がいない

そんな世界ちっとも楽しくない

あ…声が聞こえてきた

教室のざわめきのようだけど

コレはあいつらの…

俺はその音がする方へ走る

歩いてなんかいられない

早くそっちに行って

皆と野球がしたい


一歩ずつ確かに走っている

走っているのに

何で?遠のく?

そして、暗くなる 夢の中

どうして…届かない

俺の声が、足が

足…?

俺の、足…?








『ピッピッピッ……ピピピピピピピー!!』

「んだぁ!?」

俺、三浦将太は抱き枕横に置いてあった携帯電話の目覚まし音で起こされた。

時間を見ると……

「まだ4時じゃあ……」

何だと思い日付を見ると

「試合だぁ!」

ばっちり目が覚めた。

おかげで見ていた夢の内容がすっ飛んだ。

どーせ、くだらない夢だろうと思いながらパジャマ代わりの中学の頃穿いていた夏のジャージ脱ごうとした。

でも中々脱げないな、と思ったら自分の左足に引っかかっていた。

足……?

その時、部屋のドアがノックされ

「将太、試合だからって朝から騒ぎすぎよ」

母さんに注意されてしまった。

ってか、ノックするのは良いけど俺が返事してから入れよ、と俺は注意したくなったが、朝、まだ4時を過ぎて間もないのにケンカするのは気が引けたので止めといた。

着替えが終わり、閉ざしていたカーテンを開けた。

まだ、4時15分くらいだからかな。

夏らしくない空だった。

雲がたくさんあるから暗いし。

でも、これからだんだん暑くなる。

口元がうずうずして叫びたくなったけど堪えた。

朝からそんなことしたら近所迷惑になってしまう。

母さんに朝ごはんができたと告げられ、俺は階段を下りた。

しっかりした足で。

リビングに入ると白飯と味噌汁がすでにテーブルの上に置いてあった。

まだ、こんなに早いのに母さんってすごい

な、と思う。

「ボケッとしてないで早く食べなさい」

「……いただきます」

敵わないと思う。

味噌汁をズズっと飲みながらテレビを付け今日の天気予報を見る。

快晴・最高気温33℃・降水確率0/0……

『日射病にならないよう激しい運動……』

そこまでお天気お姉さんが言うと俺はテレビを消した。

控えられません。

「何でテレビ消すのー?」

母さんの言葉には返事せず、俺は最後のご飯の一口を味噌汁と一緒に掻きこみ

「ごちそうさまでした」

と言い、俺はまたテレビを付けた。

そこには車のCMが流れていた。


靴を履き、下駄箱の横に掛けてあるチャリの鍵を取った。

「じゃ、行ってきます」

「後で行くからね。忘れ物、ない?」

「うん」

「行ってらっしゃい」

ひらひらと手を振る母さん。

だけど俺は何も返さずに、ドアを開けた。

いつもより重く感じたのはきっと、気のせいだろう。


学校に行く道はサイクリングロードで、それに今日は土曜で今の時間は5時ちょっと過ぎ。

毎朝ここで散歩している人も流石にこの時間はいなく、いるのは川で泳いでいる魚と土手にいる鳥たちぐらいだろう。

だから、俺は朝からうずうずとしていたこの口を思いっきり開けて叫ぶことにした。

言葉にならないこの喜びは少しばかり重くて、だからこそ発散して軽くしたかった。

俺のこの叫びできっと魚や鳥たち―何を言ったのかはわからないだろう―は驚いただろう。

何を叫んだかって…いうと、それは。

言葉に表せないことだ。


学校に着き、チャリから降りると、剛がやって来た。

「っはよ、剛」

「おはよ~」

緊張感の欠片もない笑顔をする、剛こと上川剛。

かみかわ、という苗字が言い難いという理由で剛と呼ばれている。

「今日さ、」

俺が話しかけると

「ん?」

生返事が聞こえたので俺は続けた。

「試合だな」

「うん」

横顔を見ると、何当たり前なこと聞いてんの、という呆れた顔でなくキラキラした目をしていた。

緊張はなくても楽しみという気持ちはあるんだなと、隣で歩いていて俺は感じた。


今日は7月に入って2度目の土曜日。

大会初日である。

そして、3年にとっては最後の夏の大会が始まる。

2年の俺にとっては最後ではない。

だが、思い入れはたくさんある。

今日は、開会式と開幕戦が行われる。

そして、その開幕戦をする高校が鍵野斎条高校なのだ。

2年連続で。

珍しいことが2年も続くもんなんだな、と俺らは思ったが、1番驚いたのは、くじを引いた現在キャプテンの飯田さんだろう。

その報告を受けたのは……いつだったか忘れたけど、その時マネージャーの美紗とアリスの二人は「またかよ」という顔をしていたのは覚えている。

俺もそんな思いだったからかもしれない。

そして、それから何日か経ち、俺らはここにいる―瀬川球場に。

だらだらと長い開幕式も無事に終わり、急いで3類側のベンチに向かい試合の準備を始める。

ヘルメットを出して棚の上に番号順に並べたり、キャッチャーのプロテクターをベンチの上に出したり、バットを出したり…アリスも手伝いながら。

あと、控えの選手である1年を中心に俺や剛や佐々木たちも。

ほかの2,3年は肩をならすためキャッチボールをしているのだろう。

試合の準備がひと段落すると飯田キャプテンとテーピングのチェックに行っていた大久保と部長の岡畑先生が本部から戻ってきた。

もう、先攻か後攻が決まったということだ。

飯田さんがやけに、ニヤニヤしている。

どうなったんだろう、と俺は気になって仕方なかったが。

「……先攻―!!!」

飯田さんはそう叫んだ。

「……おーしっ!!!」

少しの間の後俺らはでかい声で返事をした。

先攻…ということは、つまり

「俺、始球式に出られるじゃーん!」

と、思ったとおり深沢がはしゃいでいる。

彼はウチのチームの1番バッターなのである。

キャプテンはそれを狙ったのかな、と思って顔を見ると、どうやらそれらしい。

流石はキャプテン。


「後攻の菱山高校はシートノックの準備をしてください。時間は7分間です」

お決まりのアナウンスが球場に響き亘る。

1塁から敵である菱山高校の野球部がグラウンドに飛び散って行く。

そして、始まる―

ベンチに座っている皆は自分のポジションにいる相手や自分がよく打つ方向に付いている選手を観察してはブツブツ呟いている。

俺は技術どーのこーのよりも、勝ちたいという―普段の練習試合だって負けていい試合なんてないし、この夏の地区予選だけでなく、どの試合にも勝ちたいという思いはどこの学校も同じではあるが、でもこの大会は、この夏だけは別物―という気持ちが強く伝わってきて動きがよく見えた。

……敵を褒めてもどうにもならにけど。

あっという間に時間は過ぎ、そして―。


俺らはベンチから出て相手がグラウンドから去るのを待つ。

ほんの数秒ではある、でも……暑い。

立っているだけで暑い。

ここにコンクリートはないが、グラウンドからだって熱気がじわじわと湧き上がっているだろう。

それだけでなく、スタンドから―今日は開幕戦ということもあって、いろんな学校も開会式が終わっても球場に残っているため―熱気が降り注いでいるのだから更に熱は高くなる。

雲は空の端っこに散らばっている程度にしかないので太陽がえばっているかのように燃えている。

はっきり言ってうざい。

そして、暑い。

口に出して言おうかと思ったが、それで熱が下がるわけでもないので俺は口を閉じた。

暑さの原因はそれだけではないのだから。

「先攻の鍵野斎条高校はシートノックの準備をしてください――」

またお決まりの放送が響く。

そして、これから……これから別の「ナツ」が始まろうとする。

暑い「ナツ」が。

気温で測れる暑さじゃない。

心臓の音が体全体で鳴り響いているのがわかる。

左胸に手を持って行き小さく深呼吸した。

背中をとん、と軽く叩かれなんだと思い隣にいる、剛の方を向いた。

剛は俺よりも背が高いから俺はわざわざ顔を上げなければならない。

なんだよ、と睨んで見たら剛は微笑んでいた。

剛の口が小さく動いたが、それと同時にサイレンが鳴り、剛の言ったことがかき消されてしまった。

でも、俺はなんとなくわかった。

はっきりはわからなかったけど多分「頑張ろう」だと思う。

俺はそれに笑って答えた。

不思議と俺の心臓の音は安定したリズムをとっていた。


飯田キャプテンの掛け声と同時に皆はそれぞれのポジション、1年は補助、アリスは監督にボール渡しをするため、しっかりとした足取りでそれぞれの向かうべき、付くべき場所へ走った。

俺はショートに向かった。

だからといって俺はレギュラーのショートでもないし、ショートのみというわけでもない。

レギュラーは池やんこと池田優也。

俺は……どこにも確定してないのである。

だから背番号は2桁。

もし出してもらえるとすれば代打、もしくは代走。

そしてそのままどこかのポジションに付ければ幸せ、だ。

7分間のシートノックが終わり、俺は試合に出られるのかと空を仰いでみたがそこには答えなどなく太陽がぎらついているだけであった。

すぐにベンチに戻ってグローブを置き、急いで隣からトンボを取る。

グラウンドを整備するために。

その間、ちらっと3塁側のスタンドを見た。

自然に親を探す自分になんだか授業参観に似ていると思った。

グラウンドの整備が終わり、しばし試合まで間があったがそれでも刻々と試合が始まる時間は近づいてくる。

キャプテンだけでなく、2,3年のスタメンは落ち着きが次第になくなっていき、うろうろしたり、バットを出して触ったりしている。

それが伝染してかベンチ内にいる俺ら控えのメンバーもなんだか落ち着かなくなってきた。

そんな俺らを見かねてか、監督は

「思いっきり行け」

と敢えて俺らを見ずにグラウンドを見つめそう言った。

少しの間の後、

「はい!!」

とベンチにいる20人の部員がベンチに響き渡るほどでかい声を出して返事をした。

スコアを書くためベンチにいるアリスと岡畑先生は何事かと驚いていたが、監督はふふんと鼻を鳴らし得意げであった。

監督のあの一言でベンチの雰囲気はがらりと変わりよい緊張感が生まれた。

監督って凄いんだな、と俺は素直にそう思った。

そのよい緊張感を持ったまま試合が始まった。

そう始まったんだ。

終わるはずのない物語が。

誰もが皆、待ち望んでいたモノが、今まさに始まった。

このワクワクは誰にも止められない。

止まらない。

そう思ってた。

俺だって、キャプテンだって、監督だって…皆、他校人たちだって、観客だって、きっと。

終わらないと思ってた。

そう、終わったりしないんだ。

俺は強く、心の中で思っていた。

だが―――……

6回の表―斎条高校の攻撃―が終わる時、監督からアップをしとけ、と言われ次に出してもらえるのかな、と胸が高鳴った。

取り敢えず剛とキャッチボールをして肩を温めつつ仲間の守備を見守った。

結果、スコアは9-2で斎条高校がリードをしている。

このまま行けばウチがコールド勝ちするのは目に見えている。

そして、7回が始まった。

7番ライトの森山はフォアボールを選んで1塁へ。

定石通りに8番ファーストの岸田さんはバントをし、森山を2塁に送り、1アウト走者2塁。

そして9番サードの沢口さんがレフと方向にヒットを打ち1アウトのまま走者は1.3塁に。

ベンチの中は拍手喝采!

すげぇ、とベンチ前まで乗り出し次はどうなるのだろうと目を見開いていると、

「将太」

「え、はい!」

監督の声が聞こえ、俺はそちらを向き返事をした。

なんだろう、まさか深沢の代打とか?と思ったら

「代走。1塁のな」

「……はい!」

俺は自分の頭のサイズに合ったメットを取り、球審の元へ駆け寄り、代走だと告げ1塁に向かった。

「鍵野斎条高校、選手の交代をお知らせいたします。1塁ランナーの沢口君に代わりまして代走、三浦君。1塁ランナーは三浦君、背番号14」

アナウンスが交代を告げる。

うわー、俺、公式戦で初めて名前呼ばれちゃったよ。

バクバクしたままの心臓を抱え、1塁にいた沢口さんとタッチをした。

今、このグラウンドに俺は立っているんだ。

俺、どうすりゃ良いんだろう、って、走れば良いんだよな。

塁に向かって、いつもしているベースランニングの練習のように。

ピッチャーと、セカンド、ショートのタイミングを見て……3塁コーチャーの東さんのサインを見て……。

1番バッターの深沢が右中間(センターとライトの間)にヒットを打った。

流石だな、と思いつつあれは2塁を蹴飛ばす。

東さんが「すべれー、すべれー!」と叫んでいる。

あぁ、そっか、バックサードで―菱山高校の外野がサードに―返球してくるから……。

よし、滑り込もう。

あれ、足がちょっともつれ……

足……?

突然今朝見た夢だろうか、がフラッシュバックしたかのように頭に入りこんできた。

どっちの足を合わせるんだっけ?

右?左……?

あぁ、もう、どっちでも良い!

とにかく間に合え、俺の足!

たまたま歩数の合った左足を3塁に向かって伸ばす。

あぁ、間に合うかな……

ズザザザザッという砂を蹴飛ばした音と共に、変なキィーンという音が俺の頭の中で響いた。

俺にはそれが終わりのサイレンのように聞こえ……

終わり?

俺は呆然とし倒れた体を起こし足元を見た。

……ベースには届いていなかった。

間に合ってはいなかった。

もうちょっと、背が高くて足が長ければ……

横から3塁の審判の「アウトー!」と言う声でここにいてはいけないんだと、気づいた。

アウト、ということは、そう、そうだよ。

ベンチに戻らなくてはいけない。

ベンチに戻らなきゃ。

ほら、中々戻ってこない俺を待ちかねて剛が走ってきた。

あれ、どうしてあいつあんなに怒った顔してんの?

いつもどこか抜けたような柔らかい顔しているあいつが。

んー、でも、汗だかで視界がぼやけてて見えないや。

立たなきゃ。

そうだよ、立ってメットを渡さないと。

利き足の右足から立ち上がり、次に左足に……と思って力を入れてみても動かない。

反応しない……。

あれ、おい?

どうしたんだよ、俺の左足よぉ。

歩けよ、両足で立てよ、動けよ。

動けっ……!て

「将太ぁ!!」

剛-だと思われる奴がでかい声で俺の名前を呼んだ。

そのでかい声に驚いて、俺は右足で突っ立ったまま目を大きく開けた。

その衝動で目に溜まっていた涙……なのかがぼろぼろ流れ、視界が幾分はっきりした。

いつの間にか剛以外にもさっきヒットを打った深沢やキャプテンや……監督が俺のそばにきていた。

俺は立っているのと、皆の視線が痛くて、その場に座った。

「将太……」

剛は犬みたいに優しい目で俺を見つめ、跪いて肩をつかみ、俺の名前を呼んだ。

ははっ……何て面してやがる、剛。

剛だけじゃねぇ、皆。

……何で、何でそんな顔してんだよ。

「ははっあっはははは……」

俺は俯いてその場に不似合いであろう、笑いをした。

涙はまだ止まらない。

涙と鼻水が混じり合って苦しくなって

「ははっ、ゲホッゴホッ」

むせている俺を剛は自分の胸に寄りかかせ、背中を叩いてくれた。

「ゲホッゴホッゴホッ」

まだ、俺のセキは止まらない。

俺の背にあった手は俺を優しくさすってくれた。

「うっふぁ……う、っひく……」

だんだんセキは治まったけど、涙は止まらなかった。

周りには多分、こんな俺の姿を見て本部の人もやって来ただろう。

でも、俺は構わずこいつ、剛の胸の中で泣いた。

やがて……

「将太」

剛はそう言うと一瞬だけ俺を抱きしめ、でもすぐに離し、

「ほら、おんぶ」

背中を俺に向けた。

普段の俺なら「んなふざけたこと言ってんじゃねーよ」とでも言ったかもしれないけど、今はそんな状況でもないし、と言うか今の俺の頭の中は真っ白な状態に近くて。

素直に剛に従った。

「ごめっ」

背負われる時、俺は剛の首元にそう呟いた。

俺の小さな声に剛は小さく首を横に振った。

「謝るなんてらしくない」まるでそう言っているかのように。


剛に背負われた俺はそのまま医務室へ本部の人たちに導かれた。

意外に医務室は狭かった。

そこにひとつだけあるベッドに俺はおろされると剛は

「じゃぁ、おれ……」

無意識だと自分でも思いたい。

俺は剛の腕を掴んでいた。

迷惑だとも思う。

でも……

「あの、少しここにいても良いですか?」

剛は俺に腕を掴まれたまま医務室の係りの人にそう聞いた。

「あ、あぁ。私は別に構わないが、君は大丈夫なのか?」

突然の質問に驚いたのかその人は何かの作業をしていた手を止めた。

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

剛は礼を言うと、俺の方を向いた。

「つよ、し」

「大丈夫。そばにいるから、ね?」

小さい子をあやす様に言われたが、今はその方が落ち着いた。

「ありが……とっ」

しゃくりをあげながら言うと、医務室の人―胸に片桐と名札がかかっていた―は

「ちょっとごめんよ、三浦将太君だね?」

「……はい」

「左足の方見せてもらえるかな?」

そう促した。

剛は邪魔にならないようにと大して広くもない医務室の奥に行ったようだ。

俺は言われるがまま左足を出す、と言うよりも右足を引いて左足が前に出るようにした。

「んー、腫れてるね」

「そう、ですね」

左足の足首辺りは大きく膨らみ、そして赤かった。

「これは冷やして固めておかないとね…と」

医務室の、片桐さんはそう言い氷と足を一緒にテーピングのものすっごく太いやつらしきもので俺の足首一帯をぐるぐるに巻いた。

「うん、取り敢えず今はこれで良し。動かしちゃ駄目だよ」

「……はい、ありがとうございます」

「君は素直で良い選手なんだね。ちょっと待っててもらえるかな。病院を手配しに電話してくるから」

「はい」

片桐さんは俺にそう言うと医務室から消えた。

狭い部屋には俺と剛の二人だけになった。

左足は低い台の上に乗せられ、宙に浮いている右足とは対照的に高さが固定されている。

動かすなと言われた左足を見る。

動かすな、と言われるほど動かしたくなるのが人間の性分っていうもので。

でも、俺は逆の右足を前後に振ってみた。

無駄な運動である、ほとんど。

さっき、片桐さんに足を手当てしてもらっている時何の痛みも感じなかった。

神経……切れているのかな。

凄く冷たいはずの氷を当てられた時全然冷たくなかったし。

もしかして、本当に切れて……。

俺は左足を見つめた。

体を曲げ、右手の人差し指と中指で患部に触れてみた。

そとはいくらテープを巻いているからといってもやっぱり冷たかった。

でも、片桐さんに巻いてもらっている時は…冷たくなかった。

むしろ熱かったかもしれない。

右足をその2本の指で軽く突っついてみた。

ちょっとだけ、痛みを感じた。

左足にも同じようにやってみた……ら、痛くなかった。

もしかして、本当に……。

あぁ、なら簡単じゃん。

痛くないんだから。

簡単じゃん。

コワスの。

だらん、と垂れ下がっている自分の右腕にちょっと力を入れてみた。

掌をグーにして、また開いて……見つめた。

なんとかなるんじゃねーの?

