9.朝の報告
翌日になっても、身体の不具合は僅かながら残っていた。
だが、昨日に比べればずっとましである。起きあがっても、胸の痛みで呻く必要もないのだから、治ったと言っても差支えないだろう。
それにしても薬というものは嫌いだ。あの苦さはなんとかならないものだろうか。だからといって甘みで誤魔化してしまえば逆に不味い。
鵺が持ってきたのは特に不味い魔法薬とかいうものだった。純潔の扉の向こうで精製された怪しげなもので、時折、天使を害するとされる病魔が牙を剥いた時に服用するといいとされる古い薬である。これの作り方の資料は二百年前の戦火でも無事だった。田舎に逃れた薬を作る魔術師が大事に守っていたからだ。成分が気になるところだが、あまり聞いてしまうと次に飲まされる時に弊害がありそうなのでやめておいた。
薬を持ってきた鵺に、一応、人狼女や鴉の言っていた悪魔という存在について聞いてみたけれど、怪訝そうな顔で私を心配するだけだった。
――昨日飲んだきりだというのに、まだ苦みを感じる。
僅かながらの眠気と共にうっとうしく感じていると、扉の開く音がした。
夕暮であった。隣接する自室より、まっすぐ此方に入室してきたのだ。寝台で眠る私の傍へと来て、無表情なまま軽く頭を下げる。
「お早うございます、カタナ様」
昨日と変わらぬ声で彼女は言った。
まだ早朝。やっと夜も明けたという頃。黄昏時とは少し趣の違う橙色が西側の窓より見える空を微かに染めている。きっと東側にあるサヤの部屋では輝かしい日の出が見えている事だろう。
「ぐっすり眠っておいででした。きっと鵺様の良薬が効いたのでしょう」
「お陰で少しは楽になった。……サヤは?」
「すでに朱鷺様が純潔の扉の先へと御連れになりました」
「……そっか」
きっと夜明け前には連れて行かれてしまったのだろう。
この朝日も誰にも見られずに、サヤの部屋をむなしく照らしているのだろう。いや、ひょっとしたら雑用係の女神官などが見ているかもしれないけれど。
「今日はどうされますか? 鵺様は出来ればこの部屋で大人しく休養していて欲しいと仰っていましたが」
「鵺には悪いけど、少し外に出たい。日没――清めの儀が終わる頃までには戻るから」
「またお墓参りに行くのですか?」
「……ああ」
神殿の外れにひっそりと存在する崖では、美しい夕日を眺められる。
外壁にも守られず、魔術師が言うには結界もかけられていないらしいその場所には、王侯貴族のものではない立派な墓が存在する。
埋葬されているのは代々の果実と剣。魂が抜けおち、骸となったその身体は、特別な炎で焼かれて灰となり、墓の下の土となる。美しい野花は自然に咲き、静寂と夕焼けの美しさが死者の思念を慰めているという。
魂はそこにはない。彼女たちの魂は、私とサヤが受け継いでいる。
あの場所に存在するのは生きていた頃の彼女たちの思念と、残された者たちの思念だろう。私が生まれたと思われる頃には、先代の剣と果実を偲んで多くの者たちが墓参りをしたらしい。
しかし今は殆ど誰も訪れない。一般人の立ち入りが許されている場所だから、時折、観光がてらに足を踏み入れた誰かが、町や都で買ったらしい花束を置いて行くだけ。
花を持って行ったことはないが、私はすることがない時はよくあの場所を訪れた。
引き取られてすぐ、都まで迎えに来てくれた神官が先に連れていってくれたのがあの墓であった。まだ何も知らない私に対して、彼は優しげに語ってくれた。これまでの剣と果実がここにいる。彼女たちの紡いできた歴史を受け継ぐ立派な聖女になるのだと、不安がる私に教えてくれたのだ。
あの場所には様々な思い出が眠っている。
言葉に出来ない不安を抱えた時は、あの場所で静かに過ごすという習慣が、いつの間にか身についていた。
「それならばどうか御気をつけください」
夕暮は言った。
「昨夜、神官長から此方へ速達がありました。都でよからぬ事が起こったそうです。都とこの場所は離れておりますが、万が一ということも御座います」
「よからぬ事?」
「はい、殺人事件です。それも、ただ事ではない」
「――殺人」
はっとした。
昨日、この場所へ訪れた鴉という名の少女の姿が思い浮かんだ。
「何があったんだ?」
訊ねてみれば、夕暮は硝子玉のような目に陰りを含み、表情の浮かびにくい顔で存分に感情を表した。その恐れは確かに私にも伝わってきた。
