3.逃亡の果て
夕空から月下までの距離はそんなに遠くない。
しかし、今の私にとっては、この国の端と端を行き来するかのように果てしなく長い距離に感じていた。
私に残された時間。
きっとほとんど残ってはいないだろう。
すべての可能性は萎んでいく。
私の体が赤に染まっていく。私の通る道が赤くけがれていく。その赤が流れれば流れるほど、私の命の灯は力を失っていくのだ。
その前に、せめて月下に行きたい。
丹と出会い、ともに育った森に行きたい。
しかし、現実は残酷なものだった。
私を見守る神などいないのだから当たり前だろう。
歩む力どころか立っている力すら失って、私はその場に倒れ伏した。このまま死ねたらどんなにいいだろう。しかし、じっとしていれば果実は私を生かしてくれるらしい。だから、逃げる力が残っていないうちに、はっきりとした黒い迎えが来るのを待つしかない。
「諦めないで白椿」
傷に屈する私の体をどこからともなく現れた紅が撫で始める。
「カタナの体は半分以上損壊していた。戦いは引き分け。けれど、援護しているのが私である分、あなたの生き残る道は十分残されているわ。今のうちに果実の力を使いなさい」
悪魔の囁きが身に沁みる。
避ける暇すらなかった「剣」の一撃が、あわやのところで心臓をそれて脇腹に突き刺さったとき、あまりの苦痛に私の怒りは最高潮に達した。
その後のことはあまり覚えていない。
ただ贅沢な肉と血の味が口の中に残っているだけ。
追いかけてきていないあたりから察するに、紅の言う通りのことが起きたのだろう。カタナはすぐには動けぬ体となり、鴉もまた追いかけては来られない。
まだ私は生きている。
生き残る道は見えている。
この胸に願うだけでいい。果実に対して命じるのだ。私の傷を治せと。その権限が今の私にはある。
だが、そうする気力があまりなかった。
横たわったままぼんやりとする私を、紅は少々荒く諭した。
「しっかりなさい。殺されてもいいの?」
まるで私が生きていたいと口にしたかのようだ。
どんな姿でも、どんな存在でも、生きていたいと思うことは不自然なことではないだろう。
私だってそうだったかもしれない。
でも、この世界でそうしてまで生きることに何の価値があるだろう。
ここには丹はいない。
私をかばって殺されてしまった丹はいないのだ。
あるのは毛皮だけ。寒くなってきた私の体を必死に温めてくれるこの毛皮だけ。少し薄くなってしまった丹の香りが私の心を癒してくれている。
「頑固な人ね。聖樹信仰の上に立つ時代は終わったのよ。もっと自由な目で世界を見つめなさい。あなたの幸せには丹が必要。それならば、果実に願いなさい。生き返らせるのよ」
「さっきも言ったはずだ。それはできない」
肌が寒い。寒いのに体の中は非常に熱い。相反する二つの感覚が不快で、動くこともままならなかった。
「果実で生き返らせたとしても、それはもはや丹ではない。丹の姿をした別人だ。丹は死んだのだ。こうして毛皮になってしまった。死んだ者が戻ってくるはずがない」
「ああ、じゃあどうしたらいいの。教えて、白椿。どうしたらあなたは私のいうことを聞いてくれるの? 私はこんなにもあなたを大切に思っているのに。あなたに死んでほしくないの。今やあなたは私と共に歩む者なのよ」
「知らない。それに、お前の言葉など信じない。お前が興味を持つのは果実だけ。私の中にある果実だけだ。私を大切にしたいと思うのなら、これ以上の罪を重ねる前に殺してくれ」
「白椿!」
聞き分けの悪い我が子を叱るように、紅は私の名を唱えた。
この悪魔の本心はわからない。表情や声、接し方をみれば、嘘やわざとらしさなどあまり感じられない。
もしかしたら心から私を生かしたいと思っているのかもしれない。
丹がいない今、この世で唯一、私の味方であろうとしているのはこの紅であるのかもしれない。
しかし、私にとってはどうでもいいことだった。
こうして待っていれば、カタナはまた来てくれる。不死の力は侮れない。そう時間もかからないのだろう。その証拠に、紅が焦りを見せ始めている。
(カタナ……)
呼んでいる声を邪魔してはならない。
聖女の導きで死ねるのだ。
ぜひとも受け入れようじゃないか。
「駄目よ、白椿! 立ちなさい!」
ああ、何が悪かったのだろう。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
不幸な目にあってしまったのはなぜだっただろう。あの時、夫婦二人きりで七海に行こうと思ったことがそもそもの間違いだったのだろうか。
丹が死んでしまったのはなぜだっただろう。私の力が弱かったばかりに、密猟者などに捕まってしまったのだ。
丹は助けてくれたのに、彼だけが殺されて。
情けない。情けなくて涙が漏れ出す。
自分だけの力では夫の敵も討てず、後を追うことも、新しい伴侶を見つける未来を見つめることも出来なかった私には、異国の地で襤褸切れのように使い捨てられるのがお似合いだったのだ。
それすらも嫌で、私は密猟者よりもさらに思い罪に手をつけてしまった。
馬鹿なものだ。なんて忌まわしいのだろう。