なるよな、うん。

右手をちょっと高く上げて目標である左足を見下ろす。

このまま振り下ろせばきっと、いや、絶対……。

「何してるの、将太?」

声が上から降ってきて、誰かが俺の上げた右腕を掴んだ。

誰だか……わかっているんだけど、口に出せない。

声が出ない。

口の奥がまるで閉じてしまったかのようで。

「ぐっあ……、うぁ……っ」

精一杯出したのは言葉にならず、音になって、そして消えた。

「将太」

もう一度強く呼ばれた。

掴まれた右腕の拳が優しく、でも無理矢理に解かれた。

何でそんなことすんだよ、放っといてくれよ……。

俺の頬を汗とはまた別のあったかいのもがだらだらと流れて行く。

掴まれた腕がベッドの上に置かれた。

そして、多分そいつの指が俺の目に……

「眼を開けろよ、将太」

下の瞼に触れた。

すると目に溜まっていた涙がまたぼろぼろと流れ落ち、俺の視界が次第に晴れてきた。

「あ、剛」

声も自然に発せることができた。

「そうだよ、何に見えるの?」

「剛……」

「でしょ?ほら、涙拭いて」

差し出されたティッシュで涙を拭き、ついでに鼻もかんだ。

「そういえば、さ」

今更な事なのだが聞いてみることにした。

「何?」

「お前、ここにいて大丈夫なの?」

剛は目を1回パチクリと瞬きさせ「は?」というような顔をした。

「将太が危ないの、放っておけないよ」

そう言うと、俺の足に目をやった。

「大丈夫?」

「わからない」

「そっか……」

剛はそのまま俺の足を見た。

「あ、試合」

「あぁ、試合」何でもないかのように剛は俺の顔を見、「大丈夫だよ、皆のことだし」

平然と言ってのけた。

「ちがっ……お前」

このままここにいなければ剛だって何らかの機会が与えられたかもしれないのに、俺はそれを奪ってしまった。

「だから、将太を放って置いて行けるわけ」

「ヒグッ」

「…将太」

また愚図り始めた俺……。

泣くつもりなんてないのに、自然とシャックリが出てきてしまった。

「勝つ、よね」

「うん、このままだと勝つよ」

「ってことは、まだ皆……先輩たちも終わってないんだ。終わらないんだ」

「……?」

「それに、俺っ校歌歌うの。剛だって歌えたのに、俺……。もう、無理……っ、終わっ……て」

「終わってないよ」

「え?うっ……っく」

「終わらせない。将太の夏は終わってないから。校歌だって歌えるよ」

「お前、何言ってんの?そんなんっ」

「無理なんかじゃないよ。確かにおれ一人だけだったら無理だけど、皆がいるじゃん。将太の夏は皆の夏でもあるんだから。だから、終わったなんて、言わないで。終わらせないから」

「終わらせない……?終わって、ないの?」

「そう、だから泣かないで。まだ終わってないんだから」

「う、ん」

剛はまっすぐで真剣な眼でそう、言ってくれた。

だから、俺はやっと頷くことができた。

「あ、じゃぁ、おれ行くね。片桐さん、気まずそうだし」

「え?」

入り口を向くと片桐さんはバツの悪そうな顔をして立っていた。

「あー、ごめんよ。別に聞くつもりはなかったんだが、聞いちゃったよ」

アハハッと手を頭にやり、豪快に彼は笑った。

「君は……良い友達、仲間を持っているんだね」

急に真面目な顔になって俺の肩に手を置いて片桐さんはそう言った。

友達……剛のことだろうか。

あいつはいっつもトロイくせして、なのに、今日はどうしてあんなにもしっかりしてたというか。

その、別人のようだったんだろう。

顔がいつものと違って男らし…やめよう。

俺は

「はい」

と俺なりの顔をして答えた。

なんだか廊下からドタバタとでかい足音が聞こえて来た。

なんだろうと思うのもつかの間、

「「将太―!!」」

「うわぁ!?」

前からも横からも飯田キャプテンや大久保や、(いち)(ひさ)が俺に抱きついてきた、というよりも押しつぶしてきやがった。

飯田さんは、まぁ比較的細身だから一応置いといて……

「一久ぁ!大久保ぉ!!お前ら重いー!!」

「あはは!わりぃ、わりぃ!」

ぜってーんなこと思ってもいないだろーが、お前ら。

そう言おうとしたが止めた。

というか言おうとしたら

「勝ったぜ、将太!終わらせねーよ!」

「えっ?」

「だーかーらー、将太の夏は終わってないの」

とは一久で。

「俺ら3年の夏もな」

とは飯田さん。

「本当、ですか?」

「嘘ついてもしゃーないやろぉ」

この関西弁は美紗で。

「なぁ、アリス?」

「うん、10-2でコールド勝ちだよ」

誇らしげに笑って答えたのはアリス。

「すげぇや、皆……」

なんだか一気に力が抜け、俺はそのままベッドの上に横に倒れた。

そして……

「くー……」

睡魔に襲われた。


明るい

ものすっごく明るい

でも、眩しい光じゃなく

あったかい―

いや、むしろ 熱い


1-2


明るくて、俺は目を閉じているのだろうか






         開けているのだろうか


明るくて、ふわふわと宙に浮いているのだろうか


     地に足は着いているのだろうか






それすら、それさえも

わからない


また、夢の中にいるのだろうか…

また? 

自分の眉間にしわが寄っているのがわかる


―大丈夫?―

どこからか聞こえてきた声

誰、だろう…

いや、俺はコイツを知っているはず


コツッと何かが

自分が揺れ

急に―――

―――――――――――落ちるっ






足を、足を……


早く、


…足?

「あづっ。いってー!」

もわっとした夏ならではのこの暑さと、頭がどこかにゴツッと当たったので俺は夢から覚めた。

「文句の多い奴だな」

どこからともなく親父の声が聞こえてきたのでなんだよ、という顔をしてそちらを向いた。

「あら、そこが可愛いんじゃない」

後部座席から母さんがフォローにもなっていないことを言うのが聞こえた。

「ここ…」

「何だ、自宅の車の中も忘れたのか」

「ちがっ」

呆れた顔をした親父になんとなく突っかかりたくなってしまったが

「これから病院に行くのよ。お父さんがここまで将太をおぶって来てくれたの」

その前に母さんにそう言われた。

病院に行くのはわかるが…俺、親父におぶられた、のか?

「何だ、その顔は」

多分怪訝な顔をしたんだと思う。

でも俺は「いや、なんでもない」と言い窓から見えるコンクリートを見下ろした。

肉が焼けそうかも、と変なことを考えていると

「大きくなったな」

運転席からそう聞こえた。

俺は「は?」と思い親父を見るが、親父はバックミラーを見たままだった。

大久保や佐々木のことを考えると俺はまだまだ大きくはない。

むしろ小さい。

「もっと大きくなりたい」

ぶすっと一言言ってやった。

「心の大きな人になりなさい」

とは母さんで。

んなの無理だよ、と俺は言わなかった。

「さ、行くぞ」

親父はそう言いアクセルを踏んだ。

冷房のゴオオッという音と共に来る風はまだ冷たくなかった。

帰りの道のりは今朝皆―1年は除くけど―と一緒にマイクロバスで通った道を逆に辿った。

まだ半日も経っていないのに異様に懐かしく感じた。

あの時、皆でバスの中、何を喋っていたっけ?

どーせくだらないことだったんだろうな。

開会式は絶対話が長いやら、今朝は何を食べたとか、そんなくだらないこと。

コツッと窓に頭を預けた。

視線はフロントガラスの下のほう。

道がどんどん過ぎて行って面白い。

そういえば、隣にいた剛もこうやって頭を預け、でも、眼は空を見ていったっけ?

隣にいるのに、いつもは何かと喋っているのにこのときは何も喋んなくて俺はつまらなくなって剛の二の腕あたりを突きながら

「何してんだよー。剛ー?」

なんてことを言った。

そしたら剛は「んあぁ?」と凄く間抜けな声を出した。

「んだよ、寝てたのか?」

呆れて聞くと

「ううん。空、見てた」

最初は真面目に、後ろは笑いながらそう言っていた。

俺にはそう見えただけかもしれないけど。

「ふ~ん」

俺は剛の肩越しに見える動く景色の……上の方を見た。

剛もまた、空を見て

「天気良いなぁって」

そう思いながら見ていたんだ、と俺の方を見て笑った。

「じじぃかよ、手前は」

俺もつられて笑った。

その後、何を話したかはあまり覚えていない。

でも、あの時の剛の微笑みは忘れていない。

視線をフロントガラスの下から左の窓の上―空―に移し、あの微笑を、まぶたを閉じて甦らす。

吹きかかる風はいつの間にか冷たくなっていた。

天気、良いなぁ

声には出さずに唇を微かに動かす。

閉じていたまぶたを開け、空を車の中から見上げる。

なんだか…剛の優しさに触れた気がした。

なぜだろう。

優しい気持ちになった気がした。

『泣かないで』

不意に聞こえてきたあの、声。

優しさに溢れていて、しっかりしているような、でも困ったようなあの、声。

これは幻聴だ。

けれど、凄く身近に感じた。

なぜだろう。

安心した気持ちになって逆に涙が流れてきた。

隣で運転している親父は俺が泣いていることに気づいていたのかも知れない。

でも、まっすぐ前を見て運転していた。

母さんは後部座席で何か、紙が擦れ合う音を出していた。

……俺はしばらく空の青さを受けながら泣いていた。


窓の外を見ると、いつの間にか俺が通学の時通っている道を通っていた。

こんなところに病院なんてあったっけ?

そう不思議に思ったが、親父は慣れたように細い道をどんどん進んでいった。

そして、大きい通りに出た後、すぐ左に曲がり、ほんのちょっと進んでいくと「P」という看板が建った駐車場へ滑り込んでいった。

病院の名前は太陽の光に反射してよく見えなかった。

「ほら、着いたぞ」

親父はシートベルトを外し、運転席側のドアを開けた。

俺も慌ててシートベルトを外し、ドアを開けたは良いが……歩けない。

どうしよう、と思ったら

「肩、貸してやるから」

ぶっきらぼうに親父はそう言った。

言い方は冷たかったが中身は温かく感じた。

俺は、今はどうしようもないので、親父にしがみついてゆっくりと歩いて病院の玄関に向かった。

その先に見えた看板には「片桐整骨医院」と控えめに書いてあった。

え、っておい

「片桐……?」

俺はそう、つぶやくと無意識のうちに立ち止まっていたのだろう。

親父に足、痛めたのか、と心配された。

いや、そうじゃなくて……と首を振る頭で考えた。

片桐って、今日さっき、俺の足にテーピングを巻いてくれた、あの。

そして俺に良い仲間がいるんだね、と言ってくれた医務室の片桐さんだろうか?

すると、広い待合室の横から一人の、長身で白衣を纏った人が現れた。

「こんにちは。君が、三浦将太君ですね?」

容姿がメガネをかけている以外、目の前の彼と試合中に会った片桐さんとの違いがなく、俺は驚き返事をするのも忘れていた。

「こら、将太」

「え、あぁ、はい。三浦将太、です」

右隣にいる親父に突かれ俺は慌てて多分、片桐先生に答えた。

「私は片桐医院の副委員長を務めている片桐です。将太さんのことは兄から伺っています。そこに手をついて……大丈夫ですか?」

そう言われて、俺は車椅子に恐る恐る座った。

「あ、はい。俺、車椅子に座るの初めてで……」

「少しの間だけですから、そんなに緊張しなくて良いんですよ」

「はい……」

なんか見透かされた気分で恥ずかしくなって俯いてしまった。

片桐先生は、俺が座っている車椅子をゆっくり押して診察室に入った。

親父は、俺の横を歩きながら心配そうに俺を見ていた。

玄関で俺らの靴を整理していたのであろう、母さんは少し遅れて、パタパタとスリッパの足音を廊下に響かせていた。

片桐先生の診断で、今日はこのまま足を冷やしたまま帰っても良いということと明日から入院してください、とも言われた。

リハビリのこと、足のこと、マッサージのこと等のことも含めて1週間ほどらしい。

野球は、いつからできるようになれるのですか?という質問は今の俺には怖くてできなかった。

一緒にいた親父と母さんも、しなかった。

ただ、先生の

「大丈夫。丁寧に治療すれば、治りますから」

その言葉を信じる他、何を信じれば良いのかわからなかった。


入院初日

2回戦の前の日、と言うことで飯田キャプテンが来てくれた。

「お前の分も戦ってくる。観ててくれ」

と、ものの5分で帰っていった。


2日目

午前中に試合があるため、リハビリは午後に回すようにすでに頼んであるので心置きなく、朝からテレビはローカルのチャンネルに合わせていた。

そして、試合が始まった。

試合を観ながら祈った。

昨日キャプテンが言った言葉とともに、勝利を。

でも、逆に……そう、望んでいるわけではない。

でも、心の奥でその囁きに反発できない自分がいて悔しい。

試合を観ながら俺はいつの間にか泣いていたらしく、自分の鼻水をすする音で気づいた。

母さんは何も言わず、黙って試合を観てた。

家に帰るため病室から出るとき、母さんに頭を撫でられた。

また、泣きそうになってグッと堪えた。

そうする必要がないわけではないけど、甘えに乗せられた気分になって嫌だったのだ。

午後、昼飯を食べ終わった後のリハビリの時間。

片桐先生に今日の試合を言おうかと思ったけど、俺の口はそのことについてはしゃべらなかった。

そしてそのまま、リハビリの時間は過ぎていった。

部屋に戻ると、もう何も考えたくなかったので、ベッドに突っ伏した。

枕元においてある携帯の窓を見ると「新着メール有り」と表示されていた。

俺は携帯を開く気にもなれず、そのまま寝た。

夢は見なかった。


3日目

午前中のリハビリの時間、片桐先生に話しかけられた。

「昨日の試合の結果を知りました。ごめんね、おくれてしまったけど、おめでとうございます」

にっこりと先生は笑ったけど、俺は笑うことなく

「ありがとうございます」

と、お礼を言い、そして

「でも、俺、何もしてませんよ?」

事実、を述べた。

「それでも、将太さんは野球部の一員でしょう」

「……はい」

確かに、それはそうだけど。

「どうかしたんですか?」

「いや、何でもないっす」

丁度、リハビリも切りが良かったので逃げるように部屋から出た。

午後、昼食を食べているとき携帯が光っているのがわかった。

そういえば、昨日から携帯を開いていないな、と思って手を伸ばすが、怖くてそのままそのまま放っておいた。

食べ終わり、食休みをしているとどやどやとした声が廊下から聞こえてきた。

もしかして……。

あぁ、やっぱり。

池田、一久、大久保がやって来た。

しばらくぶり―と言っても1週間も経ってないけど―だったので、話した。

内容は主に試合の詳細のことと、次の試合の対戦相手のことだった。

3人とも黒く焼けていた。

唯一、白い自分がなんだか情けなく思えた。

途中、剛の話になり、会って礼が言いたくなった。


4日目

リハビリと検査で午前はつぶれた。

昼飯を食べ終わった後も何だか疲れていて昼寝をした。

頭の奥で声が聞こえた。

この声が誰かが自分を呼んでいるものではなくて。

野球の喚声にも似ていて。

それに紛れてどこかで聞いたことのある台詞が聞こえてきた。

同時に自分以外の呼吸のリズムも聞こえてきた。

誰かいるんだろうか。

半分寝ぼけたまま寝返りを打ち、呼吸の音がするほうに顔を向けた。

そして、うっすらとまぶたを開け、その先に見えた奴は……。

「んあ!?」

慌てふためいて俺はベッドから落ちそうになった。

目なんか、ばっちり覚めるほど俺は驚いた。

俺が寝ているベッドの足元の横にあるイスにうつらうつら、と寝ている奴がいるからだ。

別にその人物が母親だったら構わない。

いつも気づいたらいるから。

しかし、

「おい、剛!お前、何でここにいるんだよ?」

「ん、あ?あー、おはよう」

そいつの腕を掴んで揺さぶると剛はへんな挨拶をしてきた。

「何がおはよう、だよ」

「あー、ごめん」

いや、そうじゃねぇだろ、と言おうとしたとき、剛の後ろから

「あら、将太。やっと起きたの?せっかく剛君がいらしたのにそれはないんじゃない?」

小柄な俺の母親がそう言った。

「剛君も今お目覚め?」

「ぅあい」

「おはよう」

「おはようございますー」

後ろを向き、目をこすりながら剛は言った。

母さんはうふふ、と笑って

「剛君ね、わざわざお見舞いに来てくれたのよ。それなのに将太ったら寝てて、ねぇ?」

「あ、いえ」

「で、これ。頂いちゃったの。手作りみたいだけど、そうなのかしら?」

母さんは紙袋の中をのぞき、そう剛に聞いた。

「あ、幼馴染がそういうの得意らしくて。で、今日ここに行くこと言ったら、頼まれて持って来たんです」

「そうなの~。ありがとね、そのこにもよろしく伝えといてくださいね」

「あ、はい」

と、母さんは紙袋の中から何かが可愛らしく包装された袋を抱えて俺に見せびらかすようにした。

……母さんがもらったんじゃないっつーの。

「何、これ」

「クッキーよ、ホント、ありがとね」

最後の言葉は俺ではなく剛に向けたもの。

それに対し、剛は

「いえいえ」

と首を振って答えた。

高校生なんだからさ、もうちょっとましな対応が取れないのかよ。

……もしかして、まだ寝ぼけているのだろうか?

「一緒に食べる?お茶、買って来ようかしら……」

なんかはしゃいでる母さんがいるが俺が野郎なんかと一緒に食って何が楽しいと言おうとした瞬間、

「いえ、これ、将太へのお見舞いなんで。あの、おれ用事があるのでこれで失礼します」

「あら、そう?」

どうしましょう?と言う顔を俺に向けたが向けんなよ、と思い俺はふいっと窓から見える狭い夏の空を見上げた。

狭いけど、日差しはキラキラと痛い。

「それじゃぁ……。じゃあね、将太」

「あぁ」

声には答えたけど、目に映るのは夏の日差しの輝いた空と、白くてでかい雲。

本当は、剛に礼を言いたかった。

クッキーのことなんかじゃなくて。

もっと前のこと。

言いたかったけど、もう帰っただろうな。

というか、あいつは何でここまで来たんだ?