「都の繁華街で通りを歩いていた民間人が、無差別に襲われました。爆撃を受けたとのことでしたが、どうも違う様子。まるで生きながらケダモノに引き裂かれたように……殺されてしまったそうです」
言い淀みながら夕暮は俯く。
「死者は十七名。男性が十名、女性が七名。成人が十三名、子供が四名。純血の人間が大半ですが、中には獣人や機械人形も含まれているとのこと」
――引き裂かれて。
鴉が言っていたのはこの事だったのだろうか。
「犯人は? 捕まったのか?」
「いいえ。役人が駆けつけた頃にはもう逃げていたそうです。魔術だとしたら異質なもの。都は恐怖に包まれ、混乱しているそうです。すぐにでも此方に飛び火しないか不穏な風が吹いてまいりました」
「犯人の特徴は? 男か、女か」
「女のようだったと聞いております。その場に居た全員を殺そうとしたようですが、一人殺し損ねた時点で諦め、何処かへと逃げ去ったのだとか。お陰でその場に居た他二十名ほどが助かったそうです」
「……そうか」
その二十名の一人が鴉だったのだろう。
鴉。あの子は何処に居るのだろう。しばらく私たちを見守ると言っていたが、匂いも気配も感じられない。匂いの方は番犬も掻い潜ったのだから、消す魔術かなにかを知っているのかもしれない。
だが、気配はどうだろう。いくら聖域外の魔女といっても、あの子はまだ年端もいかぬ少女だ。師匠とか言う人の元から旅立ってそう経たないはずだろう。そんな彼女が鬼族の血を引く朱鷺や、長く魔術師をしてきた鵺の目を誤魔化せることなど出来ないはず。
此処に居れば会いに来てくれるだろうか。
いや、どうせ待つのなら彼女が来やすい場所に行く方がいい。幸い、あの墓場にはあまり人が来ない。鴉にとっても訪れやすい場所ではあるだろう。
もしも会えたなら、聞きたい事が山ほどあった。
明松という人物について、悪魔という存在について、知っている事を全て吐き出してもらいたい。二百年前の戦火を掻い潜った記録の手掛かりがあるのなら、ぜひともこの神殿にも写させて欲しいものだ。
「そうだ、夕暮」
ふと思い立って、私は夕暮に訊ねた。
「此処しばらく、勇敢の国で起こった事件について、夕暮はどのくらい覚えているんだ?」
「この国に贈られて、時の神官長の前で目覚めた時からの記録は全て、胸で稼働するヘルツという部位が大事にしまっております」
「ヘルツ? それってどういう意味?」
「信頼の国で作られる人形の核の事です。ヘルツとは信頼の国において心臓と言う意味です。ただの心臓ではなく、血の通った生き物の脳と呼ぶに相応しい機能も果たしております。これがなければ機械人形もただの人形。わたくしのヘルツもここ百年と少しの出来事を記憶してまいりました。引き出そうと思えば、すぐにでも」
「……そっか」
では、夕暮は思い出そうとすればすぐにでも、先代や先々代の剣や果実、神官長にこうして仕えていた日々を思い出せてしまうのだろうか。もう戻らないと分かっていても、昨日のことのように、ここ百年以上の事を思い出せてしまうと言う事。
――それって何だか寂しいな。
勝手な感想をしまい込んで、私はさっそく夕暮に訊ねた。
「一度聞いていたら思い出せるってこと?」
「はい。私が聞かされている事であれば」
「じゃあさ、これは聞いた事あるかな? 勇敢の国の辺境――聖域の境界の傍で起こった事件らしいのだけれど」
「まずはひと通り、御話し下さいませ」
「どのくらい前かは知らないけれど、明松という娘のいた富豪の一家が殺されたらしい。犯人の男は捕まったが、複数人殺されたというのに罪は軽く、その内に行方不明になってしまったのだとか」
私の話を静かに聞くと、しばらく黙ってから夕暮は口を開いた。
「似たような事件の話なら記録してあります。場所は勇敢の国北西部の田舎町、日別。犯人の男はそれまで純朴な父親として貧しいながらも働いていましたが、末の子が病に倒れてから様子がおかしくなったそう。窃盗を繰り返し、金銭を集めては、高額な薬を買っていたと言われております」
夕暮は更に記憶を辿っていく。
「軽い罪で済まされたのは、窃盗以外の証拠が見つからなかったからです。被害者の身体は強い力で引き裂かれたようになっていて、純血の人間一人の力で出来るようなものではなかったため、疑わしくも罰する事が出来なかったのです」
――身体を強い力で引き裂かれた?
