1.破滅の剣
白椿は被害者なのだ。
もしも私が紅の姿を認知できなかったとしたら、きっとそうは思わなかっただろう。しかし、私には見える。私にも見える。今まで鴉の言葉でしか分からなかった姿が、漠然としか捉えられなかったその姿が、はっきりと見えた。
だから、分かっている。白椿もまた犠牲者なのだと。
「白椿、目を覚ませ!」
だが、彼女は恐ろしい。
紅に狂わされ、迷うことなく殺意を自分に向けてくる。
果実を壊すまでは不死であるはずなのに、どうしてこんなにも恐ろしいのか。答えはきっと怯えの記憶だ。どうしようもなくなるほど、私は痛みを与えられてしまった。聖樹の、サヤの前で何度も殺されたあの痛みの記憶が、私を震えさせていた。
怯えを捨てるためにも、私は叫ぶしかなかった。
「悪魔に惑わされては駄目だ! 頼む……頼む、サヤを無理に使わないでやってくれ!」
化け物の姿になる白椿。
本来の人狼の力ではないことはよく知っていた。
あれは果実によるもの。あふれる魔力を無理やり使って恩恵を受けている。あんなに他人を愛したサヤの力を、殺意の燃料にしてしまっているのだ。
――やめてくれ!
動揺が広がった。
そんな私に追い打ちをかけるように声は聞こえたのだ。
(カタナ……助けて)
はっとした。
間違いなくサヤの声だ。
どこから聞こえてくるだろうか。ああ、分かっている。これまでだってずっとそうだった。サヤの声は聞こえ続けてきた。
しかしこんなに間近で聞いたのは久しぶりだ。
間違いなく、白椿の中で生きているのだ。あの体の中で、美しい白狼の姿をした檻に閉じ込められながら、私の助けを待っているのだ。
「……サヤ」
動揺が私の心を縛り上げていた。
サヤが生きている。白椿の中で。
「カタナ、しっかりして!」
鴉の声が聞こえてきたが、恍惚から解放されるには至らなかった。
だが、危険は理解した。
白椿の大口が私の体を狙って迫ってくるのが見えたのだ。どうにかそれを避けて逃れようとした。だが、白椿の動きは異様に早かった。相手が純血の人狼だからだというわけではないだろう。
結局、牙は逃れられなかった。
「ぐっ、痛っ――」
言葉にならなかった。悲鳴を必死にこらえ、そのまま離れようとするので精いっぱいだった。しかし、逃してはくれない。すでに体は食われ始めていた。生きながら食われる痛み。またこの苦しみを味わわなくてはならないのか。
――いやだ。
動けば動くほど血が流れていくのが分かった。白椿の息遣いが荒い。血の味に興奮しているのだろうか。食われれば喰われるほど、彼女の力は勝っていく。満足することはないだろう。私のすべてを食らってでも、食欲を満たすつもりだ。
「カタナ!」
どこからか鴉が声をかけてきた。
魔術で助けようというのかもしれない。
彼女の存在を認識すると、痛みの渦中にあっても冷静さが戻って来た。
サヤの肉体は死んでしまったのだ。そして魂は死にたがっている。化け物になるのを望んではいない。ああ、そうだ。私の願望で、サヤの心を宿した白椿の存命なんて望んではいけないんだ。
私の願望で、手を貸してくれた鴉まで危険に巻き込むわけにはいかない。
「鴉、下がっていてくれ!」
どこにいるかもわからないまま、私は彼女に叫んだ。
「君は不死じゃない。私は不死だ。こんな痛み、サヤの受けたものに比べたら」
「なら、今すぐに同じ思いをさせてやろうか」
寒気のする脅しが聞こえたと思えば、逃れようとしていた手を激しい力で引っ張られた。途端、ひどい音が聞こえてきた。やられた。腕一本。どうしても力が入らない。今すぐに回復してもらいたいものだが、間に合っていない。
痛みと疲労で足の力が抜けそうになる。その隙を白椿が見逃してくれるはずもなかった。牙は喰い込み続け、肉が引きちぎられる。
熱い。炎の中にでも投げ込まれたかというほどの熱さだ。
死を許されぬ体が憎らしい。
だが、感謝せねばならぬのだろう。諦めてはならない。人間であることを忘れるのだ。意識を保ち、不死の者らしく勝利を狙うのだ。私の願いはなんだろう。何だっただろう。
今も肌でサヤの気配を感じる。
彼女を苦痛から解放したい。
かなえるためには、勝たねばならないのだ。
「白椿! 避けなさい!」
紅の声が響き、白椿が我に返る。
彼女を捉えようとした「剣」は、髪の毛数本を切り裂くにとどまった。左腕は犠牲になった。だが、左腕ならばいい。剣を持つ手さえ残っていれば、私は戦える。戦わなくてはならない。
しかし、気が削がれそうだ。