俺は寝ていたし、つまらなかっただろうに。

悪いことしちゃったな。

頭の奥で聞こえてきたあの呼吸は剛だったんだよな。

じゃあ、あの声は……あー耳に付けっぱなしのテレビのイヤホンが原因だった。

これをつけたまま寝てしまったからだろう。

こんな俺もアホっぽいが剛もなー。

ふっと笑って、もう一度窓を見た。

「どうしたの、将太?」

「ううん、なんでもない」

そうして、その日も過ぎていった。


5日目

この前の試合同様今日の試合も午前中だったので、検査は午後に回してもらった。

私立の高校と当たってしまい、前半に良いところまで追い詰めたが、それでも届かず負けてしまった。

先輩たちの夏が、部活が終わってしまったのだ。

本当に。

心の中でどこか、安心している自分にむかつき、知らないふりをした。

検査が終わり、部屋に戻ってベッドでごろごろしていると飯田さん、池田、アリスと美紗がやって来た。

お疲れ様の言葉と、どうしたんですか、と飯田さんに聞くと

「これからは、池田がキャプテンだ」

ということをここで教えてくれた。

他に、深沢と森山が副キャプテンと言うことも。

その話を聞いて改めて、「俺らの代」と思ったが、どこかそれが遠く感じた。


6日目

台風が直撃しているようで、朝からずっと雨が降っていた。

さすがに今日は誰も来ないだろうなー、と思っていると剛が来た。

こいつ、アホだ。

俺の、何で?と言う問いに

「何となく……でも、やっぱ帰るね」

と、剛は大雨の中帰っていった。

今日も、礼を言いそびれてしまった。


7日目

朝に荷物をまとめ、退院。

何となく、あっという間だったなぁと思った。

片桐先生に

「3日おき程度に病院に来てください。その、来たときの様子でギプスを外すかどうか決めますから」

ということを親父と一緒に聞いた。

病院から出ると、台風一過でものすごく風が強く、空も晴れ渡っていた。

「退院日和っていうのかしら、こういうのって」

いや、それは違うだろ、母さんと、突っ込もうとしたがめんどいのでやめといた。

久しぶりの家について、家の中ってこんなもんだったっけ?と思いながら注意を払いつつ階段を上った。

そして、自分の部屋に入った。

何だか妙に懐かしくて、俺は見慣れたはずの部屋を何度も見渡した。

階下で親父が電話で監督と話している声が聞こえた。

2


心の奥で生まれた気持ちは


知らない間にだんだんと大きくなり

いつの間にかは心の大半を占めるほど

大きくなっていた


ずっと 知らないフリをしていた

   ずっと 気付いていないフリをしていた


知るのが怖かった

気付くのが怖かった


だから


でも


心の奥で生まれた気持ちは

知らない間にだんだんと大きくなり

いつの間にかは心の大半を占めるほど

大きくなっていた


もう、知らないフリはできない

   もう、気付いていないフリはできない


目を、見開いて

  耳を、閉ざさないで


怖がる必要なんて、最初からなかった


だから


大丈夫














ただし、気をつけて―――

嵐やら台風は突然やってくる

そして、すっと消える

跡だけ残して

嵐や、台風自体 いなくて

いた、という証拠だけ残して


消えて

俺、一人ぼっち


あったかいな という光は

あつい 太陽

うるさいな という音は

つよい 風


跡だけ

証拠だけ

残して


消えて

俺は……


じゃなかった


靄の奥に

誰かいる


誰か

じゃない


知っている奴だ


俺はそいつを知っている


だから、手を伸ばし

「―――」


目を開けると、俺は空を掴んでいた。

「あれ?」

体を起こして、手を開けるけど中には何もなかった。

でも空気が零れた気がした。

開け放たれた窓から入る風で、カーテンのレースがバサバサと踊っている。

入ってくる光は明るい。

時間は朝8:00。

皆、もう部活のため学校に向かっている時間だろうな。

俺は、退院したばっかりで今日からは通院生活。

怪我している左足に気をつけながらベッドから降りた。

そして、窓に手をかけ、広がる空を見た。

「空って、こんなに明るいんだな」

入院している間だって、もちろん毎日のように空は見ていた。

でも、こんなに明るいことを何となく避けていたような気がする。

どうしてだろう……?

「将太ー?起きてる?」

不意に聞こえてきた母さんの声で考えることは止めた。

ゆっくり歩いて、部屋の外に出て階下にいる母さんに起きていることを告げた。

「ご飯、もう食べる?」

それに対し、「あ、うん」と返事をしたら「なら、降りてらっしゃい」と言われた。

丁寧に、足をゆっくり、一歩ずつ動かして階段を下りて行った。

ほんの数歩、廊下を歩いてリビングのドアを開けたら

「57秒ね」

ストップウォッチを持った母さんにそう言われた。

「何のタイム?」

「将太が階段を下りるのに掛かった時間よ」

「へ~」

そんなにかかったんだ。

俺はイスに座り、空のコップに麦茶を注いだ。

「なんか将太とゆっくり朝ごはんを食べるのって久しぶりね」

「そう?」

俺はタクアンをかじりながら返事をした。

「いっつも朝は戦場のようなのに」

ふふっと母さんは小さく笑った。

「こうしてゆっくりなのも良いわね」

「すぐ、飽きるよ」

「あら、忙しい朝は毎日のようにあったけど、飽きなかったわ。だからゆっくりとした朝だって、飽きるわけがないでしょう?」

また、母さんは小さく笑った。

言っている内容は少しわからなかったけど、何となく納得できた。

それから俺は部屋に戻って、初めて夏課題を目にした。

「あー、めんでぇー!!」

っで、こんなにあんだよー!と、セミの大合唱と扇風機のカタカタという音をBGMにして俺はたんまりと山のようにある課題に手をつけた。

簡単にその課題について説明すれば、数学を自分が選んだ問題100問と、英語は長文読解が10題、文法が……たくさん。

ざっと、30ページほどある。

その1ページには20問ほど付いているので、たくさん。

英語の課題には、書き込みをしなくてはならない。

見開き1ページずつ丁寧にやっていったら軽く2時間は経ってしまう。

ありえない。

その他の教科も色々と出た。

けれども、部活をしているあいつらだって、同じ量の課題がある。

俺は、皆が部活をしている中できない分、早く終わらせたい。

切りが良かったので休憩していたら「お昼ご飯よ」と母さんに呼ばれた。

そして、またとくにすることもないので課題を始めた。

丁度、現文の答え合わせをしようと赤ペンのキャップを外したときのことだった。

「ピンポーン」と呼び鈴が鳴った。

なんかのセールスかな、と思ったら外からバイクやチャリの止まる音が聞こえた。

しばらく手を動かさず、赤ペンを握っていたら、どやどやと誰か……一人じゃない誰かたちが階段を上ってきた。

「チワー!」

「うわっ!おまえら、どうしたぁ!?」

一久を先頭に2年生8人が来た。

俺の狭い部屋に良くこんなにも人が入ったもんだ。

しかも、ガタイの良い奴らだっている。

人口と、人口密度が一気に増したせいで暑さも倍増した。

皆とは、久しぶりだからもっと長く話したいのだけど、どうも苦しくて、楽しいのだけど、窮屈に感じてしまった。

どうしよう、と思っていた矢先、剛が帰ると言って立ち上がった。

こいつって、こんなに背がでかかったけか?

部屋が狭くて余計にそう見えた。

そういや、コイツの家の方向って……

「俺、ジュース買って来る」

他に何と言えば良いのかわからなかったので、取り敢えず言ってみた。

事実、自販機はあるわけだし。

外にも出たかったというのもあるし。

「えー、将太抜けんのかよー?」

仲村から不満の声が上がった。

「そーだよ、悪いかよ。そのうち戻ってくるから」

「じゃぁさ、ファンタ買ってきて!」

その立ち直りの早さはどこから来んのよ、仲村。

「俺、コーラ」

何、当然のように一久まで……。

「あ、俺、スポーツドリンクが良い」

仕舞いには池田まで言い出した。

「お前ら、何様のつもりだよ!」

「俺様」

至極当たり前のように一久は答えた。

こいつに聞いた俺がバカだった……。

仕方なく、俺は財布の中から500円玉を取り出した。

「後で金返せよ」

「へいへい。行ってらっしゃ~い」

手をひらひらと追っ払うかのように振る一久。

お前、本当にわかんねぇな。

「あ、そんじゃ俺も帰ろッかな」

「え、帰んの?大久保」

ん、まぁね~、と言いながら大久保はエナメルバッグを左肩に背負った。

「俺も帰るかな」

よっこいせと佐々木も立ち上がった

「家遠いし、暑いし」

ふーっと息を吐く佐々木に

「お前が温度上げてんだよ、佐々木」

と一久が俺のベッドの上に寝転びながら返した。

お前、何やってんだよ。

人のベッドの上で。

「うっさいわ!じゃぁな、将太」

「あ、いいよ。下まで送ってくよ」

「わりーじゃんね」

ほら、お前ら邪魔ーというように大久保は仲村たちの横をまたがっていった。

「いいよ、剛も帰るんだろ?」

「え?うん、帰る」

何ボーっとしてんだ、こいつ。

まぁ、いいか。

俺は奴らを部屋から出し、そして階段を下りて……大久保たちは家の前でバイクをふかして

「じゃぁな~!」

と帰って行った。

「あ、おれも」

「剛んち、あいつらとは逆方面だろ?」

「そうだけど?」

「じゃ、途中まで。自販機んところまで送ってくよ」

「え、良いの?」

「良いよ。一人で行くの嫌なだけだし」

俺が苦笑しながら言うと、剛はそう、と笑ってくれた。

「それにリハビリにもなるし」

「そっか」

また笑ってくれた。

優しく。

とてとてと歩く俺に合わせて剛はチャリに乗らないで押している。

「ごめんな、とろくて」

「良いって。リハビリなんでしょ?」

「剛って優しいんだな」

自分でも意外に普通に言えたな、と思った。

けれど、俺の声には少し硬さがあった。

「今頃気付いたの?」

やだな~、と冗談めいた風に剛は俺の声とは逆の柔らかな調子で笑った。

俺にとっては冗談ではなく、本気だ。

それをわかって欲しくて。

「ちげぇよ」

歩いていた足をピタッと止めた。

「え?」

剛も押していたチャリを止めた。

けれども剛は俺より少し先のところにいる。

とてとてと歩き丁度、剛の横に来たときゆっくり、止まった。

「ありがとう」

照れて上手くお前のように笑えるのか自信ないけど……。

「剛、ありがと。お前がいてくれて嬉しかった」

「え?そ、そんな……!おれ、何もしてない、よ?」

「ううん、そんなこと、ない。お前、試合のとき終わらせないって言ってくれた。そばにいてくれた。俺、それが凄く嬉しかったんだ」

もう一度ありがとう、と言おうとしたら、車のクラクションの音が響いた。

「危ない!!」

「え?!」

何が何だか突然のことでわかんなかった。

けれど、剛に抱きしめられ、俺らの横で剛のチャリがガシャーン!と音を立てて倒れたのは、わかった。

「あー。危なかった。……大丈夫?」

「う、うん……えと」

「車が」

「あぁ、そっか」

「大丈夫?将太?」

上から、心配していると言うのがありありとわかる声が降ってきた。

「うん、サンキューな。でも」

「ん?」

「汗……」

剛のワイシャツに染み込んだ汗の匂いが伝わってきた。

「あー!ごめん!」

剛は慌てて俺から離れようとした。

「うるせーな。良いから、もうちっとだけ」

「え?なっ」

汗とは別の泥臭い匂いも同時に伝わってきた。

懐かしいな、と思って目を細めた。

それにしてもこいつ、何、心臓早くしてんの?

おかしくて笑ってしまった。

「将太?」

今度は困った声が降ってきた。

「何でもねーよ」

ん、やっぱ良いな、この匂い。

野球を……え?

不意にあごを上げられた。

剛の顔がまん前よりもちょっとだけ上にあった。

「な、何?」

「や、あの……待ってると思うから早く買って戻ってあげないと」

「あ。あぁ、そうだな。うん」

パッと俺のあごから手を離した剛は「じゃぁ、また」と言って倒れたチャリを起こして慌てて帰って行った。

なんかさっきの……まるで……ああ、やめやめ!

途中まで浮かびかがった自分の思想に待ったをかけた。

早く帰ろう。

でもゆっくり歩こう。

すぐそこにある自販機で自分の求めていたジュースと頼まれた物を買って、さっき剛と歩いた道をひとりで歩いて帰った。

暑さ以外の熱を下げるのにも缶ジュースは役に立つことを俺は知った。

「あれ?」

家に着くと皆、玄関にたまっていた。

「あ、将太。おっせーよ。俺ら帰っちゃうよ~」

「うっせーな。ほら」

俺はチャリによっかかっている一久にコーラを投げた。

「サンキュ」

口元だけで奴は笑った。

「仲村と池田も」

「わりぃじゃんね」

「いや、いいよ。それよに、今日来てくれてありがとな」

俺の突然礼に驚いたのだろうか、池田は目をパチパチとさせ

「らしくないよ」

と笑った。

「待ってるからな」「また、来るから」

皆、口々に言ってくれた。

「あ、3人とも金、払えよ」

肝心なことを忘れてて俺は言った。

「次回な」

「なんじゃそりゃ」

「今度来たとき返すから」

「絶対な」

「おう」

そして、皆帰って行った。

次というのはいつなんだろうか。

本当にあいつらは来てくれるのだろうか。

そんな、不安を抱え俺は怪我するまで使ったことのなかった手すりを掴みながら自室に戻った。

開け放された部屋に入ると、母さんは皆が食べたものを片付けていた。

「あら、将太。お帰り。遅かったじゃない」

「うん、ただいま」

買って来たジュースをローテーブルの上に置き、ゴミに手を伸ばそうとした。

「良いわよ。手、洗ってうがいした?」

ガキじゃあるまいし、そんなこと言わないで欲しい。

「したよ」

けれどもなぜか母さんには敵わない。

何でだろう。

そう、と俺が取ろうとしたゴミをまとめてゴミ箱に入れ

「皆、優しい人たちね」

と母さんは言い残し、俺の部屋を去った。

俺は心の中で深く頷き、太陽が深い朱に染まっている空を見た。

「剛……」

何となく、呼んでみた。

するとなぜか胸の奥がツキンと、痛くなった。

あの時……もし、もし、されていたら?

あのシチュエーションはドラマのワンシーンでよくある奴のと似ていた。

嫌だった……?

あんなに近くに剛の顔があって……。

あいつは男で、俺だって、男で。

……でも、嫌じゃなかった?

ん?

ちょっと考えてみた。

例えば、あいつ以外の男……大久保とか。

やだ、ごめんだ。

そもそも、大久保には悪いが試合以外で抱きしめられるのを考えると、嫌だ。

剛……。

ふと、剛が座っていた座布団が目に入った。

怪我している足に気をつけながら気をつけながらその場に座って、腕を伸ばして触れてみた。

剛が座っていたのはもう、だいぶ前のことなのに、それは温かかった。

温かくないはずなのに、温かかった。

窓から入ってくる太陽の光のせいかもしれない。

夏のせいかもしれない。

だからなのか、それとも別のことからか……それは、温かかった。

もっと、温かいのを感じたくてぎゅっと抱きしめた。

座布団のぬくもりだけじゃなく、あいつの優しさに触れた気がした。

「あったかい……」

突然、涙が流れてきた。

どうして俺は泣いているのだろう。

最近、怪我してからやたらと泣く頻度が増えたと思う。

前は泣くなんて滅多になかったのに。

涙がまた、一粒流れた。

けれどもぬぐってくれるあの優しい手はない。

「―泣かないで―」

いつだかのあいつの困った声が心の中に聞こえてきた。

俺は心の中で「泣かせろよ」と反発してみた。

それよりも、剛。

お前はどうしてあんなこと、しようとした?

心の中での問い掛けは誰も答えることは出来ない。

ぼやけた視界の先に見えるものは、やはりぼやけていて見えなかった。

どんなに泣いても、あがいても時間が進んでいく。

そして、剛は次の日も来た。

昨日は何もなかったことのように、この日の練習のことを楽しそうに話してくれた。

剛、昨日はどうしてあんなことしようとした。

どうして守ってくれた。

どうして……。

剛。

こんなに近くにいるのに。

この部屋にはお前しかいないのに。

それでも言えないのは……。

俺が相槌をしなかったからかな、剛は話を中断し、俺の名前を不安そうに呼んだ。

「おれ、変なこと言っちゃった?」

ううん、と俺は首を横に振った。

「うん、それでね……」

剛はまたニコニコ笑ってくだらない話を進めて行った。

でも、野球の話をするときの剛の顔がきらきらしてて。

あぁ、こいつは野球が好きなんだな、と思うと同時にどこか許せない自分もいた。

……嫉妬なのか?

楽しいときは楽しくて笑った。

剛も笑った。

そして結局、昨日のことは互いに何も言わなかった。

剛が帰った後、何も聞けなかった自分が悔しくて。

剛が何も言ってこなかったのが不安で。

いなくなった途端広くなったこの空間が何故だか苦しくて、寂しくて仕様がなかった。

普段の練習の後だって帰るときは、道が途中まで一緒だからと言う理由で一久と帰ってたけど、でも。

家に帰ったら当たり前のように家族はいて、でも。

皆はいなくて。

それが普通だった。

普通だったのに、いつまでもいて欲しいと思ってしまう。

それは、誰にでも……?

……違、う。

……剛、だけ。

この気持ちは何なんだ?

そんな疑問が、毎日続いた。

続いたおかげで胃の中が重くなった。

痛くもなった。

来ないのかな、と思ったときは暑いのに急に冷凍庫の中に入ったように寒さを覚えた。

一久が来てくれたときは嬉しいな、とも楽しいな、とも思った。

でも、剛じゃない、ということに寂しいと思ってしまった。

一久に対して申し訳ないなと思うけれど、やっぱ剛じゃないことに寂しさを感じてしまった。

一久が帰った後に、剛が来たときは凄く嬉しくて。

理由なんてなく、来てくれた、という事実が嬉しくて仕方なかった。

でも、胃は痛くなった。

どうしてだろう……。

そんな日が繰り返されて、俺の中では何かがもやもやしてて、それを何にぶつければ良いのかわからず泣いた。

早く野球がしたい。

ボールに触れたい。

間接にかぐ匂いなんかではなく、直接土の匂いをかぎたい。

外に出て、日に焼けたい。

どうして、こんなにもやりたいことがはっきりしているのに俺は出来ないんだろう。

怪我している足にまとわり付いているギプスが俺の心と胃を更に重くした。

2-2


その日、鍵野斎条高校野球部では、新チーム後、初の練習試合があった。

その日、俺はギプスを取った日でもあった。

足は、思った以上に軽くて、細くて……みすぼらしい姿だった。

思わず片桐先生と母さんの前で泣いてしまった。

こんなの、俺の足じゃねぇ。

ちがう。

こんなんじゃない。

片桐先生は泣いている俺にあわてて

「痛かったのですか?」

あぁ、すいません……とおろおろしていた。

ちがう、ちがうんです……。

俺は首を横に振った。

まっすぐ自分の足を見るのが嫌だった。

これが自分の足だと、認めるのが怖かった。

しばらくして俺が落ち着いた頃、片桐先生はこれからのことを話してくれた。

「8月の終わりには走っても大丈夫です。ただし、全力で走るのにはまだ時間が掛かります。軽いジョギング程度なら、平気ということです。25日から学校が始まる、ということですがその頃には部活に出ても平気ですね。ただ、投げるのは構いませんが、まだしばらくは打撃練習をしないでください。そうですね……打撃練習が出来るようになるのは9月の中頃が目処です」

9月の中頃というと、秋の大会が始まる頃だ。

なんとなく、わかっていたことだけど出ることすら無理なんだ、俺。

あーあ……、練習も満足に出来ないのに皆はこの時間、練習試合をやっていると思ったら気が滅入ってしまった。

今日だけは……会いたくなかった。

剛にも。

会いたくなかったのに。

けれども、あいつはやって来た。

日に焼けて、土の匂いをつけて。

にこにこ笑顔でやって来た。

どうしてお前は来たんだ?