「忌まわしくなんてないわ。すべてこの世が悪いの。密猟者をどうして神はお許しなのかしら。神が間違うこともないのなら、どうして神龍の国の人々が我が勇敢の国を脅かすのでしょうね。エルリクの国だって怪しげな動きを見せているわ。聖域だけではだめなの。その為に、エルリクや神龍に釣り合う支配者が必要なのよ。黄金の果実を持ち、聖剣を支配するものが!」
おぼろげな視界の先で見える赤い翼の持ち主が、不思議と天使のように見えた。
強い言葉に私はからかうように笑い、答えた。
「どうやら見込み違いだったらしいな」
眩暈は強いがじっとしていると少しは気が楽になってくる。
黄金の果実が無事である以上、この程度では私も死ねないのだろう。不死というものは可哀想だ。今となってはカタナに強く同情する。
「いいえ、あなたは私の選んだ人よ」
紅が必死に私に縋る。
それが楽しくて、意地の悪い気分になった。
「あなたの気持ち次第なのよ。気持ち次第ですべては変わる。今はただ混乱しているだけ。あなたの本心は私が分かっている。分かっているからこそ、私はあなたを誘うことが出来たのよ」
答えるのも億劫になってきた。
黙ったまま横たわっていれば、紅は更に私を揺さぶろうとしてきた。
「起きて。果実に願えば起きられるはずよ。いいえ、そうでなくともあなたの傷はすでによくなっている。そうでしょう?」
冷たい地面が心地いい。
月下は遠く感じるが、目と鼻の先であるはずだ。
ここで死んでしまおうか。
「馬鹿言わないで。そうはさせないわ!」
真っ赤な目が私を睨み付けている。
その目の色を見つめていれば、私の体の中で血が沸き立つような微かな感覚が生まれた。しかし、それだけだった。微かなだけではだめだ。私の心は動きそうにもない。
こうして待っていても、いざカタナが前に現れれば同じことを繰り返すことになるのだろうか。だとしても、少しずつ変わっていくはずだ。私の心は虚ろになっていき、カタナの剣を避ける気力すら削がれていく。そうなれば、あとは諦めなかった方の勝ちだ。愛しい果実の為に果敢に勝利を狙うカタナと、罪悪感に溺れつつも紅によって混乱しながら戦っている私。
どっちが有利かなんてすぐに分かる。
「白椿……!」
自分の暗示が聞かないと分かってか、紅が嘆き始めた。
「どうして、どうしてなの? 私はあなたを不幸から救うために手を貸したのよ。それなのに、どうして。あなたはすべてを手に入れることが出来るのよ。果実をうまく使って、勇敢の剣との戦いに勝てばいいだけなの。エルリクや神龍と並ぶ支配者になれるのよ。なりたくないのなら、ならなくてもいい。この世界で好きなように暮らせばいいの。それだけなのに」
「私は人として生まれ、罪を犯した。最期くらいは人に戻りたい。人として裁きを受けたい」
「戻って何になるの? 裁きなんて受ける必要はないの。お願いよ、白椿。私のいうことを聞いて。今の私はあなただけの為にいるのよ」
懇願するその声を聞き流した。
地面に耳をくっつければ、聞こえてくるのは足音だ。
全身で感じる。私を探して歩いているものがいる。その者の接近に紅もまた気づき、はっとした。すぐさま私のそばへと近寄ると、周囲を警戒し始めた。
何があっても私を――いや、果実を諦めないのだろう。
やがて、彼女は再び現れた。
黒い服はぼろぼろだった。だが、衣の下に見える肌は綺麗なものだ。その後ろには鴉がいる。手負いだ。私がやったのだろうか。あまり覚えてはいない。
「悪魔よ……その人から離れろ!」
カタナは剣を紅へと向けた。
なんて勇ましいのだろう。どんな絵画も彼女を描くことはできないだろう。ある種の感動に打ち震え、私は静かに時を待っていた。
「その人はお前の傀儡などではない。我が国の民の一人だ。すべての元凶はお前にある。その人も、サヤも、返してもらおうか」
どうして。どうして彼女はあんなにも神々しいのだろうか。
(どうか怖がらないで)
体の中で優しい声が響いた。
(わたし達が一緒にいるわ)
この声が向けられているのはカタナなのだろうか、それとも。
呆然としたまま横たわる私に、紅が身を寄せた。その視線はカタナと手負いの鴉に向けられている。
「返す? 何を言っているの。この人はもはや私のもの。そこにいる鴉も同じ。そしてあなたもそうよ。赤い天使の印のある者は私のモノと決まっている。モノが主人に逆らうなんて許さない。今すぐに剣を捨てて私にひれ伏しなさい」
強い言葉が放たれると、鴉が表情をゆがませた。
印が痛むのだろう。私も静かな痛みを感じていた。だが、カタナは怯んだりしなかった。強い視線を紅にだけ向けて、じりじりと迫ってくる。
その強い目を見つめた瞬間、体が強張った。
一瞬でも恐怖が勝った隙を紅は見逃さず、悪霊が人に憑依でもするかのように私の影へと入り込んできた。
悪魔。こいつはこうやって人を操るのか。
接近される前に、私の手はカタナを拒んだ。剣を持つ手を突き飛ばし、そのまま逃れようとしたのだ。
紅がやったことだろう。
しかし、それは逆にカタナに機会を与えることとなった。
彼女は冷静だった。突き飛ばそうとしたその手を掴みあげてきたのだ。すぐさま紅が黄金の果実を頼ろうとした。だが、正当な持ち主は私だ。紅はまだ私ではない。私はまだ狂いきっていないのだ。
「紅」
カタナは私に向かって言った。
私の中にいる紅に向かって。
「お前の負けだ」
その言葉ばかりが頭の中をこだました。




