7.女人狼
魔術師長の朱鷺はもう少し番人を信じるようにと口酸っぱく私に言う。
魔女の少女を退けた後も、彼女の口から先に出たのは忠告であった。覚悟の上であるし、彼女の言うことももっともな事だろう。
しかし、やっぱり私は他人を信用出来ない所があった。
自分から動かずに危険から身を隠すよりも、危険を見つけ次第自らの力で追い払う方が安心だ。きっと私が臆病な所為なのだろう。赤い天使の印が泣いてしまうくらい、私は生来臆病な生き物なのだ。
それに、信用出来ない理由はあった。
もしも番人達がそれほどまでに優秀ならば、いかなる侵入者も外壁の傍で追い返されるだけだろう。聖樹の生える中庭は御殿の中心。外壁から御殿までは遠く、その他は広大な林や野原、寮や訓練場、食堂や外来向けの施設などで取り囲まれている。
侵入者が来ても捕まえる機会など沢山あるはずなのだ。
それなのに、どうしてこういう事態があるのだろうか。
「動くな」
聖樹の見守る中庭にて、私は低く唸っていた。
サヤは聖樹の根元で大人しく見守っている。彼女たちに背を向ける形で、私は別の者を睨みつけていた。
相手は真っ白な髪を日の光に照らす美しい女。ただの女ではなく、女人狼。ここ最近、侵入を試みていたあの女人狼が、ここまで来てしまっていたのだ。
誰も気づかなかったのかと今更問うのも愚かなものだ。
寧ろ、私が気付けて良かった。そのくらい簡単に、この女人狼は自分の臭いを抑えながらまんまと中庭に足を踏み入れてしまったのだ。
「カタナ……」
背後からサヤが囁いて来る。しかし、人狼から目を離す事は出来なかった。
「待って、その人――」
サヤが言いかけたちょうどその時、人狼はそれを遮るように言った。
「唯一気付いたのがお前でよかったよ、剣。そこを退いてくれないか。私はその子に用があるんだ」
――用?
サヤを狙っての事なのか、何か訳があるのか。
ますます分からないが、この人狼の言う通りにするわけにもいかない。
「用があるのならそこで話せ。何も近づく事はないだろう」
譲歩してそう言って見れば、人狼は意外そうな目で私を見た。
「へえ、番犬のくせに少しは柔軟なのだね。それともお前が忠誠を誓っているのは、神官長ではなくその子なのかい?」
「早く言え。番人が来るぞ」
「それもそうだね」
そう言うと、女人狼は膝をつき、サヤに向かって頭を下げた。
「驚かせて申し訳ない。無礼を承知でお尋ねします、果実の巫女。あなたから懐かしい匂いがして此処へ来ました。思い当たる事があるはずです。どうか、それを私に返してはいただけませんか?」
――懐かしい匂い……。
サヤがはっととした表情を浮かべて立ち上がった。
「あなたですね。夢で聞いております。彼もあなたに会いたがっているのです。待っていて、すぐに――」
「誰だ、そこに居るのは!」
サヤが言いかけたその時、雷鳴のような声は響いた。
番人達だ。見れば、御殿の渡り廊下より複数の番人が女人狼を見つけ、血相を変えて此方を目指していた。そして、遅れて私とサヤの姿を確認し、怪訝そうな顔で窺い始めた。
「カタナ様」
見覚えのある部隊長の男が私の名を呟いたその時、警戒を強めた女人狼が素早く動きだした。気付いた時にはもう遅く、人狼は私の背後にまわり、この首に見慣れぬ装飾の短刀を突きつけてきた。
「お前……」
不快を露わにして唸ってみれば、女人狼は番人達と私に向かって鋭い声で言った。
「不死を過信するな」
奇妙な臭いのする短刀を見せつけながら、微かに私の首の皮へと喰い込ませる。
「これは特別な刃。赤い天使の力を制御する悪魔の力が宿っている。このまま勇敢の剣を奪われてもいいのなら、存分に動くがいい」
「――貴様!」
番人達が怒りをあらわにして女人狼を睨みつける中、サヤが聖樹の傍から震えながら声をかける。
「どうか御止めください。あなた達も剣をしまって。この狼の御婦人は用があってきただけなの。どうか、戦わないで」
「いけません、サヤ様。人狼などの話を聞いてはなりません。この血は嘘つきの血。濃ければ濃いほど真実から遠ざかるものだ」
番人の一人がそう言った。
――嘘つきの血、ね。
下手に身動きが取れない中、私は倦怠感を深めていった。
胡散臭い刃だが、万が一ということもある。それに、肌に触れる度に伝わってくるこの奇妙な刺激は気になった。胸の印がざわついているようだ。この短刀は何物だろう。悪魔の力? どうしてこんなものを持っているのだろう。
「果実の巫女よ。残念だが、見ての通り。人間は年を取れば取るほど頭が固くなっていくものなのさ。……剣よ、一緒に来てもらうぞ。場合によっては、このまま物言わぬ武器になってもらうぞ」
「お前まさか、始めからこのつもりで……?」
悪魔の力とは何だろう。
この短刀から伝わってくる無視出来ない刺激が本当に天使の力を制御するものであるのなら、これまでの勇敢の剣と黄金の果実が死んでいった原因に繋がるようなものではないだろうか。だとすれば、連れて行かれるわけにはいかない。