お前が来なかったら、俺、お前にあんなことせずにすんだのに。

お前が毎日来なかったら、俺、野球のこと、部活のこと気にせずに過ごせていたかもしれないのに。

どうしてだ、剛。

冷たい物質から聞こえてくる無機質な声。

やがてそれは数秒後途切れて、単調な音が頭に入ってきた。

カチャ、とドアが開く音。

ペタン、ペタン、というスリッパの音。

ガガガ……という扇風機の音。

その風でカレンダーがペラペラと揺れる音。

不意に、全てが聞こえなくなった。

―――――――――――――――――――――――――――――俺は叫んだ。

俺、俺……剛を傷つけた。

いくらいつものほほんとしている剛だって、さっきのは……。

どうして俺、あんなこと……。

ごめん、剛。

ごめん、ごめん……、つよし……。

数分前、剛はやって来た。

いつものようにやって来て、試合の話をしてくれた。

でも、それは俺にとって痛いものだった。

聞きたくないものだった。

今日の俺にとって。

「打たれたんだけど、そのあと大久保や池田が……」

「……」

「……で、勝ったさぁ。……将太?」

「……じゃねぇか」

「へ?」

「良いじゃねぇか。打たれても勝てたんなら。そーだよなぁ。お前は俺みてぇに怪我してねぇもんなぁ。そりゃ、さぞかし楽しかったんだろーなぁ」

「将太……ごめっ」

俺の言っていることがわかったのだろうか。

剛は謝りに入ったが、俺の言葉はそれを止めた。

「お前、野球できんだろ。走れんだろ。なんだよ、毎日来て。俺にそんなに自慢してーのかよ!」

口調が早くなるにつれ、音量も自然と増していった。

「ちがうよ、将太……」

「じゃぁ、何で毎日、ほぼ毎日のこのこ来んだよ!」

「のこのこだなんて……」

「もういい!来るな……来るんじゃねぇ!!」

「将太……」

「顔も見たくねぇ!帰れよ!帰って……!!」

最後は、もう叫び声と等しいほどだった。

口を荒げている俺とは打って変わって剛は今まで聞いたこともない冷めた声で「ああ、じゃぁな」と言って、俺の部屋を出た。

剛が部屋を出たときのバタン、というドアを閉めた音が嫌にリアルに俺の頭の中は覚えていた。


剛……ごめん、俺……

ごめん、ごめん……

俺の声は言葉にならず、叫びとして、この、自分の部屋に響き渡った。

ごめん、剛……ごめん

そう、心の中で届くはずもない謝罪をしながら俺は泣き叫んだ。


頭にはまだ、ツーツーツーと言う単調な音が入ってきていた。

「将太」

別の耳から聞きなれた声が聞こえた。

でも、俺は振り向かないでそのまま床に座ったまま、持っていた携帯をパタン、と閉じ自分の右側に置いた。

すると、後ろから抱きしめられた。

「将太……」

今は、誰にも触れられたくなくて、喋りたくもなくて、何もされたくなくて……。

放せよ!

暴れてみたけど、力が入らず小柄な母さんにさえ、敵わなかった。

「剛くんがね……」

ビシッと自分の体が反応したのがわかった。

母さんは俺をあやすように俺の髪を撫でた。

「剛くんがね、ごめんなさいって。もう、来ませんから……ごめんなさいって。将太にそう伝えてくださいって……。そう言ってた」

「……ック」

「将太……」

「もう……、やぁっ」

剛に言ってしまったひどいことも。

泣いている自分も。

これから剛が来ないのも。

ボールに未だに触れないことも。

白い、日に焼けていないこの肌も。

走れない、この痩せ細った足も。

全部、全部が嫌でたまらない。

「クッ……」

「将太……」

抱きしめてくれるぬくもりは小さい頃を思い出させられた。

伝わってくる、俺とは別の鼓動は眠気を誘ってくる。

母さんは離れることなく、俺が泣き止むまで俺を抱きしめてくれた。

母さんだから、息子である俺にしてくれること……

甘えさせてくれる

抱きしめてくれる

そばに、飽きずにいてくれる

受け入れてくれる

それらを考えると、俺は無力だ。

俺は抱きしめてくれる細い腕に触れた。

「母さん」

……泣いていた。

何で?

俺の涙はもう止まって乾いていて、ほほが緊張していた。

でも、母さんは涙を流していた。

何で母さんが泣いてるの?

母さんは俺の心を見透かしたように、けれども優しく笑って

「愛しているからよ……」

将太を愛しているから

そう言い、また、抱きしめられた。

小さかった頃、道で転んで膝をすりむいて、血が出てることに驚いて泣いたときの俺のように、兄貴に何かでいじめられて泣いていたあの頃の俺のように。

抱きしめてくれた。

愛しているからこそ、出来ること……?

泣くことも、甘えさしてくれることも……全て出来るのは愛しているから?

「将太、美味しいものを作ってあげるから顔を洗ってらっしゃい」

「う、うん」

母さんはもう泣いてなかった。


愛してるからこそ出来る。

泣くことも、受け入れることも……。

それは、親子だから?

でも今は、もしかしたら、もっとずっと前からあったかもしれないけど、本当の親子でも虐待があって平気で子供を見殺しにする親もいる。

枕に顔を半分ほど沈める。

最近、怪我をしてから泣くことがやたらと多くなった。

ちょっとした事でも、大きいことでも、泣いてしまうことが多い。

それは愛しているから?

……何を?

野球……?

うん、もちろん、大好きで。

何度もつらいこと、今だってあるし、それでも止めたくないのは愛しているから、だろうか。

瞬きをする。

他で泣くことと言えば自分にむかついて……って俺はナルシストか?

受け入れたりすることは、自分に甘えて、ナアナアにして。

でも、そんな自分にむかついて泣くことだってあって。

ナルシスト、とはちがう意味で自分を愛しているからなのか?

後は……剛。

剛のことで泣くこともやたらと多い。

何でだろう?

苦しくなって、何にぶつければ良いのか、コレが何ていうものかわからず、言いたいことも言えなくて。

でも、何を言えば良いのかもわからなくて、苦しくて。

そばにいればいるほど苦しくて。

だからといって、いなくなった後は寂しくて、泣いてしまう。

剛……ごめんな

自然と涙が一粒、こぼれた。

今日……のこと。

携帯を見ると、もう、日付は変わっていた。

あぁ、もう昨日のことになってしまった。

でも

ごめんな

剛……


いつから、この気持ちは生まれてたんだろう

あの夏の大会?

それとも、退院した次の日?

もっと、ずっと、前?

怪我をしてから俺は凄く泣き虫になり、胸が苦しくなることが多くなった

足が痛いから、ではなくて別のところが痛くてたまらない

外の痛みではなく、内の痛み……

これは、いったい……

3-1


俺はだだっぴろい草の上に裸足で立っていた

風が少し吹いていて短い草がバサバサと揺れている

空を見上げると雲が勢いよく動いている


雲は太陽のもとへ帰り、太陽から生まれる…


空は青くて、すごく青くて

雲は白くて、でも空に染まって青のようでもあり

太陽は眩しくて形は見えず

光が溢れんばかりに雲の合間からのぞいている


あの時、あの日と同じ空間にいる気がした


腕を伸ばし、口を開け、目を開け、

全てを受け入れる体勢で空を見た

風が心地良い

空気が…おいしく感じる


一度、まぶたを閉じてまた開けると

いつの間にか空の色は青から茜へ


いつかの見た空と似ていた

もしかしたら同じなのかもしれない

だったら…と思い辺りを見渡す


でも、いない

いて欲しかった

いるもんだと思ってた

いつもいてくれる奴が

優しく笑ってくれる…

目尻からほほにかけて流れてくるものが首筋に滑り落ちてきて、俺は目を覚ました。


「剛……」

頭も目覚めている状態だったが、もう一度俺は目を瞑った。

その反動で涙がまたこぼれた。

まぶたの奥にある記憶で剛を探してみるけど、そこには勿論いなくて

「……つよ、し……」

お気に入りの抱き枕を抱えながら俺は呼んだ。

会いたくてたまらなかった。

こんなにも誰かに会いたいなんて思ったのは初めてだ。

自分から拒絶しといて何が会いたいだ、と突っ込まずにいられないが、拒絶してしまったからこそ、会いたかった。

朝からこんな気持ちになるなんて今までなかったのに。

晴れ晴れとした空の真ん中にボテッと一つの雨雲があって、晴れていた空は次第にその雨雲に支配され、仕舞いには雨が降り始めるように。

半紙の上に墨を一滴たらすと、ジワジワその点が広がっていくように。

誰もそれを止めることは出来ない。

そんなむなしさが朝から込みあがってきた。

きっと、それは夢の所為。

……ちがう、俺自身。

「何やってんだかっ」

自嘲気味に笑い体を起こした。

階下へ降りると母さんはすでにパートに行ってるようだった。

リビングから見える駐車場には俺の家の車はない。

親父の車は単身赴任先で使用している。

兄貴は東京で一人暮らししているので今、家の中には俺一人だけだ。

用意されていた朝食を一人で食べる。

テレビを付けてみたが、どれもパッとしないのですぐに消した。

音は俺が食器をテーブルの上に置くときぐらいしか鳴らない。

外は今日も明るくて暑そうだ。

皆はもう、アップでも始めてるんだろうなー。

皆が部活に費やしているはずの時間を俺は山のような課題に費やすことにした。

切りが良い、というより解くのに飽きてしまいリビングで麦茶を飲んでいると車のエンジンの音が聞こえてきた。

その後に車のドアをバンッと閉める音も聞こえた。

ガチャガチャと玄関で鍵を開けている音がする。

母さんが帰ってきたのだ。

「ただいまー」

「おかえり」

母さんはパートをしているスーパーで買ったものをスーパーの袋ではなく、買い物袋に入れている。

その方が便利なのだと言っていた。

それを二つ提げてリビングに入ってきた。

「何かあった?」

小さい頃から留守番していた後に必ずされる質問。

そのたびに俺は

「何も」

と答えている。

「お腹空いたでしょ。すぐ作るからね」

母さんは買い物袋から何かをガサゴソと探して、それからイスに引っ掛けてあったエプロンを付け台所に入っていった。

俺は扇風機を付けた。

しばらくして、キュウリ、トマト、ハムと卵焼きと一緒にエビまで乗っかっている豪華な冷やし中華が出てきた。

「さ、食べましょ」

「うん、いただきます」

「いただきます」

箸を持ってそれを言うのは小さい頃から言われてたことだから家だと自然に言える。

けれど、部活で一久らと一緒に食べるときって言わねぇんだよな。

あいつらも、もう今の時間だと家に帰ってこうして飯を食ってんだろうか。

ズズーッとメンをすすっているとき、何か声が聞こえたけどあまりよく聞こえなかったので流した。

「……た。しょーた!」

「え、あ?」

「もう。麦茶取ってって聞こえなかったの?」

「そーだったの?っはい」

「全く……そんなにボーとしちゃってて」

母さんはコップに麦茶を入れ、麦茶が入っている入れ物をトンッとテーブルの上に置いた。

中に入っている麦茶が小さく揺れる。

「剛君と仲直りするわよね?」

「え……」

俺の中の何かも小さく波が立った。

「えって、昨日……」

「そりゃ、したいよ。……だって、高校の友達は一生モンなんだろ?」

母さんが、中学生だった俺によく言っていた台詞だ。

「そうよ」

「でも……まだできそうにない」

「そう、ね」

「うん」

俺は小さく頷き、口の中のつばを飲み込んだ。

どうして冷やし中華のタレってこんなにも濃いんだろうか。

口の中の違和感を消すため、俺は冷えた麦茶を飲んだ。

「ごちそーさま」

「はい、さげてね」

「うん」

カチャカチャ、と皿の上にコップやらを重ねて流しにある桶の中に入れた。

「じゃ、課題やってくる」

「はかどってる?」

「多少、ね」

あんな量、いくらやっても減ってない気もするが多かれ少なかれ減っているので多少だ。

そんな課題を減らしているとき、家の呼び鈴が鳴った。

誰だろう……という思いがかすめたが、すぐに誰でも良いという思いに切れ変わった。

しかし、机の上に広げてある英文字を全く読む気になれない。

誰かが階段を上ってきている。

スリッパの音の近いが……母さんと、誰だ?

いや、それよりも棒線部③のthatが指しているもの……

「将太、お客さんよ」

俺の考えていることはあっけなく崩れた。

「よっ」

母さんの後ろにいる誰かは……一久だった。

俺は首だけをドアに向けたが、挨拶の言葉は出なかった。

「今、冷たい飲み物、持ってきますね」

「あ、お母さん。おかまいなく」

いいえ、という声の後はパタパタと階段を下りていく音だった。

「あまりにも久しぶりだから将太くんは俺の美しい顔を忘れちまったかな?」

一久の声で我に返ると部屋のドアは閉まっていて、いつの間にか一久は俺のベッドに座っていた。

「てめぇは余計な一言が多いんだよ、バカが」

俺がそう言うと、

「そう、それが将太だ」

と一久は笑った。

その顔はこの前見た顔とはちがったものだった。

それからすぐに母さんは、麦茶と菓子を持ってきてくれた。

「わざわざありがとうございます、お母さん」

「いいえ、ごゆっくり」

じゃあねといいながら母さんはドアを閉め、階段を降りて行ったようだ。

一久は母さんが消えていった方向を見たまんまだ。

「どうした?」

「いやぁ……」

俺の問いに振り返ったのは良いが、今度は俺の顔をじっと見た。

「な、なんだよ」

何も悪いことなんかしてないのに一久の瞳に見られると後ずさりしたくなる。

「似てんだな」

「ハ?そりゃ、親子だかんな」

何を当たり前のことを言ってるんだか。

「まぁ、いいや。それよりもさ……」

そう、切り出して一久は普段の練習のことを話してくれた。

所々、剛が話してくれたものとダブっているところがあった。

それをあたかも初めて聞いたように笑おうとするたびに、剛の顔がちらついてきた。

最初の何分かは、きっと笑えていた。

でも。

「空元気だな。将太」

「……え」

一久は口の端を少しばかりあげて笑った。

とたん、夏だっていうのに背中がゾクゾクッとした。

「ま、剛は空元気出すほど元気なかったけどな」

「そ、うなのか?」

「剛」という言葉に驚いて声が上擦りそうになった。

「最初ッから最後までどじとエラーしっぱなしで監督に色々言われてたし」

「え……マジ?」

「声だって幽霊かよって言いたくなるほど小さかったしさ」

「……」

さっき話していたことのどれよりも一久は楽しそうにペラペラと喋っている。

「そのくせ毎日、練習が終わった後の外周は欠かさずやってんだけどさ」

「嘘だ!」

思わず、声がでかくなってしまった。

「あっ……」

「何が?うそ?」

「っ、外周してんのかよ、……あいつ」

「してるさ、毎日。それがどうしたってんだ?将太?」

垂れ目をさらに垂らして笑っている。

「や、何でも」

「ふ~ん」

一久はつまらなさそうに首を傾げている。

カラン、とコップの中で氷が溶けて薄くなった麦茶を、俺は一口飲んだ。

外周……一年の春、約束したアレ。

約束というよりも、俺が無理矢理、誘ったんだよなぁ。

それを剛は続けている。

俺がいなくても……。

冷たい麦茶を飲んだのに、のどの奥から熱い何かが込みあがってきた。

「なぁ、一久。……俺」

「ん?」

俺は出来るだけ落ち着いて素直に、剛に対する思いを一久に話してみた。

一緒にいて落ち着いたり、でも苦しかったりすること。

そして、昨日、自分が拒絶してしまった後にとても会いたくなったこと。

それらを一久は黙って真面目に聞いてくれた。

話し終えて、一久の顔を見ると何もつけてないような素の面をしていた。

こいつ、こんな顔もするんだな、と思っていると目が合ってニヤリと笑った。

こいつは、こういういやらしく自分を隠すような笑い方が似合うんだ。

「将太、好きなんだろ」

「ハ?」

「剛のことが好きなんだろ」

ゆっくりと、一久は言った。

聞いてる感じではない。

「好き?」

逆に俺が聞いてしまう。

「じゃなきゃあ、んな思いにならんでしょ」

「……そ、なのか?」

「うわー鈍感だねー」

ヤダヤダ、と手を振る。

どっかのオバハンか、てめぇは。

「そーいや、剛って毎日ここに来てたんだろ?」

「あ、うん」

急に聞かれて俺はもたついてしまった。

「好きじゃなきゃなせないことだよなー」

何のことだかわからない。

「あの見事なへこみ方を見ると、あいつ、将太のことが好きなんだよ」

うんうんと手を顎にかけ、頷いている。

「そんなこと」

「わかるね」

ピシャリと言われてしまった。

「お前が鈍感なんだよ、将太」

少し哀れの入った声で言われた。

決してバカにしているわけではないようだ。

「……気付くの遅かった、か?」

「遅いっつうか……でも」

一久は長くもない前髪をかきあげた。

「気付いて良かったんじゃね?」

「……何に」

「自分の気持ちにさ」

「キモッ」

一久の言い方がカマっぽかったからわざといや~な顔をしたら一久がずいっと顔を近づけてきた。

切れ長な瞳が近くにある。

「剛が将太を好きになるの、わかるねぇ」

「はぁ?」

「そこらの女よりかわいいし」

「母さんに似ているだけだ」

「な、俺とこうしててどう思う?」

「キモイ」

素直に感想を述べてやった。

「……じゃ、剛なら?」

いつかの日の午後、近くにあった剛の、野球をしているときとはまた別の真面目な顔を思い出すと急に恥ずかしくなってきた。

「わかりやすいねー」

一久に苦笑されてしまった。

そして、よいしょ、と俺から離れた。

「じゃあな」

「……と、とっとと帰れ!!」

枕を投げつけたろか、と思ったが近くになかったので止めといた。

一久が俺の部屋のドアを閉めなかったので、それを閉めるため俺は入り口に行った。 

すると、階下から母さんと一久の会話が聞こえてきた。

話しの内容はよく聞き取れなかったが、俺について話しているのは自然とわかった。

一久が家の外に出て、母さんがリビングに入る音を確認するまで俺は動けなかった。

動いちゃいけない気がした。

音を立てちゃいけない気がした。

しばらくして緊張が解け、俺は目的だったドアを閉めることなく、ベッドに腰掛けた。

「はあ……」

ため息がこぼれた。

「何、話してたんだろう」

それも気になるが

「好き、か」

一久に言われたことを自分で言ってみた。

好き。

だからこんなに悩んだり、苦しんだり。

他人に言われて初めて、気付いた。

やっと、気付いたんだ。

でも、知らないことはまだたくさんある。

「剛……」

すき、と声には出さずに口を動かした。

「ふ……っ」

笑えるほどこそばゆいこの言葉。

でも、どうしてだろう。

上を見ているのに、下を見ていないのに、涙がほほを伝う。

好き、好きだ……

剛……

町の中では5時を知らせる鐘が鳴り響いている。

俺のナカでも、きっと。

一久は、剛は俺のことを好きだと言っていた。

そうなのか?