都であった事件と同じではないのか。
鴉はその犯人を明松だと言っていた。厳密には明松自身ではなく、明松に取り憑いた悪魔の仕業なのだと。
――では、その事件も?
それにしては何か腑に落ちないものがある。
「明松と言う名前かは記録されておりませんが、被害者一家の生き残りとして女性一人の存在があった事は確かです。その家の長女で、優しく弟達を見守る明るい女性だったそう。彼女は男が怪しげな術で家族を引き裂いたのだとやや感情的に証言したと記録されています。きっと目の前で家族が殺され、取り乱したのでしょうとも。現在何処で何をされているかは、聞いておりません」
きっとその長女と明松という人物は同じだろう。
しかし、分からない。裁きの結果に絶望し、悪魔の手を掴んだのだとして、その力の正体は一体何者なのだろう。
「その事件の被害者と同じような手口の殺人事件は他にもあるのだろうか」
「身体を引き裂かれたというものならば、幾つか。大半はおそらく聖域内に暮らしている猛獣や、邪まな心を持った魔族の仕業でしょう。けれど、今、カタナ様が御訊きになったこの事件のように、綺麗に解決していないものも幾つかあります」
「その事件、一か所で起こっているのか? それとも、点々としているのか?」
「一か所で起こることもあれば、遠く離れた場所で起こることもあります。被害人数も、たった一人の事もあれば、今回の都での事件のように大人数に及ぶこともあります」
その内のどれだけの事件に、明松という人物が関わっているのだろうか。鴉一人の証言だけに耳を傾けるのは危険だが、無視するのはもっと危険なことだろう。
――やはり、もっと話を聞くしかないな。
「カタナ様、御顔色が悪いようです。本当に行かれるのですか?」
夕暮が窺うように私を見つめてきた。
心配しているのだろう。その身体も機械で出来たはずなのに、自然に生まれて死んでいく人間たちとあまり変わらない。ヘルツとかいう核はそれほどまでに優秀なのか。
「ああ、勿論。眠っているだけじゃ身体が鈍ってしまうからね。鵺の薬も効いているはずだし、問題はないさ」
「……はい」
何処か不穏な様子で夕暮は頷いた。
しかし、これ以上、彼女が口を挟むようなことはないだろう。朱鷺や鵺とはそこが違う。違う理由は別に彼女が神官という私より格下の立場であるからではない。機械人形として生まれた故の特性だ。
人に作られた機械人形は、作られた目的こそを本能として認識する。夕暮が作られたのは、主人に尽くすため。神官長を主人とした以上、その命令通りに剣に従って世話をすることは、彼女の本能でもあるのだ。
その頑なさはまるで人犬の忠誠心のよう。反発心を抱いても、命令を受ければ感情を抑え、深追いは絶対にしないその姿は、時に寂しく、時に有難い。
「朝食を終えたら、さっそく行ってくる」
私の言葉に夕暮は静かに頷いた。その可憐な動きを見つめながら、そっと付け加えた。
「心配してくれて有難う、夕暮」
その言葉を受けた夕暮が何を感じたのか、やっぱり私には分からなかった。