だが、人狼として狼に変化出来るほどの妖力を備えた者相手に、非力な私は敵わない。私の武器は何処からでも呼びだせる「剣」と、幾ら切りつけられても死をもたらさない身体なのだ。斬られればその天使の力を制御されてしまうというのなら、抵抗出来るはずもなかった。
「来い、剣」
今は従うしかなかった。
青ざめた顔で見送るサヤと別れるのが辛い。下手に動けぬまま見送るしかないらしい番人達の視線が痛い。そして、道中、はち合わせる者たちの悲鳴が不快だった。無様に連れて行かれるのは悔しかったが、どうにもならない。だが、黙って連れ去られるつもりはなかった。何処かで機会を窺わなくては。この刃から逃れ、「剣」を呼びだし、この無礼な狼を斬り捨ててしまわねば。
歩かされながら、いつの間にか中庭は遠ざかり、御殿からも出てしまおうかという場所に到達していた。
騒ぎが大きくなっていく中、人狼はついに目立った動きを見せた。
こちらが機会を窺う間もなく、激しい衝撃が腹部に加わり、意識が遠ざかりかけた。遠巻きに見ていた者たちの悲鳴と共に、どくどくとした感触と、ぼやけた視界の中で地面に垂れた真っ赤な血を見ることができて、ようやく私は理解した。喉元を抑えていたはずの刃が、いつの間にか私の腹に深く突き刺さっていたのだ。
「悪いな。抵抗されては面倒だからね」
普通の武器ならば、すぐに回復するはず。
しかし、回復は遠かった。担がれて、何処かへと運ばれていく間も、血は止まりそうにない。痛みも止まりそうにない。こんな事は初めてだった。治りが遅い。あまりにも遅い。視界はまだぼやけたままで、思考すらもぼやけていく。
――この刃……。
悪魔の力とは何だろう。
この人狼は何者なのだろう。
「さて、十分引き離したかな」
女人狼の声だけがはっきりと聞こえた。容赦なく地面に落とされ、呻く私の傷口を人狼は迷うことなく触っていく。
「へえ、これが悪魔の力か」
皮膚と共に服を斬り裂く音がする。激痛が脳をまさぐり、酷い吐き気が生まれた。衣を引き裂き、人狼は血にまみれているだろう私の素肌を確認していた。
「赤い天使の印が黒く光っている。これもあの女が言っていた通りだ。なるほど、ただの刃物が此処までの魔刀になるとは……興味深いものだ」
「……悪魔の力って……何だ……答えろ、私に何をした……」
ついには何も見えなくなってしまった。それでもどうにか人狼がいるだろう場所を眺めて訊ねてみれば、鼻で笑う声がすぐに届いた。
「さあね、私もよくは知らない。ただ、この力は本物だ。お前の印が黒く汚染されている。刺した私が望むのなら、お前を好きに出来るとこれをくれた者は言っていた。ただお前の印に触れて命じるだけでいいらしい。どうだ、命じてみようか。剣を手に入れてしまえば、誰も私に逆らえない。この国の支配者となってしまうわけだ」
「やめろ……」
得体の知れない恐怖が私を襲った。
既に視界は真っ暗で、辺りがどうなっているかも分からない。ただ、辛うじて人間の姿は保っているらしい。そうと分かるのは、人狼が私の身体に触れているからだ。手と、顔と、足と、腹部と、胸と、奴が触れる度に私はまだ自分が人の姿をしていることを知れて、少しはほっとした。
――傷は治るはず。
混乱しかかる自分に、私は必死に言い聞かせた。
――すぐに治るはず。
それでも焦りは誤魔化せない。
まさに悪魔としか言いようがない力を前に絶望しかかっている中で、視界は段々と戻り始めてきた。そうしてようやくあの人狼の顔が見えてきた頃になって、彼女はあっさりと私から離れてしまった。
「そうだな、やめておこう。支配者などなりたくはない。私の目的は果実の巫女が言った通りだ。だが、あの頭の固い連中がうろついている限りは無理のようだとよく分かった。カタナ、と言ったかな。変わった名前だね。怪我が治り、この事を根に持たないでくれるのなら、お前も気にかけておいてくれないか。黄金の毛皮だ。それは私の――……」
と、そこで急に彼女の声が遠ざかった。
――意識が遠い。
視界はぼんやりとでも見える。しかし、声は相変わらず遠い。彼女が何を言っているか、分からなくなってしまった。復活したばかりのこの視界すらもまた失ってしまうではないだろうか。
――これが、死の恐怖というものなのだろうか。
静かに恐怖する私をじっと見つめ、人狼はそっと顔を近づけてきた。やがて、再び視界が真っ暗になってしまうと、耳元でよく聞こえるように、女人狼は囁いた。
「苦しめて、悪かったな。今はただ眠れ。眠って回復するがいい。眠りがお前を苦しみから解放する。怖がらずとも、この悪魔の力も少しずつ薄れていくだろう」
印のある左胸に触れながら、まるで神か何かのように強い声で彼女は言った。
「心配せずとも、お前の大事な宝を奪ったりはしないよ」
それが暗闇の中に沈む私の意識に届いた最後の言葉だった。