本当のところはわからないが、今は会えないし、連絡も取れない。

……俺の所為で。

「バカだ」

俺は、バカだ。

鐘が鳴り止んだ。

俺の中では、今やっと動き出した。

部屋を抜け、階段を降りる。

今だと30秒後半で降りられるそうだ。

リビングからテレビの音がする。

でも、俺はそこには入らず右側のドアを開ける。

そして、洗面台で思いっきり、顔を冷たい水で洗う。

「ぶはあっ」

ボタボタと濡れた前髪から垂れる水を拭きもせず、前にある鏡を見つめる。

俺は、こんな顔をしていたんだ。

16年間生きてきて、今はこんな顔をしている。

肌はもともと、遺伝と生まれつきでどこもかしこも白い。

眉毛も濃くはなく、薄くて短い。

目は母さん似で、まつげが長く、二重で、でかい。

俺はこの目が嫌いだ。

女みたいで。

小さいころ、女の子に間違われることがよくあった。

さすがに今はないが。

鼻は大して高くもなく、だからと言って団子鼻でもない。

開いている口を閉ざすと、ウスペラな唇がよくわかる。

これは親父似。

一久はこれらを近くで見て……。

もう一度、バシャバシャと洗う。

そして、また鏡を見る。

たいして変化したところはない。

けれども、変わったところはある。

顔は親から受け継がれるが、表情は俺自身が造る。

まぶたを閉じ、小さく呼吸する。

―――――――――――――――――――――――――――――――決めた。

確かめたい。

あいつの、気持ちを……。

そして、俺の気持ちをあいつに……。

冷たい水とは別のそれがおれ顔を濡らす。

「ふっ……うっう」

俺の心と体が反発しあっている。

もう、耐えられないと。

まだ、無理だと。

どちらがどちらを強く強調しているのかわからないほど強く反発しあっている。

俺は立っていられなくなり、その場に座り込んだ。

いつかのあの日のように……。

3-2


一歩踏み込むのには足が必要

足を動かすのには体が必要

そして、意志が無くては体を動かすことは出来ない


そう、一部だけでは

前へは進めない


道を作る準備はもう出来ていた

あとは

そう、からだ全部を動かして

前へ一歩進めば良い

一歩進んだら、もう一歩


大丈夫、道は既に出来ている

少しずつ、少しずつ作ってきた道は

今、やっと目の前に広がることが出来た


あとは


そう、一歩ずつゆっくり歩いていけば良い

全てが一瞬で変わり別の何かに変わると


云うのなら

全てがそうなのだろう


俺自身、変わっている

たった一瞬でこんなにも、こんなにも…

お前に会いたくて、たまらない


飾った言葉など使いたくはなくて、

お前に会って、それで…


お前自身が一瞬で別のお前に変わっても

俺は、お前を…


お前が俺を憎んでいるのなら、俺は

一瞬をかけてこの気持ちを消し去ってやろう


そんなこと、出来やしないと別の俺が言っている

そうかも、知れない…


一瞬で生まれたこの気持ちは

一生をかけても心の端に残るほど消せないもの…


俺自身は一瞬で様々に変化していく


お前もそうなのか…

剛のことが好きだと気付いてから1週間が経った今日、まだ剛とは会っていない。


いつも、俺は家にいて、剛が俺の家にわざわざ来てくれるというカタチだった。

だから、俺はいつも待つ側だった。

しかし、あいつはあの日までは午後のある時刻付近になるといつも俺の家にいた。

だから、あの日までは待っているという気はなかった。

当たり前だったんだ。

それまでは、あいつがここに来るということが日常だった。

しかし、あの日以来ない方が日常になりつつある。

……待たない方が良いのだろうか。

『散歩するのはリハビリにもなりますし、気分転換にもなりますよ』

昨日、検査に行ったとき片桐先生に言われた言葉を思い出す。

散歩……とりあえず、外に出たくなったので比較的涼しくなる夕方に玄関の前に立ったのは良いが、ドアを開ける気にはなれない。

サンダルは、履いた。

時間はとっくにあの時刻を過ぎている。

外に、出て……散歩を、

「ピンポーン」

いきなり、呼び鈴が鳴った。

もしかして……という期待があって、俺は取っ手を掴み、ドアを開けた。

「こんにちわー。おりょ、将ちゃん」

「え!将ちゃん!?」

「え、あ……あ?どうしたんだ?」

目の前には制服姿のアリスと美紗がいた。

「お見舞いに来たんだけど。将ちゃん、どっかでかけるの?」

「いや、散歩に行こーかと」

嘘、ではない。

「そーなの?あたしらこの辺よくわからないからついでにどっか連れっててよ。ね?」

「うん、行きたい!久しぶりに将ちゃんに会えたんや」

最後のアリスの「ね?」と言う言葉は俺ではなく、美紗に向けられたもので、美紗は元気にそれに答えた。

美紗の元気な関西弁がいやに懐かしくて俺は笑った。

「あ、将ちゃん笑った。な、どこに連れて行ってくれるん?」

「お前がおかしーからだよ。すぐ近くに河川敷があるんだ。そこ行こーぜ」

「O.K!じゃぁ、将ちゃんはこれ、持って」

アリスはコンビニの袋を俺の目の前に差し出した。

「何これ?うわっつべてっ」

「言うたやろ。お見舞いやって」

美紗はそう言ってニコニコ笑った。

コンビニの袋の中にはアイスが3つ入っていた。

芝生の上にあるベンチに俺ら3人は座った。

アリスはオレンジ系のシャーベットで美紗は伸びるアイスクリーム。

んで俺はというと、イチゴのカキ氷だった。

「何で俺、これなわけ?」

「あれ、好きじゃないの?」

いや、だからそれをどうして知っているんだと俺は聞きたいのだけど。

「去年の夏、一緒にコンビニの前でアイス食べたとき、将ちゃんのそれだったじゃん」

「……あぁ」

そーいやそんなこともあったなぁ。

そん時は一久と剛もいたっけ。

一久はポテトとコーラを買ってて剛は俺と同じイチゴのカキ氷を買ってたっけ。

「忘れてたん?」

「いや。今思い出した」

「それ、忘れてたって言うんやでー」

少しいじけたような声で言った後、美紗は何が楽しいのかニコニコと笑った。

こいつはよく、和むような雰囲気を持った笑い方をする。

「美紗は将ちゃんに会えて嬉しいんだよ」

「え?」

「あ、ちょー何言うてんねん。嬉しいに決まってるやん」

俺を挟んで二人は目を合わせてアハハと笑った。

カキ氷も丁度いい感じにシャリシャシ感がわかる程度まで溶けた。

何の気も使わず、ただ純粋に楽しいという気持ちだけで笑ったのがやけに久しぶりに感じる。

昔、といってもそんなに遠くないあの日はもっと笑っていたのに。

不思議なもんだ。

夏の大会が来る前日まで、夜遅くまで残ってバカ話をしてたのが凄く昔に感じる。

そんな時、やっぱ近くに剛がいた。

一緒にいるのがあんなに当たり前すぎて今、こうして一緒にいないのが不思議だ。

アリスや美紗ともこんなに日にちをあけて会うだなんて、怪我をするまでは考えられなかったことだ。

しかも、学校から離れたここで学校の近くににあるコンビニで買ったアイスを食うだなんて。

大会で怪我をしてもうすぐ、1ヶ月が経とうとしている。

俺の心の中に、怪我に対して少し余裕が生まれたのだろうか。

まだ、野球をすることを許されてないこの俺が……。

「そーいやお前ら今日、どうしたんだ?」

かき氷を食い終わり、袋の中にごみを入れ、俺は二人に聞いた。

「明後日ね、秋のシード決定戦なんだ」

「あ。そうだったな」

「いっちィが情報流してるから対戦相手知ってるよね」

「槌田先生が行ったとこだろ?」

「そうそう」

槌田先生とは俺らが1年の時に監督を勤めていた先生だ。

今は市外の高校でやっぱり野球部の監督をしているようだ。

「明後日そこに勝ったらその日はそれで一応お仕舞い」

「へー。で?」

「うん。で、その次の日に第2試合にウチの学校が入っていて、その試合に勝つとまた試合。それを連勝すると、決定するの」

「へー……忙しいな」

「まぁ、そうかも。将ちゃん、でね。明後日と、出来たらその次の日の試合、観に来て欲しいと思ってるの」

「……というか、来るやろ?あたしはそう思ってんねけど」

「俺、は……」

まさか急にそんな話に飛ぶとは思わなかったので、俺は口ごもった。

しかし、二人には申し訳ないがシード決定戦に行くつもりは最初からなかった。

「悪いけど、行かないよ」

「……」

二人は黙って俺を見ている。

俺は一度、自分を落ち着けるために深呼吸をした。

「まだ足は完治してないし、あいつらが試合しているとこ観るのが、まだ正直……つらいんだ。今は……うん、悪いけど。まだ無理なんだ。あいつらが野球しているとこを喜んで観れるほど俺は出来た奴でもないし。……だから、ごめん。ごめんな」

「……将ちゃんが謝ることとちゃう」

憮然とした声で美紗に言われた。

アリスはそうか……とため息をついた。

「あのね、あたしは将ちゃんに応援してもらいたくて来て欲しい、と言ったんじゃなくてね。一緒に戦って欲しくて……っと近くでね。グラウンドから近い場所で戦って欲しいと思ってたんだけど……。うん、将ちゃんがつらいならうちらだってつらいから……。無理なこと言っちゃってごめんね」

アリスはしっかりとした口調で言った。

「その代わりと言っちゃあ何だけどね」

アリスは落ち着いた声で切り出した。

「将ちゃん、まだ背番号持ったまんまでしょ?」

「え、あーっそうだった。あ。シード決定戦って公式戦か?」

「そうやで」

「ってことは」

「そう。ウチの部は只今2年生9人と1年生7人の16人。つまり、将ちゃんの持っている背番号、14番は本来1年生がつける番号だったの」

「そう、だよな。……すっかり忘れてた。一久、んなことひとっことも言ってなかったし」

「いっちィもな、将ちゃんにソレ持ってて欲しかったから言わんかったんや」

「そうなのか?」

そう、と二人は真剣な眼をして頷く。

「せやからな、夏の大会に背負ったその14番を持ってて欲しいんや」

「明後日の試合に来たくない、というのならね」

「もし……もし、行くって言ってたならどうなってたんだ?」

「そのときは5番を背負ってもらう予定だったの」

「……5?」

5、とはつまり……サードを意味する。

俺が怪我したところを、俺自身で守れ、と……。

「先生はね、将ちゃんに復帰してもらったらサードに入れたいと望んでいるの」

「でも、」

「すぐにとは言わなかった。復帰してもらうのには時間が、かかったって良い。ただし、復帰したからにはサードを守ってもらいたいと……独り言のようにつぶやいていた」

アリスは淡々と喋っている。

美紗は隣でおとなしく黙っているが、瞳は黙っていない。

俺はお手上げな気分だ。

「わかったよ。アリス、美紗。今回の試合、あいつらが負けるまで14番を背負うことを約束する。そして、場所は違っても、遠くても、あいつらと一緒に戦うことを……誓う」

「ありがとう、将ちゃん」

ホッとしたようにアリスは言った。

「あーりーがーとーう!!!」

「うゲッ!」

今まで黙っていた美紗はいきなり俺に抱きついてきた。

「熱いから!離れろ!」

「あはは!いややー!」

3人の笑い声が夜の川にこだました。


「ただいまー」

家に帰ってリビングに入ると母さんは夕飯の準備も終えてイスに座って待っていた。

「お帰り。何か良いことあったの?」

「久しぶりにアリスと美紗と話した。……いただきます」

「どうぞ。……マネージャーさんね。どうだった?」

「ん?相変わらず元気だった。明後日から秋のシード決定戦始まるんだってさ。それで、試合観に来てくれって言われたけど……」

「けど?」

「んー、断った。でも、ほら、背番号あんだろ?」

「ええ。将太のタンスの中に入ってるじゃない」

「う、ん……。それもって応援しろってさ」

「そう。あ、そーいえばさっきお父さんから電話があってね、明日からこっちに戻ってくるんですって」

「へー。兄貴は?」

「あの子は、ずっとあっちでバイトするって言ってたから戻ってこないんじゃないかしら」

まったく、あのこったら親孝行してるんだかしてないんだか……と母さんはこぼした。

「あ、そうだ」

母さんは急に、ひらめいたように言った。

「何?」

「お父さんに、そのシード決定戦、だっけ?それ、観に行ってもらって電話で中継してもらったら?」

それは……良いかもしれない。

「そうしたら試合もよくわかるし、将太だって応援しやすいじゃない!」

「まぁ、確かにそうだけど。親父はわざわざ行くのか?」

母さんは俺の質問に楽しそうに答える。

「あら、お父さんは野球が好きなのよ。行くに決まってるじゃない!」

俺は家にいるんですがね……。

ま、親父が野球好きだったおかげで俺は野球を始めたわけなんだけど。

しかし、自分の息子がプレーしてないのをわざわざ……観に行くんだろうなぁ。

親父は7月から他見に単身赴任をしているのだが、そこの県の大会を会社の休みを利用して観に行っていたそうだ。

野球バカ親父殿。

明後日と上手くいけばその次の日の、試合の中継をしっかりやってくれ。

決して野次ばかり飛ばして何を言ってんのかサッパリわからん中継は止めてくれ。

俺はまだ家にいない親父にそう願った。

夕食を食い終わると俺は、冷凍庫からアイスバーを取り出してそれを食った。


「で?お前はあんなにかっわいーマネのお願いをけって自宅にこもるわけ?」

明日は試合だってーのに一久は来やがった。

しかも、昨日の話題を引きずって。

んなに睨むなよ。

「俺は、だ!親父が行くってよ」

「親父?」

「ほら、向かいの部屋からいびきが聞こえんだろ。明日の試合、親父に電話で中継してもらうんだよ」

文句あっか、と俺も負けずに睨み返す。

今朝方、帰ってきた親父は俺と母さんの話を聞いた後、飯を食って、昼前から貪るように眠っている。

おかげでうるさいいびきが聞こえてくる。

歯軋りがないだけまだましだと思いたい。

「ふーん?」

ちら、と一久はそっち―いびきが聞こえる方―を見てすぐこちらに向きなおした。

「お前が家にいんのに?」

簡単に俺の胸をえぐってくれることを言う奴である、こいつは。

しかも目が笑ってるし……。

「喜んで行くって言ってたよ」

俺はいやいやながら答えた。

「それより、明日のスタメンはどーなんだ?」

「先発は俺。4番は和也。以上!」

「てめぇら二人でするもんじゃないだろ、野球は!」

俺は思わず床をバシンッと叩いてしまった。

掌が少しばかり痛い。

「素直に聞きゃーいーだろがぁ」

「……だから素直にスタメンを聞いてんじゃねーか」

「お前が知りたいのは8番ライトの上川剛君。背番号9、だけだろーが」

「……」

「ほらほら。そんなに目、でっかく開けて照れてんじゃないよ」

「だ、誰が照れて……!!」

「ほれ、照れてる三浦将太君。認めなさい」

「うっ」

一久が差し出した小さな鏡には日焼けしてもいない俺の目元がほんのりと赤くなっていた。

いや、しかし何でこれを女でもあるまいしこいつはこんなにもすんなりと出せた?

「お前、いつもこれ持ち歩いてんのかよ」

「んー、まぁね。俺の必需品よ」

そう言って今度は自分の方に向けて顎をさすっている。

……ひげ、か?

「で、認めたらどうよ?」

「うぅ」

何も言い返せない自分が悔しい。

「お前ねー。ってか、お前ら、か?昔っから怪しかったんだよ」

「んだよ、怪しいって」

言ってから何となく後悔した。

「そのまんまだよ。お前ら何かと練習中からつるんでたじゃん」

「それは、ペアが多かったから……」

事実、それだったんだから仕方ない。

「それに、自主練のとき走ってただろ?」

「あ?うん」

「なんかなー。見ててうっわーとかなったよ」

「何だそりゃ」

「仲良くてもそこまでしないだろぉよ」

「そうか?」

俺はなんとも思っていなかったんだけどな。

「俺、和也と走るのはごめんだし」

「あ、そう……」

そんなに嫌そーな顔すんなよ。

お前らバッテリーだろうが。

「あっ」

急に、気になりだした。

「何だ?」

「……なぁ、一久はこんな俺、どう思う?」

「あ?」

「その……俺が、その、えっと。あいつを……剛を……」

聞きたいのに言葉にしにくい。

俺がごしょごしょ言っていると、

「ああ。気にすんな」

一久は手を左右に振った。

そして俺に近づいた。

「だって、好きなんだろ?」

まるで、内緒話をしているかのように―事実そうかもしれないけど―小さく、囁かれた。

「う、うん……」

恥ずかしいその囁きに俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。

今ここで鏡を向けられたらさっきよりも真っ赤な自分が映ると想像するのはたやすい。

一久を見ると制服の胸ポケットからそれを出そうとしている。

「か、鏡なんていらねぇからな!」

慌ててそう言ったら

「そう言われると出したくなるんだけどなぁ」

ニヤニヤ笑われた。

こいつに相談して良かったんだろうか、と時々思ってしまう。

「まぁ、良いか。んで?告んの?」

「はぁ!?」

「……んなにでかい声出さんで良いだろー」

しかめっ面に指で耳をふさぎながらまた睨まれた。

いきなりんなこと言われたらでかい声も出したくなるわっ。

俺は叫びたくなったが、取り敢えず深呼吸して落ち着かせた。

「なんで、告んだよ?だって、俺、あいつとケンカしてから会ってなんかいないし、メールとか、電話してなくて……。ってか、俺、あいつにひどいこと言って……」

「んなに慌てんなって。今すぐとは俺だって言ってねぇだろ?……好きなんだろ?」

「そ、だけど。……でも」

受け入れてくれるのだろうか?

