2.悪魔との決別
神殿の者たちは、遠巻きにこの様子を見ていたのだろうか。
泣き続けるわたしの前に現れたのは、番犬部隊の一部と、鵺の弟子にあたる魔術師だった。彼らによって、カタナの亡骸はすぐに引き取られた。ついでに、白椿とその恋人の亡骸も一緒に。
紅は彼らの訪れとともに姿を消した。
だが、いなくなったわけではないとよく分かっていた。
わたしの胸には印が刻まれている。カタナの死はわたしの心を不安定にさせた。
それは、鵺と朱鷺の計らいで正式に神殿に招かれた後も同じだった。
カタナの葬儀が行われる。火葬されてあの墓下に収められるのだ。そうなれば、もうこの姿も見納めだ。
人形のようなのはどうしてだろう。
生き物が死ねば滅んでいくはずなのに、カタナの姿はただ時を止めてしまったかのようだった。
しかし、魂はもうここにはいない。
聖樹の根元には次の果実が宿った赤い卵が。そして、都からは天使の印を受け継いだ女児の誕生の報せがあった。三歳まで親元で養育され、その後、正式に神殿に引き取られるらしい。それが次なるカタナとなるのだ。
名前は違うらしいけれど、彼女はカタナの生まれ変わり。けれど、もはや別人だ。わたしのことなんて知らないし、あれほど愛したサヤ様のことも分からないのだから。
もうカタナはどこにもいないのだ。
神殿の地下。棺の中で眠るカタナの亡骸と一人きりで向き合いながら、わたしは涙の枯れ果てた目でその別れを惜しみ続けていた。
そんなわたしの真後ろに、彼女は現れた。
「哀れなものね」
耳元で囁くその声に、鳥肌が立った。
真っ先に驚愕が浮かんだ。振り返るより先に、彼女は背後よりわたしに抱き着いてきた。赤い翼が見えないのが不思議なくらいだ。甘ったるい香りが鼻につく。だが、それよりもわたしは怖かった。
「紅……そんなまさか!」
ここは御殿。結界に守られているはずなのに、どうして。
「あなたは絶望している」
怪しげな抱擁を受けながら、わたしはもがいた。
だが、拘束は解けない。紅はしつこい手つきでわたしの反応を楽しんでいた。
「そして、私にはもう何もない」
嫌に密着されている。
左胸につけられた印が熱かった。心臓が怯えている。天使の名を騙る悪魔の存在がすぐそばにいるなんて。
「鴉。あなたは絶望している。あなたの御印と絶望が私をここまで呼んでくれた。白椿のことでは私を苛立たせてくれたけれど、あなたさえ望むのならば仲直りしてあげてもいいわ」
――やめて。
全力で拘束を免れ、そのままカタナの眠る棺に寄り添った。
赤い目がきっと背後からわたしを見つめているのだろう。振り返ることが出来なかった。目を合わせれば、流されてしまいそうだ。
紅には悪魔の力がある。
気を確かに保たなければ、その手を握ってしまいそうだ。
「追い詰められているわね。自分の行動が正しかったのか分からないのでしょう? 神殿で正式に働けるそうじゃない。よかったわね。でも、それでいいの? 結局また同じことの繰り返し。都ですくすくと育っている赤ん坊のことを教えてあげましょうか? カタナとは違って、幸せそうな家庭の娘よ。生みの両親は今から覚悟を決めている。でも、きっと悲しいでしょうね」
――聞きたくない。
聞くことはできない。あんまり聞けば、わたしは紅の方が正しいと思ってしまいそうだった。
まるで紅に従うことこそが善であるかのようで。
違う。どちらが正しいとかではないのだ。わたしはこちらを選んだ。カタナが守ろうとした方に傾いた。
今ある聖樹信仰と紅、どっちもきっと間違っている。
どっちも犠牲にしているものが多すぎる。
正しいと思うことが出来ない。
だから、わたしは判断したのだ。わたしは、わたしの友がいた世界を守ることに決めたのだ。
こうして自分に言い聞かせていないと、また迷ってしまいそうだった。
「本当はカタナに起きてほしいくせに」
棺にしがみつくわたしを、紅が背後から抱きしめてきた。
「あなたを置いて死んでしまったすべての人にまた会わせてもあげられるわ。ねえ、鴉。こんな血の通わないところで生贄を虐げる一員になりたいの? とんだ出世だこと」
「あなたさえ手を出さなければいいだけじゃない」
もう耐えられなかった。
目は合わさないまま、わたしは必死に紅へと訴えた。
「あなたさえいなければ、カタナもサヤ様もこんなに早く命を落とすことはなかったのよ。お願い、紅、もうやめて。あなたがもしも本当に天使だというのなら――いいえ、天使でなかったのだとしても、こんなことはやめてほしいの。次に生まれてくる果実には手を出さないで。都で何も知らずに育っている勇敢の剣の百年を台無しにしないで」
相手が悪魔だということは重々承知している。
それでも、わたしは訴えた。
民として、「所有物」として、人知を超えたこの得体のしれない存在に向かって、慈悲を乞うた。
だが、紅は笑みを漏らした。
わたしを抱きしめたまま、伝わってくるのは決して好意ではないだろう。
「生意気な子。あなたの指図を受けるわけがないじゃない。でもいいの。せいぜい私に乞い続けなさい。そして絶望を溜めるといい。いつか私が迎えに来るまで、丸々と太った羊に成長してくれることを期待しているわ」
やはり駄目だった。話し合いなんて通用しない。
通用するくらいなら、カタナは死なずに済んだ。
許さない。許してはいけない。受け入れてはいけない。印が何だというのだ。勝手につけられただけの印に怯えていてはいけない。
紅が脅すのなら、わたしは立ち向かおう。
「あなたの期待になんか添わないわ」
振り返らないまま、わたしは言った。
「この神殿の、同じ印を持つ人たちにだって手を出させたはしない」
震えは止まらないが、かまわない。
「あなたが燃やした聖典の内容。みんなに広めてやるわ。あなたの悪事を言いふらして、今度こそ果実を守って見せる」
「あらそう。それは楽しみね」
淡々と紅は言った。
「もしもそれが思い通りにいったなら、私はお礼に何をしてあげようかしら。白椿に食い殺される方がましだったと思うような未来が、あなたに待っているかもしれないわね」
「そんな脅しになんて怯まない」
わたしは紅を拒み続けた。
「わたしは……絶望になんて負けないわ」
紅を見つめて訴える勇気はわたしには足りなかった。いまはもう魂の抜けてしまった勇者の亡骸に縋ってでしか、悪魔を退ける強い心を保てない。それでも、わたしの拒絶は紅に効いたらしい。
「忌々しい頑固さね。ああ、どうやら私も時間切れのよう。あなたの絶望が私をここまで呼んだというのに」
背中に触れてくる確かな感触に怯えつつも、わたしはわたしの心を守り続けた。
「でもいいの。どうせ私に卵の殻は破れない。今はまだその時ではないのだから」
声は遠ざかっていく。気配はもうどこにもない。
わたしの触れて脅していた感覚も、何もかも、この国の何処かへと消えてしまったのかもしれない。
それでも、わたしはしばらく棺から離れられなかった。
死んだ人は帰ってこない。不死だったカタナはどこにもいないのだ。勇敢の剣の魂は飛び立ち、都の片隅ですくすくと育つ幼子の中に眠っている。
分かっていても、いまはまだ別れが惜しかった。
この亡骸の中にはまだ聖女の勇気が残っているような気がして。