ここまでしたのに、白椿は無傷だ。髪の毛を斬ることしかできなかったなんて。
「こんな痛み、サヤに比べれば……」
辛いだなんて言うわけにはいかない。
私は不死なのだ。苦痛に甘えてはならない。サヤが待っている。私を信じている。戦わねば。勝たねば。
勝って、死ななくては。
ふっと視界が暗くなり、痛みも疲労が薄らいだ。
傷が治っていく。赤い天使の印が熱く光っているようだ。私は今日の為に生きてきたのだ。今日の為にこの力はあるのだ。
何度も言い聞かせなければ、分からなくなってしまいそうだ。
さあ、冷静になったら何が見えるだろう。白椿が何故だかぼんやりとしている。叱咤する紅の声が聞こえてくる。
だが、白椿は私を見つめたまま表情を変えていた。
私を食い荒らしたときの顔じゃない。
ああ、分かった。私に殺してくれと懇願したときの彼女だ。きっとそうだ。そう信じて、私は「剣」を握りしめ、飛びかかった。
彼女に破壊をもたらさねば。
サヤを安らぎに向かわせなければ。
すべての思いをかける一撃を、そんな思いで私は白椿を狙った。だが、寸でのところで白椿は再び民ではなくなってしまった。
人であった彼女が化け物に戻ってしまった。
気づいたけれども勢いは止められず、私はそのまま白椿の心臓をめがけて突っ込んでいた。怪物の牙が私の体を引き裂こうと襲う。軌道は間違いなく逸れる。逸れた後、どうなるのか。
「ぐ、ぐあっ、うああっ」
真っ先に聞こえてきたのは白椿の悲鳴だった。
手ごたえが腕にまで伝わってきた。生暖かい血は私のものだけではなく、白椿のものも含まれている。
だがこの一撃では決まらなかった。
怒りのままに咆哮する白椿から逃れる時間はなかった。心臓から逸れた場所に「剣」が刺さったまま、その「剣」を手放すという判断さえ追いつかないまま、私は白椿に噛みつかれ、そのまま押し倒されていた。
「白椿、やめろ……やめ――」
それ以上、言葉は出なかった。
あたりがさらにきつい臭いに包まれる。
悲鳴が上がった気がするが、定かではない。何処かに鴉がいるはずだ。鴉はどうしている。紅に何かされていないだろうか。確認する暇なんてなかった。今自分に起こっていることを受け止めることで精いっぱいだった。
「あの日の……再現だ……」
言葉を忘れかけた怪物のように、白椿は言った。
「思いしれ……!」
屈しては駄目だ。恐れては、駄目だ。
右手が動くのなら、動かせ。「剣」をこの手に。サヤを救わなければ。この人を悪魔から解放しなければ。
――白椿!
声は出なかった。
「くそ、化け物め。まだそんな力が残っているのか」
だが、思惑通りにはなった。命を張った私の一撃を白椿はあっさりと避けてしまった。
恐れた狼が私から逃れていく。しかし、ただ逃れたのではない。狼は即座に次の獲物を見つけてしまった。鴉だ。この戦いの場において、紅の相手をしようと引き付けている魔術師。魔術のほどは確かだが、異常な身体能力を誇る怪物に物理的に襲われてはかなわないだろう。
「鴉っ!」
復活したばかりの喉で叫びながら、私はすぐさまそちらへと飛び込んだ。
白椿のように狼になんてなれないはずなのに、まるで四肢をつかって駆けているかのようだった。
人狼――大神か。
かつては彼らが人間たちを守ってきたのだと聞いている。それならば、私もその血を引いているのならば、何でもいい。神や聖樹、天使の力でなくたっていい、鴉を救う力を貸してくれ。
その思いが通じたのだろうか。
私は間に合った。
白椿の爪と牙が鴉の命さえも奪うより前に、「剣」と共に盾となることが出来た。ついでに、確かな手ごたえも。
そのまま考える力が一瞬だけ途切れた。
しばしの無の感覚の後、私は様々な疑問を抱き始めた。
非常に不快なこの振動はどこから。強い衝撃は何処から。痺れが遠ざかっていくのはなぜだろう。聞こえる音が雑音ばかりなのはなぜか。鴉の声。私の名を呼んでいる声。なぜか遠い。
目に映る世界は真っ暗闇だった。
「ああ……ああ、丹」
そこへ先に聞こえてきたのは白椿の声。
「丹、許して、許してくれ……」
狼の咆哮と共に、彼女の気配が去っていく。
視界がおぼつかない。白椿はどこへ去っただろう。守ったはずの鴉はどうしているだろう。すべてが分からない。
私は立っているのか、座っているのか。
いったい、どんな姿をしているのか。
だんだんと意識が定まってくるにつれて、私の意識はすくい上げられた。同時に生まれたのは、泣き叫びたくなるほどの痛みだった。