いや、その前に俺と話してくれるのだろうか?

いくら、仲の良かった奴といえ、あんな形の拒絶をしてしまって。

そんな状態で俺から告白だなんて、そんな……。

好きだ。

けど、でも……。

俺の頭の中では色んな言葉がめまぐるしく飛び交っている。

どうすれば良いんだ……?

好きという気持ちだけでこんなにも悩むだなんて。

剛に対する気持ちがこんなにも膨らんでいたなんて。

どうすれば。

どうすれば、良いんだ……?

一久はいつの間にか立ち上がり、利き方とは逆の左肩にエナメルバッグを背負っていた。

「まぁ、大いに悩むことだな」

ニヤリと笑い、奴はじゃぁな、と言い残して部屋を出て行った。

俺は座ったまま閉ざされたドアを見つめたまま動けなかった。

まるで、そこに何かがいるかのように見えて。

向かいの部屋からは親父のいびき声が、外からは蝉の鳴き声が聞こえ、うるさくて仕方なかった。


シード決定戦初日、その日は当たり前のように勝ったようだ。

親父によると、槌田先生は前にも増して選手に対して檄を飛ばしていたらしい。

しかし、いくら活を入れても部員の動きがそんなにすぐ良くなるわけがないので、あれよあれよという間に9回が来てウチの快勝に終わったらしい。

親父は試合が終わってからの電話では「明日のにも行けるんだな」と嬉しそうに語っていた。

あー勝ったんだなぁ、あいつら……。

親父からの電話が切れた後、ぼおっとしていたら机の上に放置していた携帯が鳴り出した。

誰だろ、と思ったら久しぶりに見る番号と名前が出ていた。

……出て良いのか?

恐る恐る、通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。

すると……、

「おーい、将太?」

「え?あ?……一久?」

「そーだよ。お前、出んの遅いよー」

「あ、や、悪い……てか、これ」

お前のじゃねぇだろ、と言うより先に

「そ、剛の」

と当然のように言われた。

「何でお前が」

「おい、剛。ホレッ」

「っておい!!」

せめて俺にも喋らせろ!

「――もしもし?」

少しの間があって声が聞こえた。

それは、

「……剛?」

「将、太……?」

俺が恐々尋ねると、向こうも変な間を入れて聞いてきた。

「……うん」

「……」

小さく頷くと、会話が途切れてしまった。

「あの……えっと、」

それでも俺の口から勝手に言葉がこぼれていく。

「今日の試合、勝ったんだろ?」

今さっきまで親父から聞いてて知っているのに俺は思わず、聞いてしまった。

「うん!勝った。……おれ、たいしたことしてないけど」

「そーなのか?」

「うん……。なんてーか、ポテンに近いヒットを打ったぐらいだし」

「バカ、良かったじゃねーか」

お前にしちゃヒットなんて珍しいもの、もっと喜べば良いのに。

「いや、エラーもしたから」

「バカ……また躓いたりしたんだろ?」

「え、何でわかったの?」

ノックで何度お前の間抜けな姿を見てると思ってんだ。

「お前が、……バカなんだよ」

夏が来る前の練習風景が急によみがえってきて、俺の声は泣いているかのようにかすれてしまった。

「……将太?」

耳元に、実際に喋っているよりも近くに剛の声が聞こえる。

それはとても優しい、甘い声で……。

「バカ……バカバカバカ!!」

「将太?」

「俺も、お前も……バカだ……!」

言い終えたのが先かどうかわからないが、俺は思わず電話を切ってしまった。

何やってんだろ、俺。

久しぶりに話せたというのに。

「あーもぅ……」

剛の声が頭の奥からよみがえって来て胸の中で響く。

「……くっ……ぅ」

涙が溢れてきた。

どうして、切ってしまったんだろう。

どうして、この前のことを謝れなかったんだろう。

「何で……」

―好きなんだろ―

一久の声が俺の胸に突き刺さる。

そうだよ、

好きなんだよ

剛のことが好きで……

もう、もう、耐えられない……

怪我をしてから、丁度1ヶ月経った今日。


俺はまだ野球をすることの出来ない体のままで、皆は秋のシード決定戦を迎えた。

昨日は前監督、槌田先生が監督を務めている農業高校に快勝。

そして、決定戦が行われる今日。

狭間球場で、鍵野三並高校と対戦し、サヨナラ勝ち。

そしてそのまま鍵野商業高校と対戦。

鍵野商業高校とは、春季大会でウチとあたり、ウチに負けてから打倒鍵野斎条高校になったらしい。

そもそもあの時は、あちら側がウチをただの進学校となめてかかってきたのがウチを勝利に導いたわけで。

でも、今回は本気でやったらしい。

ウチだって……と、親父は、電話だからこそわかるような熱気に満ち溢れた応援をしていたが、三並高校との試合の後で疲れもあってか、惜しくも敗れてしまった。

その点数は、春季大会のときの点数を逆転にしたものだった。

つまり、春にウチが入れた点数をそっくりそのまま商業高校が返し、ウチが入れられた点数を商業高校が入れられたという……なんとも奇妙な試合だったようだ。

結果、シードは鍵野斎条高校ではなく、鍵野商業高校になってしまった。

というのは、親父の二日連続で行われた生中継で子と細やかに知ることが出来たのだ。

1試合目で剛のヒットがあったから、勝ったということも。

2試合目であいつが打たれて点を入れられた、ということも。

そして、試合が終わってから3時間が経った、午後7時。

「ピンポーン」

呼び鈴が鳴った。

あら、誰かしら……と母さんは玄関に向かった。

俺は気にせずテレビを見る。

今から巨人と剛贔屓のヤクルトの試合が始まろうとしている。

剛……あいつは今日どんな気分なんだろ。

実況アナウンサーが両チームのスタメンを紹介している。

ふいに、玄関から声が聞こえてきた。

「あら、剛君じゃない。……来てくれたのね、ありがとう」

「いいえ、こちらこそ……ありがとうございました。あの、将太君、いますか?」

実況アナウンサーの声なんてもう、聞こえなかった。

中継そっちのけで俺は玄関に向かった。

「……」

目の前に、剛がいた。

夢とか、そんなんじゃなく現実に剛がいる。

「将太。今、あなたを呼ぶとこだったのよ」

母さんの言葉を無視して俺は前に出た。

「外で話そう」

「え……あ、でも……?」

困っている剛をよそに俺はサンダルを履いた。

俺のその行動を見た母さんは「気を付けて行ってらっしゃい」と言ってくれた。

「うん……行こう」

今度は無視せず、答えた。

「あ、うん。……お邪魔しました」

「いいえ。今日は、本当にお疲れ様。皆にも……とくに、丸山君によろしく伝えといてくださいね」

「はい。ありがとうございます。……では、失礼します」

そうしてやっと、扉は閉じた。

どうして、母さんが一久の名前を出したのだろうか。

後で、聞いてみようか……。

俺と剛は、先日美紗とアリスと行った河川敷に向かった。

歩いている最中、剛は一言も喋ろうとしたかった。

だから、俺も話しかけようとはしなかった。

何から話しかければ良いのかわからなかったし。

先日、あいつらと座ったベンチの前まで来たとき、剛が呼吸する音が聞こえた。

トクン、と俺の心臓が脈を打つ。

「今日の……試合、もう知っている?」

俺の方を見ようとはせず、川を見ながら剛は俺に問いかけた。

「あぁ。親父が教えてくれた。」

俺も、そちらを見て答えた。

「そう。来てたもんなー、将太のお父さん。……お母さんも知っているようだったね。じゃぁ、詳しいことも……試合の流れも、知っている?」

「……」

知っている、が俺は頷かず、剛と同じ方向―川の方向―を見た。

「座ろうか」

剛が肩にかけていたエナメルバッグを芝生におろしたようだ。

「……あぁ」

俺がベンチに腰掛けたのを確認すると、剛は俺と少し隙間を作って座った。

空は、まだ星が輝きだす準備でもしている最中なのだろう。

月がうっすらと見える。

座ったまま透明のバットを握って素振りしながら剛は語りだした。

「1試合目の最後の打席……その試合、初めてまともなヒットを打てたんだ。打てたときはそりゃ、凄く嬉しくて、嬉しくて……。初めての3塁打だった。」

照れたように首をかしげた剛の目はすぐに暗くなった。

「でも、それで気が抜けちゃったんだろうなぁ。打たれちゃったんだよね、次の試合。決定戦で。せっかくピッチャーとして出してもらえたのに。丸山を休ませたかったのに……。あっという間だった。皆が繋いで取った点を、おれ、いとも簡単に入れられちゃって。次の回、交代されて……ベンチで皆の姿を見てやっと目が覚めた。けど、もう遅かった。目の前に繰り広げられている試合が……。おれの所為で、おれが浮かれた気分のまま球を投げていた所為で皆を苦しめてしまった。せめて……と攻撃のとき、打てればよかったんだけどな。交代されるまでその試合、2の0(2打席中0本のヒット)だった。ボテボテのゴロで進塁させることしか出来ないまま……おれの出番は終わったんだ。」

言い終えると、剛は自嘲気味の笑いを漏らした。

目は……空を見ていた。

俺もつられて空を見上げた。

ほのかに暗くなって行く、空。

すぐに視線をおろして、剛の方を向くと、なぜか剛も俺の方を向いていた。

「あ……」

急に目が合って、驚いた俺は思わず声に出してしまった。

剛は声を出さずに寂しげに笑った。

お前に、そんな寂しさは似合わねぇだろ。

そう言いたいのにこの少しの隙間が遠い。

ベンチに乗せた手を剛の方へ伸ばす……が、遠くて届かない。

「今日……」

剛はゆっくりとした声で切り出した。

「今日、会いにきたのは、試合のことを言いたかったのもあるんだけど……」

ふいっと視線を移した。

また、川の流れを見ている……ように見える。

「けど、何だ?そういや、お前。さっき母さんに来てくれてありがとう、とか、丸山がどうとか言われてたよな」

「うん。あのそれは……丸山に止められてるんだ。」

「何だ、それ」

「おれもよくはわからないけど、止められていて上手く説明できないんだ。」

「そっか。あ、話……切っちまったな」

「ううん。良いよ。……人ってさ、その……傷つけあいながらも生きているよね。それでも生き続けていく。時には誰かを傷つけたのかもわからず、傷つけたことも知らず平然と過ごしている人もいる。逆に、傷をたくさん負っている人もいる。人は、さ……誰もが皆、傷を負いながら生きているんだと……この前のことと、今日のことで凄く身にしみた」

「……」

「将太」

剛は俺を、真っ直ぐに見た。

そして、ガバッと頭を下げた。

「ごめん!!おれ、気付かなかった!将太に言われるまで、あんなにも将太のこと追い込んでいたなんて……気付いてやること、出来なかった……ごめん!」

「剛、……顔、上げろよ。なぁ」

「いや、上げられない。ごめん……ごめん、将太……!」

夜の黒い川に、剛の叫びが響く。

それは悲しい叫びで……。

「剛、上げなって。俺だって剛にすげぇひどいこと言ったし……」

そう、俺は剛に拒絶の言葉をぶつけた。

それだってのに、剛は俺に会いに来てくれた。

そして、謝っている……。

謝るのは俺だというのに。

「俺の方こそ悪かった……ごめん」

やっと言えた謝罪の言葉。

その言葉を言い終えた後、剛は下げたままの頭を左右に振った。

「将太は謝らなくて良いんだよ。おれが将太を追い込んでしまったのだから……」

消えそうな、声だった。

「剛、……良いから、顔、上げろよ。俺だって八つ当たりに剛にひどいこと……言っちまったし」

「ううん……おれこそ、無神経だった。……ごめん、将太」

「もう、もう……良いから。充分……わかったから。……顔を、上げてくれ」

「うん……」

剛はゆっくりと顔を上げた。

先ほどまでの声は消えそうなほど弱かったのに、瞳の力は強かった。

周りはほのかに暗いというのに剛の眼だけ光っているようだった。

「将太、おれはな……」

けれども、声は今にも泣き出しそう。

「おれは……おれを見てて欲しかったんだ。毎日一緒に頑張ってきた仲間が急にいなくなって、一緒だった分、頑張ってきた分。いない……将太がいなくなったとき、すごい、ぽっかり穴が開いたような感じで。……だから、毎日情けない姿でも将太に見せたかったんだ」

だんだんと、声にも張りが出てきた。

聞いてると、一つの疑問が浮かんだ。

「剛、それは……」

今度は、俺の方が掠れていた。

「……?」

質問の意味がわからない、と剛の眼が言っている。

俺は言うのが怖かったが、言わなきゃ伝わらないんだ、と心の中で自分を叱った。

「それは、一久や、池田や、大久保や……」

俺は部員の名前を並べて言った。

剛はそれを聞くと、ああ……とかすかに笑った。

「将太、だけだよ」

優しい声だった。

―こいつ、言っていること、わかってるんだろうか?

「……」

何も言えない俺に剛はまぶたを閉じて頷いた。

「将太だから、毎日見せたかったんだ。情けない姿も、自分で言うのもおかしいけど……頑張っている姿も。その姿を見せたくて、知って欲しくて……将太、だけに」

―あぁ、わかっているのはこいつでわかっていないのは俺だ

剛は中学の頃、ほとんど試合に出たことがないらしく、中学最後の試合はスコアラーで終わったらしい。

経験が他の人よりも少ないまま、高校に上がり、野球部に入ったそうだ。

俺はというと、走るのはそこそこに良い方で、好きだったから中学の頃はそれで何とかカバーしてきた。

しかし、背はあまり伸びず、体も小さく、スタミナは平均的にあったがそれは平均だったから、次第に他の部員に抜かされ、後れを取りながら高校に上がった。

俺ら以外の皆は、高校でも野球を続けるなりの理由があった。

それは、クリーンアップ(打順の3、4、5番)の経験があるとかキャプテンを務めていたとか。

だから、よく二人で残って練習をした。

追いつくように、力をつけるために、練習に慣れるために。

二人で、頑張ってきた……。

だから、

あぁ……

「ごめん……」

今度は俺の声が泣きそうになった。

事実、俺は泣きたくなった。

「ど、どうして謝るの?将太は悪くないよ?」

何で、お前そんなこと言えるほど優しいんだ。

「あんなに、二人で頑張ってきたの……俺、忘れっ」

「これからまた二人で頑張っていこうよ」

「でも、足が……」

そう、俺の足は、今は野球どころか全力で走れない。

「……無じゃないだろ」

「?」

「ゼロじゃないだろ」

剛の言っていることがいまいちわからない。

「将太のスタートラインはゼロじゃないってこと。去年あんなに頑張ってきたんだもの。途中からまた、頑張っていこうよ。な?」

ゆっくり、諭すように剛は言った。

その言葉はスーッと俺の心の中に入ってくるものだった。

「将太?」

穏やかな声で呼ばれる。

「剛……」

何でだろう。

どうして、剛の名を口にするだけでこんなにも胸が苦しくなるんだろう。

「将、太?」

まるで伝染したように剛の声も苦しそうに俺の名を呼んだ。

どうして……

剛の腕がすっと伸びてきて、その手が俺の髪に触れたがすぐにそれはおりた。

「帰ろうか……?将太のお母さん、心配しているよね」

切なげに笑う剛につられて俺も返事をしながら笑った。

剛は立ち上がってエナメルバッグをしょった。

「明日……明日から部活は盆休みがあって16日まで休みなんだ。明日の朝……昼でもいいんだけど、学校に来れる?」

「明日?明日は、午前中に病院に行かなきゃいけなくて……。昼からはたいした用事は入ってねぇけど」

「じゃぁ、っと。12時30分頃に学校の正門前に来てもらえる?あの、できればお昼ご飯は食べてきて欲しくないんだけど、それでも良い?」

「良いけど。……どーして昼飯食わねーで昼頃に会うんだ?」

「んー?来てからのお楽しみだ」

剛は月をバックにニカッと笑った。

どうしてだろう。

緊張感が伝わってきて俺の心は跳ね上がった。

そうして……俺らは輝く星空の下、明日会う約束をして別れた。














ラインの引かれている

そこまでの

あと一歩が長かった

でも、道は終わりではない

まだ、続いていく道

これからは…
























季節は夏だというのに

空から真っ白い雪が降ってくる


それは触れるとすぐに溶けて消えてしまう…

触れたそれは冷たいはずなのに

温もりがあって、あたたかい


だから、裸足で立っていても

周りに雪が積もっていても

寒さを感じない


まるで、そうまるで…


降り続けていた雪が

桜の花びらに変わった


初めて会ったあの日のように


お前の言葉で

心があたたかくなる


今はまるで、そうまるで…

からだすべてがあたたかい


季節は夏だというのに


この、

あたたかさが

嬉しい

甘い空間から目覚めて、俺はうっすらとまぶたを開けた。


寝返りを打つため、体を横に倒すとき手が内股に触れた。

「……!」

そのとき、痺れが俺の身体の中を走り回った。

もしかして、と思い腹の上に掛かっているタオルケットをまくると、

「……あー」

俺の分身でもあるソコは見事に勃起していた。

「ど、どうしよう……」

まるで語りかけるように俺はソレを見た。

どうしようもなく、ソレを抜かなくてはいけないのだが。

まさか、くるとは思っていなかった。

まぁ……濡らしていなかっただけでもマシだったと思いたい。

思いたい、思いたいのだが……

「どうやって、いや……とりあえず、ティッシュだ」

俺は枕元付近に倒れているティッシュ箱を自分の近くに置いた。

こういうときって鼻炎で良かったと……思いたい。

とりあえず、俺はハーフパンツと下着を脱いだ。

そして久しぶりにその状態になったソレに触れた。

「っう……あっ」

ちょっと触れただけなのに変な声が漏れてしまった。

俺は隣の部屋で寝ている親父たちに聞かれるのを危惧し、Tシャツの襟元を口に含み、強くかんだ。

男にとっては当たり前(だよな?)なこの行為。

でも、同時にコレはとてもいやらしくて……。

剛も、やったりするんだろうな。

剛……。

剛の指は長くて、細くて……手の平も俺のよりも大きくて。

「んふっ……っふ」

俺はまぶたを閉じて、いるはずもない剛を想像しながらソレを扱いた。

そうすると、とても甘くて心地良い酔いが俺に訪れた。

剛……

その時。

―将太、好きだ……好きだよ

聞こえるわけも、言われるはずもない剛の声が俺の耳元に入ってきた。

その刹那、俺のソレは、吐き出した。

俺の手の平には白くてベタベタしたものがまとわりついていた。

とりあえず、こぼすことなく出来たわけでホッとした。

こーゆー時って一人部屋で良かった。

ティッシュを数枚抜き出して、ソレを拭おうとした時何を思ったのか俺は

「……!!うげっ!」

指先についた白濁液を舐めてしまった。

すぐに、吐き出したくなった。

……俺、なにしてんだろう。

ソレをティッシュに包めてゴミ箱に捨てようと投げたら上手く入らなくて凹んだ。

それでも、この部屋の青臭い匂いを消さなければいけないので俺はベッドから降りて部屋の窓を全開にしてついでに扇風機も回した。

「……うーん」

さっき拭った手の平は少しベタついていた。

まさかまた舐めるわけにもいかないので、洗面所に行って手を洗うことにした。

ついでに顔も洗うことにした。

顔を拭いて鏡を見ると妙にすっきりした表情の俺がいた。

……溜まって……いたんだろうなぁ。

前にやったのっていつだっけと思い出してみると1ヵ月半ほど前にやった記憶がよみがえってきた。

怪我のことがあってからこれをすることを忘れていた。

でも……。

夢に剛が出てきたきがして、それで俺は、……。

あいつをネタにやってしまった。

「……」

洗面台の縁に手をかけ、俺はうつむいた。

俺は、剛をそーゆー……セックスをしたい……対象にも好きだというのかよ……。

ちょっと待て。

その場合って……男同士だとどうやるんだ?

中学の頃、性教育とか、佐々木や大久保がたまに持ってくるエロ本とかで男女のは知ってはいるが……。

男同士って……?

抱いたり、抱かれたりとか、あるんだろうか?

その場合って、俺って?

一瞬、剛の細いくせに逞しい体を思い出してしまい、鏡に首まで赤く染まった俺がいた。

俺は慌てて、また冷たい水で顔を洗うはめになってしまった。

リビングに入ると、カーテンが閉まっていて朝だというのに暗かった。

俺は光を遮断しているカーテンをレースごと開けた。

「うっわ。眩しいな」

太陽の光が目に入って腕を掲げ、目を細めた。

後ろから、スリッパのパタパタという音が聞こえて俺は振り返った。

「おはよう、将太」

「っはよ」

珍しく親父も朝からちゃんと起きていた。

窓の近くにいる俺の下に、数メートル離れたドアから母さんが静かに歩いてきた。

そして、母さんは俺を真っ直ぐ見上げた。

母さんってこんなに、小さかったけか?

母さんは細い腕をあげ、冷たい指を俺の頬にあてた。

「将太、あなたは日に日に大人になっていくわね。母さん……悲しいけど、それはとても嬉しいことなのよね。……お誕生日おめでとう、将太」

「え……あ、今日って」

「将太が生まれてから今日で17年が経った」

親父が、静かに答えた。

「そう」

小さく、母さんは笑った。

「今日、8月13日は将太の誕生日よ」

そう言った母さんの目は何故かキラキラと輝いていた。

「ありがとう。……でも俺、今日、昨日言った通り昼飯いらなくて帰るのだって遅くなっちまうかもしれないし」

「ご馳走ならその間に作れるわ。ケーキも後はお店に取りに行くだけだし。それに折角友達が誘ってくれたのだから、行かないと。高校の時出会った友達は一生続くのよ」

「……はい」

最後の台詞は母さんの口癖のうちの一つだ。

俺はそれに対し、口に出して頷いた。

親父は腕を組んで俺と母さんのやり取りを静かに見守ってくれていた。

昔……それこそ、俺や兄貴が生まれるもっと前に、親父と母さんは高校時代に出会ったらしい。

大学は別々だったが、母さんが大学を卒業したその年に、結婚をしたらしい。

そして、その数年後、兄貴が生まれ……俺が生まれた。

それから今日までの17年間。

17年目の1日が始まった。


病院に行くときは親父に連れて行ってもらったが、帰るときは自力で帰労と思ったので先に親父に帰ってもらった。

そして、診察室にいる顔見知りの片桐先生に俺は聞いてみた。

「あの、自転車をこいでも平気ですよね?」

質問の内容がおかしかったのか、先生は笑顔で「もちろん、平気です」と言った。

「でも、えー何て言うんでしょうか。立ってこぐことは駄目ですよ。それには注意してくださいね。足に負担が掛かるようなことはしないように」

笑顔で恐ろしいことを言われたので俺は危ないことはしない、と心の中で誓った。

病院の冷房が効いているのとはまったく別の気温が外にはあった。

セミもうるさく大合唱している。

俺は、ゆっくり、でも確実に一歩ずつ足を動かして家に帰った。

そして無事に着いたことは良いが、着ていたTシャツにべったりと汗が染み付いてしまったので、俺はシャワーを浴びることにした。

また、すぐ別のものに着替えるので俺は洗濯機にさっきまで着ていたTシャツを入れ、洗濯籠の中にパジャマを入れておいた。

シャワーを浴びると、たった十数分歩いていただけなのに、赤く火照った腕にしみるような痛さが走った。

改めて考えてみると俺の肌は黒く焼けたことがない。

赤く焼けてはいたい思いをし、それが引いて、また赤く焼け……と夏の間はそれがエンドレスに続く。

例えば、焼けたのがそのまま残り、更に肌が焼け黒くなる……ということは俺にとってはないことだ。

去年、アリスは放って置いたら黒く焼けたから、次の夏は絶対に焼かないと宣言をし、春頃から日焼け止めを付けていたっけ。

美紗はあまり気にはしていないようで、試合がある日は顔だけ塗るようなことを言ってたっけか。

部員の中では一久が唯一日焼け止めを持っていたよな。

「敏感肌だから焼けるといてぇんだよ」と一久が言えば「おれ、焼けたことって滅多にないんだよなー」と剛が一久を物珍しそうに見ていたっけ……。

剛……。

今日、これから奴と会うっていうのに、俺は。

「あ……っん」

またソコを弄りたくなる衝動にかられた。

うっすらと目を開けるとそこ以外の別のところも勃起していて驚いた。

「え……何で、だ?」

俺は恐る恐る湯で濡れている胸の……乳首に触れた。

「うっ……あっ」

何、これ。

ちょっと触れただけなのに、俺の中心は元気に反応し、しかも変な声が口から漏れた。

どうしちゃったんだろ、俺。

ほんの少し剛のこと考えただけで、こんなにも俺の身体は、おかしくなっている。

もし、もし……あいつが、俺のことを好きだと……。

そんな確率、無いに等しいのに。

身体を、あいつに触られたりしたら……。

ありえないことなのに。

「あっ……はぁっ」

それでも、俺の手は止まらずにソレを扱いていた。

見えない、手に入るわけも無い……剛を求めて。

「く……ひ、く……つ、よ……あぁ……!」

名前を全部言い終えることなく、俺は今日2度目の絶頂を迎えた。

気付けば、俺の顔は湯ではないしょっぱいもので濡れていた。

俺は俺を流さず、スポンジに泡をつけ、体を洗い流した。

シャンプーも終わり、濡れたままの顔を綺麗にするため、洗顔フォームを手に取り、って顔をさっぱりさせた。

泣いてなんか、いられない。

今日……言わなくては。

たとえ、たとえ……答えが俺の求めているものと違っても。

俺は恐れてはいけない。

恐れるのは……聞いてからだ。

まだ、何もしていないのに恐れるのは逃げだ、と俺は思う。

俺は風呂場から出てバスタオルで一気に体を拭きパジャマを着て、自室に向かった。

タンスの中に眠っていた夏物のズボンとワイシャツを取り出した。

久しぶりに着る、制服。

長い間タンスの中にあった所為か、防虫剤の匂いが染み込んでいた。

それが、少し残念だが、仕方ない。

これからまた「当たり前」を取り戻せば良いのだから。

制服に着替えた俺は階下に降りて、リビングで昼飯を食っている親父と母さんに

「行ってきます」

と言った。

外は、太陽が大きく輝いている昼。

俺は久しぶりにチャリにまたがり、学校に向かった。

何日かぶりに通る道は俺にとって新鮮だった。


正門に近づくと、ガヤガヤと数人の声が聞こえてきた。

バスケ部が合宿にでも来ているのか?

いや、これは……違う。

門をくぐると、そこには……皆がいた。

「将太!!」

「将ちゃんー!!」

「HAPPYBIRTHDAY!!!」

「え!うわっ何だ?!」

クラックのパーンと弾けた音と同時にその中に入っているくるくるした紙が俺の頭にかぶった。

「うわーい!大成功や!」

「いい面だったぜ~?将太」

「へ?え?え?」

美紗や一久たちのノリについて行けず、俺は頭の上にあるそれをとることすら忘れて、皆が笑っているのを呆然と見るほかなかった。

すると急に頭の上がふわんと軽くなった。

「?」

振り返ると剛が立っていた。

「お誕生日おめでと、将太」

笑顔で言われ、俺は今朝のことと、さっきことを思い出し恥ずかしくなって顔を伏せた。

「将太?」

昨日、誘われたのはこのためだったのか?

今まで変に緊張していた自分が情けなさ過ぎる。

「おい」

「……はい」

低い声で言うと、剛はおびえた犬のように返事をした。

「俺、昼飯食ってなくて腹減ってんだけど」

「うん、おれも減っている」

「あたしたちだって、お腹空いてるよ」

「じゃぁ、もちろん、おごってくれるよなー?」

語尾を上げるとき、皆を見渡しながら言った。

「当ったり前だろー!」

「なんてったって、今日は将太の誕生日だかんなっ!」

「あはは!ってか、てめぇら暑苦しいから離れろ!」

おれと仲村や一久がギャーギャー騒いでいるのを剛と美紗は笑いながら見ていた。

が、やがて……。

「近くのファミレス、予約してあるんだから!早くそこに行くよ!!」

というアリスの一喝によっておれらの動きはピタッと止んだ。

店の中に入ってようやく落ち着いて皆を見てみると、制服は俺と剛だけだった。

こんなんだったら私服着てくればよかった。

剛が「学校で……」とか言ったから制服で来ちまったじゃねぇかよ。

「将太、何食べる?」

俺と同じ制服を着てきた奴は気の抜けた雰囲気で俺に尋ねた。

「えっと……メニュー見せてくれ」

「うん。ハイ」

気の緩んだ風に接せられると俺がいじけているのなんて馬鹿らしく思えてきたのでやめて、メニューを見ることにした。

「俺、天津飯する。あと、ドリンクバー。お前は?」

「うん、じゃぁおれは……麻婆豆腐とランチセット、でドリンクバーにする」

「お前、よく辛いもん食う気になれんな」

「そーゆー気分なんだよ」

「ふーん」

「お二人さん、決まったのならオーダーするけど?」

俺の向かいに座っている一久は俺らを見ながらニヤニヤ笑っている。

くそ……なんで俺はこいつと同じテーブルなんだ。

「うん、お願い」

多分だが、何のことかわかっていない剛は平然と答えた。

一久は注文するため腕を上げウエイターを呼んだ。

そして同じテーブルである俺、剛、池田の希望したものを順々に言った。

「ドリンクバイキングはセルフサービスになっておりますので……」

というお決まりのことを守ろう、というかそこに行こうと思い、

立ちあがろうとしたら、剛が先に立ち上がった。

「将太、何飲む?」

「ハ?何?いいよ、俺自分で行けるよ」

「行かしてやれば?池やんは俺のコーラをよろしく」

「お前はどこも悪くないでしょーが!自分で行けよ」

「腹へって動きたくないので却下」

ちっと舌打ちをして池田は立ち上がった。

「将太は?コーラ?」

「あ、カルピスみたいなの」

思わず、頼んでしまった。

「氷はどうする?」

「いや、いらん」

「おっけい」

剛は笑顔で行ってしまった。

何やらイヤな視線を感じ、俺は嫌々ながらそちらに顔を向けた。

というか、真正面にこいつがいるからなんだけど。

「何だよ、一久……」

「べっつにー。んーっ仲直りしたんだと思ってねぇ」

「悪いかよ」

「悪かねぇよ。逆に俺様に感謝してもらいたいほどなんだけどね」

「……」

そう、きっかけを作ったのはこいつだった。

それによって、俺は剛と久しぶりに話すことができたし、また……

「何、顔赤くしてんだよ。お前らのやり取り見てるほうが恥ずかしくなるってのに」

「う、うるせぇ」

あからさまに言われるとすごく嫌な気分になるもんだ。

しかも、一久に何も言い返せないとなると、これがまたとてつもなく悔しい。

「おらよ、コーラ入れてきてやったぞ」

池田がトンッと一久の前にコーラが入ったグラスを置いたことによって

一久の俺いびりは終わった。

ありがとう、池やん、と心の中で感謝した。

「池やん、もぅちっと可愛く言えないのかよー」

「んだよ、可愛いって」

「翔太ーもって来たよ」

少し遅れて剛は自分のと俺のを持ってきてくれた。

「お、サンキュー」

「こーゆー感じに、ネ?」

そこでなぜ俺らに指を向けるんだっ!

「何が?」

と剛に聞かれ、俺は答えるのが嫌で

「さぁ?」

と言った。

目の前では一久の池田いびりが繰り広げられていた。

俺は池田に合掌したくなった。

つよしはとなりで「料理まだかなー」とぼやいていた。

その数分後、注文した料理がすべて揃い、ウエイトレスは

「ごゆっくり」

と言って去った。

俺が天津飯を食べているときだった。

「なぁ、将太の足どうなんだ?丸山に聞いても本人に聞けの一点張りだし、

お前は携帯に出ないし」

「え、池田から電話かかって来たことなかったんだけど」

「……そりゃ、電源切ってたからでしょ」

「えー。いつかけてきたんだ?」

「8月入ってから。毎日でもないけどかけてた」

その頃といえば丁度剛とケンカ……のような状態で俺は携帯の電源を入れようとしていなかった。

「悪ぃ。俺、そんとき電源切ってたんだわ」

あはは、と笑ってごまかした。

「何でだよ。まぁ、良いや。……で、どう?足の調子は」

俺は持っていたレンゲを下ろし、今日、病院で言われたことをここの3人に報告した。

言い終えると、3人は通屋があった日のように暗い表情になった。

「秋も、無理なのか……」

池田が、残念そうに言った。

「あぁ。走るのもまだ、許されてねぇんだ。……でも!学校が始まったら部活に出ようと思ってるんだ」

俺は努めて明るく言った。

「本当に?大丈夫?」

剛が驚いたかのよう聞いてきた。

「うん。別に、皆と一緒にノックに入ることは出来ねぇけど、マシンにボール入れることぐらい出来るし」

「それ、監督は知ってんのか?」

「あ?……いや、まだだけど。今日の夜に電話しようと思ってる」

初めて一久が聞いてきたので俺は少し遅れて返事をした。

「ふーん。あ、池やん、またコーラ入れてきて」

「今度は俺の分を入れてこいよ」

「い・や・だ」

わざわざ一語ずつ区切って言わなくてもいいだろう。

池田は渋々二つのグラスを持って立ち上がった。

……御苦労様です。

「将太は?おかわりするか?」

剛が思い出したように聞いてくれたが、まだ俺のには半分以上残っている。

「まだ平気。それよりさ、これちっとくれねぇ?」

「うん、良いよー。辛くて美味しいよ。丸山は?」

「いや、俺は結構ですー」

言い方がいやらしかったので一久の方を見ると……目が、垂れ下がっていた。

んな目で見てんじゃねぇよ!

俺は麻婆豆腐を食ってみたかっただけなんだよ!

心の中で一久に反発し、俺はそれを一口、パクッと食べた。

「うっゲホッ!」

「ああぁ!大丈夫?」

勢いよく食べた所為か俺はむせてしまった。

剛が差し出した俺のジュースを俺はゴクゴク飲んだ。

「うー辛~。でも、うまいな、これ」

「でしょー」

ニヘラと剛は笑っている。

背中が何かあったけぇな、と思ったら急に軽くなった。

「平気?」

「えっ?あ、うん」

今のは、背中をさすってくれていたんだろうか?

「あ、なぁ。お前も食うか?これ」

俺は天津飯を差し出した。

「おれは良いよ。将太が食べな」

「んじゃ、俺が食う」

ニョキッと腕が伸びてきて俺の皿はあっという間に一久の所についた。

俺の前に食うものがなくなったので俺はジュースをちびちび飲むことにした。

池田も席に戻ってきて、一久に弄られる前に自分の頼んだ料理を片付けるのに躍起になったいるようだ。

周りのテーブルも楽しそうに喋っていたり、追加オーダーをしたりしているようだ。

良いなー、こーゆのって……。

母さんの言葉通りなのかもな。

「将太、楽しそうだね」

「ん?うん。……何かおかしいのか」

「いや、何で?」

「笑ってるから」

「……おれはこーゆー顔なんだけど」

「そーだったな」

あはは、と声に出して笑った。

剛も文句を言いながらもやっぱ笑っている。

これも、友達同士にしか作れない雰囲気なのだろうか。

それを考えると、やっぱり失くすのは……怖いよりも、嫌だ。

「将太、お代わり行こうか?」

「うん。よろしく」

「今度は何にする?」

「お茶系のだったら何でも良いよ」

「おっけい」

本当はこんな優しさ、俺みたいな男が受けるんではなくて、女の子が受けるべきで。

俺が誰かに優しくしたりしなきゃいけないのに。

剛は優しくて。

俺はそれを当たり前のように受けている。

そんなんで良いのだろうか。

……何を今更考えているんだろうか。

「将太、はい」

「ん、ありがと」

「いーえー」

剛は自分のグラスを持ちゴクゴクとのどを鳴らして飲んでいる。

俺も、入れてきてもらった―ウーロン茶―を少しずつ飲んだ。

俺が、ウーロン茶を飲み終わった頃には、それぞれのテーブルで領収書を見て財布を出している。

「なぁ、本当におごってもらって良いわけ?」

「良いに決まってるでしょ?将ちゃんとこのレシート見せて」

アリスに当然のように言われてしまった。

んじゃ、良いのか……と思い立ちあがると仲村、池田、一久の3人がそれぞれ掌に120円を乗せていた。

「これ、いつぞやにおごってもらったジュース代×3」

「あーなんか懐かしいな。それ」

「え、そんな風に言われると返したくなくなるんだけど」

「んなことだれが許すか。返しやがれ、一久」

「へいへい」

そうして、俺の財布の中には360円が返ってきた。

はっきり言って俺自身忘れていたので安心した。

後で、コンビニでアイスでも買おうかな。

そんなことを考えながら俺はファミレスから出た。

駐輪所でチャリを取り出すと、仲村が近づいてきた。

「なぁ将太。ボーリングとか無理なわけ?」

「ごめんな、まだ無理だわ」

「そっかー。じゃぁさ、治ったら行こーな!」

「おう!」

「だったら、今日は森山と深沢とでも行こーかなー」

「……お前、ボーリング好きだな」

「飯食ったら、動きたくなって」

そう言いながら仲村は左腕を大きく振り回した。

こいつは今のうちのチームで唯一のサウスポーなのだ。

「あ!将ちゃん。まだ帰らんよね?」

「まだ……てか、んなすぐに帰ったりしねーよ」

剛がまだ店から出てきてないし、とは言わない。

絶対、言わない。

「ん、あのね、これ。野球部からのプレゼント!」

「野球部?」

「そう。ハイ!」

美紗はなにやらプレゼント用に包まれたものを差し出した。

「……ありがとう」

俺はそれを受け取ったが、何だろこれ。

「開けても良いのか?」

「うん、ええよ」

んじゃ……と俺はぴりぴりと紙をはがした。

徐々に白いTシャツらしきものが見えてきた。

でも、真っ白なんかではなく、左胸のあたりに英文字が書いてある。

次第に大久保や、一久、剛たちが俺を囲むように立っていた。

紙をとっても、まだ透明の袋があるので俺はそれもはがして、中に入っているそれを広げた。

その、左胸には……

「……KAGINOSAIJO BESEBALL TEAM」

俺はその言葉を言った。

「これ……っ」

「かっけーだろ?その文字のデザイン、池やんのオヤジさんと俺の親父がデザインしたんだぜ」

深沢が誇らしげに言った。

「ええやろ、それ。あたしらマネはブルーなんやけど、部員らは白なんよ」

「それでね、今はそれが練習試合用のユニフォームなの」

美紗と、アリスが説明してくれた。

「お前らも……持ってんのか?」

「あぁ、将太も俺らも野球部の一員だかんな」

一久が俺を見下ろして言っているが、んなこといちいち気にかけてもいられず。俺はもう一度掴んでいシャツを見た。

「す……ごいな。……ありがと」

ここは泣く場面ではない。

俺は涙を飲み込んで、笑った。

皆も笑っている。

「将太はおれらの仲間だからね。どんなに遅くなっても、帰る場所はちゃんとあるから」

「でも、ポジションは自分で奪わなきゃ駄目だかんな」

「ああ!ぜってー負けねぇよ」

「あーおれ、最近危ういから気をつけないと」

「お前はいつでもヤバイだろー?」

剛が落ち込み気味に言うと一久がそれを更に突き落とすかのように言い、ドッと笑いが起こった。

そして、その高いテンションのまま、それぞれ個々に帰っていった。

俺と剛と一久は、チャリで、方向が一緒なので一旦学校に戻る形になった。

チャリをこぎながら一久と剛は何かを話しているようだったけど、俺には聞こえなかった。

何だろ?

前の二人が学校の正門に入っていったので俺も付いていくことにした。

「あの、将太。渡したいものがあるんだけど」

先にチャリから降りた剛に話しかけられた。

「ん。何?」

俺は指定の場所にチャリを置いて、鍵をかけながら聞いた。

「えっと、たいしたものじゃないんだけど。部室においてあるんだ。」

「部室ってあのガレキの?」

俺は使っていたガレキでできた部室を思い出しながら言った。

「いや、あれは今1年が使っているよ」

「そーいや、お前ってまだ部室に入ったことなかったなぁ」

一久がハンドルにもたれながら言った。

こいつは、降りないのか?

「あ、うん」

「おれら、飯田さんたちが引退してから移動したんだよ」

「へー」

ということは、今の2年の奴ら9人はガレキのような部室ではなく、きちんとした部室ってことか。

「おい、剛。将太に案内してやれば~?」

「ハ?」

「あ、そうだね」

剛は平然と頷いた。

何だ……こいつら、二人。

このことを話していたのか?

「行こう、将太、鍵の場所も教えなきゃいけないし」

「え、あぁ」

俺は取り敢えず剛について行くが、一久は……?

「行ってこいって」

ニヤニヤと笑いながら一久は手を振っていた。

まぁ、俺個人的には良い……というかありがたいことなのだけど。

俺は何かふわふわ浮いた感じで一久に「じゃぁな」と言った。

剛は大分先を歩いていて、俺は追いかけるよう形で剛の後ろを歩いた。

……こいつって、こんなに背中でかかったっけ?

その背中は、体育教官室の前でピタッと止まった。

「?」

「この……えーっと、上の段の左から2番目に野球部の部室の鍵が入っているんだ。まぁキーホルダーに『野球部』って書いてあるからわかるんだけど」

ホラ、と剛は鍵をかざした。

青いキーホルダーには「野球部」と書いてあるシールが貼ってあった。

俺はそれもだけど、もっと気になるものがあり、先生たちの下駄箱の上にある……丁度、俺の視線と同じ高さにあるものを見た。

「あ、これがよく話していたホワイトボード」

「へー。……ちゃんと名前貼ってあんだ」

名前のほかにも日付や「欠席」「早退」「遅刻」などのマグネットもあった。

「そう。毎日色んなメニューがあってね、楽しいんだ」

「欠席」のマグネットもあった。

その横には「三浦」という……。

「……知っている」

そのことなら散々聞いた。

「あーっと、じゃぁ行こうか。狭いけどね」

「ふーん?」

「それにね、なんてーか暑くって。一気に9人全員入れないんだよ」

「それって……佐々木や大久保が割合を占めているからか?」

「まぁ、そうとも言うような……」

剛は歩きながら苦笑をもらした。

どんくらい狭いんだろうか。

いや……それよりも。

俺はある意味ラッキーだったのかもしれない。

「これね、開けるときちょっとしたコツがあって……」


剛は鍵を差込、ドアノブをぐっと押しながら鍵を回した。

すると、カチャッと音がし、部室の重そうなドアは開いた。

同時にモワンとした熱い湿気の含まれた空気が顔に当たった。

「う……あつ」

「でしょ?しかも、暑いだけじゃなくて狭いんだ」

剛は何歩か歩いただけで届くところにある窓をガラガラと開けた。

俺は始めてはいる空間をぐるぐる見渡した。

壁やら天井には何年もの前の先輩たちの落書きやメッセージらしきものがたくさん書いてあった。

「す……げぇな、これ」

俺はそれらを見渡しながら言った。

首を上げて痛くなったので俺は首をぐるん、と回した。

「すごいよねー。あと、まだちゃんと掃除してないからわかんないんだけど昔の写真とかパネルが出てきてるんだよ」

パネルとは夏季大会時の集合写真のことだ。

それは先輩たちの置き土産なのだろうか……。

「へー」

「それに、誰かのグラコンがあったりね」

「え、置き逃げかよ」

「なのかな。ほら、そこにおれらのとは違ったタイプのグラコンがかかっているだろ?」

「うわっ本当だ」

グランドコート、通称グラコンは冬には欠かせないものだが夏にはうざすぎるものだ。

だから俺のグラコンは今タンスの中にあるのだが、他の皆も一緒だろう。

それだってのに、ここには何着かグラコンがかけてある。

先輩方には悪いが、正直うざい。

「んでね、そのドアの横にあるベンチが今、おれと丸山が使っていて、向かいは仲村、深沢。ロッカーとついになっているベンチは大久保と佐々木。イスを使っているのは池やんと森山。で、将太はどうする?」

「は?決まってねぇのか?」

俺は既に決まっているものだと思ったんだけど。

「うーん、あいているのはおれらが使ってんのと仲村たちが使ってるの、どっちかなんだけど。……あ、大久保と一緒に使いたかったらそっちもありだよ。……んな、睨まないで。どっちする?」

「えー。もしさ、仲村らと一緒に着替えてて急にドア、開けられたりしたら……」

「見られるね」

即答された。

「よくあることだよ」

しかも、よくあることと言われら……いやだな。

ってことはつまり剛の近くで……うーん、でも、良いか。

「んじゃ、俺、剛たちと一緒んとこにする」

「……本当に?」

「悪いか?」

「いえ。全く。……で、ロッカーなんだけど空いているとこ本来ならたくさんあるから自由に2つ3つ使っても良いよ、と言えるんだけどね。今空いてるのは……一つしかないんだよ」

「意味ねぇじゃねぇかよ」

「う……っ。仲村や丸山が教科書置きッぱにしてるから。それに先輩方もねぇ」

「ふーん……」

唯一綺麗に空いている俺のロッカーは丁度、俺の身長的に使いやすい高さにあった。

「なぁ、お前のはどこなの?」

「おれの?……将太の右隣だけど。何で?」

「っ何と、なく」

後ろに、俺よりも背のでかい奴の気配を感じ、俺は何故か緊張して声が変にひっくり返ってしまった。

おかしい。

今までだって、何度も俺よりでかい奴が俺の後ろにいたってことあったのに。

心臓が急にバクバク言い出した。

おかしい。

やっぱ、これって……好きだからか?

ふいに剛の右腕が伸びてきて俺は目を瞑ってしまった。

「将太?……暑くて具合、悪くなったの?」

「……や、平気。だけど……何?」

「あ、これ。将太にあげようと思ってたもの」

「……ノート?」

「うん。あ、座ろっか」

剛は珍しくぎこちなく笑っていた。

「あ、あぁ」

だから俺も緊張した。

もしかして、逆なのか?

まぁ良いや。

剛からノートを受け取り、俺はベンチの一番端に座った。

ノートの表紙には「練習日誌」と書いてあった。

「あの、それ……本当にたいしたことないもんなんだけど……」

剛はしどろもどろ言っているが、そんなことない。

新チームになってからの細かい練習メニューとそれに対するコメント、ポイントがでかでかと書いてあった。

まぁ、剛の等級内容は少し余計かもしれないが俺にとっては嬉しい。

そしてなにより一番驚いたのは練習が終わったときに話す監督の言葉が書いてあったのだ。

「んなことねぇよ。すげぇな、剛。お前ここまで書けんならもっと上手くなれんじゃねぇの?」

「そんなことないよ……。ま、それ書いてるときは上手くなれればなぁと思ってたけど、頭ではわかっていても体は動いてくれないってことがよくわかったよ」

「まぁそーだよなー」

いくら頭で理解していても、結局動かすのは頭ではなくて体なんだから無理なことはいろいろある。

一旦、白紙のページが続き、俺は何となく、そこをパラパラと捲っていった。

そして、最後のページにたった一行……いや、たった一言書いてあった。

心臓が、止まりそうになった。

いや、止まってしまったのかと思った。

でも、俺は生きている。

こんなにも心臓がドキドキ鳴っている。

つよしは……。

隣に座っている剛を見ると、奴はいつになく真剣な瞳で俺を見ていた。

野球をしているときと同じようで……でも、全く別のようで。

一瞬、俺の見ている世界がグニャリと歪んだ。

涙が……こぼれた。

「……何度目になるかな。将太の涙を見るのは」

「あ……っ」

剛の指が俺の頬を……涙が通った道をなぞった。

「夏の大会のあの日……おれには何もしてやることが出来なかった。……将太の涙を見たくなかったから、泣かないで、とか言ったけど……。それから半月後のあの日……おれは将太を泣かせてしまった。……そして、今も。泣かないで、と言いたいけど……おれにはそれを言える権利はない。でも、将太。これは、これだけは教えて」

「……っく」

俺がしゃくりをあげる度に新しい涙はボロボロ流れ、剛の指にかかっていく。

剛の瞳は……力強いが声はとても甘く優しい。

「将太は……こんなことを思っているおれが嫌で……、気持ち悪いと思って、泣いているの?」

そんなこと、ない。

俺は喋ることができない分、首を子供のようにぶんぶん横に振った。

嫌だなんて、これっぽちも思っていない。

「将太……」

「……くっ、え?」

ぎゅうっと剛が俺の体を抱きしめた。

大切そうに、でも離したくないんだという想いが剛の心臓の音と腕の力でわかった。

逃げないよ、離れない。

……嬉しい。

俺の想いを届けたくて俺は剛の背中に腕を回し、ワイシャツを掴んだ。

骨ばっていて、筋肉のある身体。

男同士じゃないと得られないこの感覚。

身体に染み付いているドロの匂い。

そして、剛の……匂い。

いつも身近に感じていたものが遠のいて、でも今はずっと近くにあって、新鮮さが増す。

「将太」

聞き慣れた、この名前を言ってくれるこの声も、なんだか新鮮。

新鮮でなんだかこそばゆい。

俺は、返事はせずに顔を剛に向けた。

剛の顔が近くにある。

目が真っ直ぐで、俺を見ている。

瞳に俺が映っていた。

そんぐらい近い。

俺の瞳にもお前が映っているのかな。

目をそらすのも、瞬きするのも惜しいぐらい見つめていたい。

見つめられていたい。

ふっと、剛の息がかかった。

くすぐったくて、俺は目を細めた。

すると、何か、何かが、俺の唇に触れた。

そして……離れていく。

離れた瞬間、俺の中で何かが零れた。

涙なんかではない。

体ではなく、心の中で何かが零れていくのを感じた。

たまらなく嫌で……。

俺は、剛にせがんだ。

零れ落ちる何かを止めてもらうため。

好きという気持ちがどこかに行かないで、剛のところへ。

好きという気持ちは一人じゃ生まれない。

これは、一人じゃ出来ない。

あぁ、そっか……キスってそういうもんなんだ。

剛……。

「ん……っ」

空気を吸おうと口を開けたら、そこから熱い剛の舌が入ってきた。

それに驚いた俺は、俺の舌も動かしてしまい、狭い部室にクチャリ……といういやらしい音がした。

「う、あ……ふ」

剛が絡めていた舌を離したので俺は変に喘いでしまった。

その声が、今日アレをしていたときよりも、変でおかしくて……俺はアレを思い出し、自分の顔が熱くなるのを感じた。

「あ……えっと。将太……ごめん……」

でも、多分俺よりも、すっごくすっごく顔を真っ赤にしている剛がいる。

お前ってそーゆー顔もすんだな。

良いよ、可愛いから許してやる。

俺は首を横に振り、剛の胸に頭を預けた。

そこから、剛が生きている証拠が聞こえてくる。

「好きだ、将太」

さっきまで俺とキスしていた口がそう言った。

ずっと、欲しかった言葉。

泣きたくなるほど嬉しい言葉。

「うん」

俺は笑って頷いた。

「ね、言ってよ」

「え……」

……バカだなぁ、お前。

そんな犬コロみてぇな目ぇして。

言ってやるよ。

ずっと、ずっと言いたかったんだから。

お前だけに。

「好き」

好きだ、剛……。

俺からの触れるだけの軽いキス。

「僕も……。将太、言い足りないほど、好きだ……」

ありがとうの心をこめて、抱きしめた。

ありがとう、剛……。

ありがとう。

もう、一人じゃないんだ。

ん?

「お前、今『僕』っつった?」

「あ……」

「……僕?」

「いや、その……家だと……何でだろ」

「ここ部室」

「うん。何でだろ……安心するのかなぁ」

「安心?」

「うん、将太の前だと、安心して自然のままでいられる。」

「じゃあさ……僕って言って」

あれ、何かこれってねだってるみてぇじゃねぇか?

「うん。将太、何か可愛い」

「か、可愛いって言うなっ!」

女子に言われるのはもう慣れているが、剛にこう、堂々と言われるとすごく恥ずかしくなる。

「何で?かわいいよ、すごく」

「……どこがだよ」

「全部」

何て答えだしてんだっ!

しかも、すごく嬉しそうだし。

「……バカ」

睨みながら言うと額にキスされた。

そして、その口はすっと滑り落ちて俺の唇と重なった。

今度は、舐めあうようなキス。

「っあ……っ」

「ごめん、もうこれ以上やると僕、おかしくなりそうだ」

「え……?何、ちょっ」

いきなり剛は俺の制服の襟元をはいで鎖骨よりも少し下の所に吸い付いた。

「~っん。っ剛、何だよ!」

「ごめん……でも、本当におかしくなりそうだったんだ」

それって、男として……ってことか?

もしかして。

「なぁ。剛ってやり方知ってんのか?」

「ハイ?」

「その……男同士の……」

変な目で見んなよ。

言ってる俺だってものすっごく恥ずかしいんだから。

「まぁ……一応……」

……知ってるんだ。

「え、と……将太、は?」

「……知らねぇよ」

恥ずかしすぎて小声になってしまった。

「……そ、そっか」

そこでなんでお前も照れてんだか。

「で、でも、それだけが全てじゃないんだ、と……僕は思ってるんだけど……」

「ま、あ。そうだよな。ごめん、変なこと聞いちまって……」

しどろもどろ言っている剛にうつされて俺もどもりながら言った。

「いや、でんでん大丈夫れす……」

「お前、口、回ってねぇぞ」

「う、うん……。あの、帰ろうか?」

「そーだな」

そうして俺らはやっと立ち上がり狭い部室を出た。

なんか……ある意味、すげぇ思い出の場所になっちゃったな。

初めて来ってのに。

「将太、あのね……」

「ん?」

チャリ置き場まで来たときのことだった。

「ゲ、一久!?」

「ゲ、はないだろーが」

「何でてめぇがここにいんだ!?」

俺が驚いていても、剛は普通にしている。

「実は……今までのことは丸山に協力してもらってたんだ。」

「ハ?今までって?」

「あの日以来、おれ、将太の家に行きづらかったときに丸山が代わりに行ってくれて。それに、シード戦のときもおれの携帯からかけてくれたりして……」

覚えているだろ、と目で聞かれた。

覚えているには、覚えている、が。

ってかこいつ、一久がいるから一人称「おれ」に戻ってるし。

案外器用なんだ……じゃなくて!

「だから感謝しろって言っただろー?」

自転車のハンドルにもたれながら一久は言った。

だから、あん時……。

「あ、ありがとーございました」

俺は仕方なく言った。

一久はそれに満足したのか、ニヤリと笑った。

「その雰囲気だと良かったらしいな」

「お陰様で」

と剛は頭をかきながら言ったので俺は思わず手で突っ込んでしまった。

「ハイハイ。一々じゃれんでよろしい。全く、てめぇらは手のかかる奴らだけど……。まぁ、仲が良いのは部にとっても良いことだしな。でも、ほどほどにしとけよ。……それと、狼は剛だけじゃねぇんだから注意しとけ?」

ハ?と思って俺は剛を見た。

剛も首をかしげている。

「わかんなかったらそれで良いさ。……ところで、将太、見えてるぜ~?」

「ハ?」

一久は鎖骨を指している。

「な!どこ見てやがる!!」

俺は襟を引っ張ってきちんと直した。

「丸山ー。あんま将太をいじめないで」

そういうと剛は俺を抱きしめた。

「ってか、剛がこんなことしなきゃ言われなかっただろうが!」

「ハイ。スンマセン」

睨んで言うと斜め上から謝罪の言葉が降ってきた。

「お前らなー。もう、良いよ。勝手にやっとけ。じゃ、俺は帰るんで」

そう言って一久は門の向こうへ行ってしまった。

「俺らも帰ろっか」

「うん」

空はいつの間にか茜色に染まっていた。

そして、夜は訪れ、朝がやって来るんだ。

お前にも、俺にも……

終わりは始まりに繋がる

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― 新着の感想 ―
[一言] 本当に心が温かくなりました…。 素敵すぎです…。 ごめんなさい、語彙力が足りなすぎて言い表せないのですが、本当に最高でした(*´꒳`*) こんな素敵な物語をありがとうございます!!! ……
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