2.破滅の剣
聖域の外を私は知らない。
そこに君臨する我が祖先を含む魔物たちがどういう生活をし、どういう様子で大地を駆け、大空を舞い、大海を泳いでいるのかなど知らない。
だが、私の中に流れる血の中には魔物のものが含まれている。
黄金の果実に影響されたこの異様な能力も、もともとは私の中で眠っていた魔物の血潮に関するものなのだろう。
同じ血は神の使いに徹する漆黒の処刑人にも流れているはずだ。
勇敢の剣という呪いの印を与えられた生贄。天使など舞い降りず、聖樹も果実も生まれなければ、彼女もまた大神の子孫としての一生を送っていたはずだった。
しかし、その処刑人カタナは己の運命を受け入れ、その通りにふるまって生きている。かつての私が勇敢の一市民として気ままに暮らしていたように。
大神という同じ血を引いているのに、私たちはこうも違う。
死滅という同じ未来が待っているはずなのに、私たちはこんなにも違う。
私はけがれている。ケダモノだ。ケダモノらしく、往生際をわきまえずに今やカタナの血肉を欲している。
ああ、思い出した。
神聖なあの場所――この国の聖地で味わったのは何だっただろう。先ほど食らった汚らわしい密猟者どもの血肉なんかよりもずっと神聖な御馳走だった。この世に二つとない御馳走。食っても、食ってもなくならないものが今、私の目の前にあるじゃないか。
剣を構えながらも恐れているのか震えている。
脇に控えていた少女鴉が慌ててカタナに寄り添いはじめた。
抵抗するつもりだ。しかし、私は恐れない。その怯えがある限り、私は負けたりしない。もう一度あの味を楽しもう。黄金の果実を存分に使って、天使の生んだ血と肉の味に溺れよう。
紅は私に言った。
「欲望の限り貪り尽くしなさい。果実を使うことを恐れては駄目。恐れを捨ててしまえばあなたは勇敢の剣に負けたりしない」
紅に唆されればされるほど、こちらもなぜだかその気になった。
よく見れば魅力的な獲物だ。神殿で暴れたあの時、私は何を思っただろう。私は自分のことを人間だと思っていた。魔物の血を継いでいるだけの人間。それも聖域に足を踏み込めないために魔物と言われているだけで、本当は神に等しい慈愛に満ちた偉大な夫婦の血を継いでいるのだと。
だが、人狼は魔物だ。
大神の子孫であったとしても古くより各地で暴れ、時には大神でない人間を食うことを楽しんでいたものまでいる。
そう、私はケダモノなのだ。
ケダモノの私にとって目の前にいるこの二人は何者か。
神の生みだした奇跡としか言いようがないほど美味しい血と肉を持つ不死の女と、魔術などというまやかしに頼るしかない肉の柔らかそうな少女だ。
感情が爆発した途端、言葉の代わりに咆哮が飛び出した。
もはや目の前の女たちを食うことにしか興味が持てなかった。
紅に言葉の鎖で繋がれたままなのだろうか。いや、これが本来の私なのだろう。紅はただ私を解き放っただけ。この国の民として成長した私が知らないうちに自分自身を縛っていた縄を、ご丁寧にも断ち切ってくれただけなのだ。
「白椿、目を覚ませ!」
涎を垂らしながら飛びかかる私に向って、無謀にもカタナはそう言った。
「悪魔に惑わされては駄目だ! 頼む……頼む、サヤを無理に使わないでやってくれ!」
(カタナ……助けて)
サヤの声が頭の中で響くと、同時にカタナの表情がゆがんだ。
聞こえているらしい。
果実の巫女め。
この期に及んでまだ助けを求めている。
哀れな赤ずきん。この少女は疑問を抱かないのだろうか。自分のために不死を手放そうとしている勇敢の聖女の生き方を憐れんだりはしないのだろうか。
これまでずっと自分のために体を張ってきた戦士に対して、なぜ、こんなにも残酷な悲鳴を聞かせるのだろう。
「……サヤ」
動揺が剣の判断を鈍らせる。
「カタナ、しっかりして!」
いち早く私の猛撃を避けることができた鴉が、慌てて彼女に向って言った。子供とはいえ紅が見込んだだけの魔女には違いない。きっと何らかの魔術思い出して、カタナを守ろうとするのだろう。
忌まわしい。
「だから私はあの時に、食べてしまえばいいと勧めたのに」
からかうような紅の声が耳障りだ。
だが、そんなことよりも今の私の興味は逃げる機会を完全に失ったカタナにあった。サヤの声が惑わしたせいだ。巫女よ、お前のせいで悲鳴があがる。ぱっくりと開けた口でその体に牙を食いこませようとすれば、カタナはすぐさましゃがんでそれを回避した。だが、あの鬼族たちの動きすら遅く見えたくらいだ。半端な血を持つカタナの動きは、少しかしこい動きができるだけの人間のものだ。
逃すなんてへまを私がするものか。
思い切って左腕をとらえ、そのまま思い切り牙を食いこませた。だが、カタナは悲鳴をこらえ、痛みもこらえて無理やり私の拘束から逃れようとし始めた。そのおかげで傷は開き、あの味が血と共に私の舌を濡らし始めた。
似ている。
果実を捕まえて食い荒らしたときに感じた悦楽を少し薄めたような味だ。
あの時の感動的な味は二度と味わえないだろう。だが、その代わりにこいつがいる。こいつがいればあの時の味には何度も近づくことができる。
そう思えば興奮した。
血だけでは物足りない。早く肉を食いたい。骨を削る感覚を味わいたい。そして思う存分悲鳴を聞かせてもらいたい。
「カタナ!」
鴉が魔力をため始めた。
だが、それを見て紅が怪しげに微笑みだした。
彼女は目印をつけられている。今の私にはその意味が大体ならわかる。鴉は苦しそうにしながらもどうにか溜めた魔力でカタナを救出しようともがいた。しかし、その術は不発だった。
誰のせいだなんて聞くまでもない。
「鴉、下がっていてくれ!」
カタナが痛みをこらえて叫んだ。汗が血と共に私の舌をくすぐってくる。いい肉の香りがする。早く食いたい。早く。
「君は不死じゃない。私は不死だ。こんな痛み、サヤの受けたものに比べたら」
「なら、今すぐに同じ思いをさせてやろうか」
力任せにその手を引っ張ってみれば、小気味のよい音が響いた。脱臼でもしたのだろうか。悲鳴をかみ殺して耐えてはいるが、一瞬だけカタナの体から力が抜けた。その一瞬を見逃さずにさらに牙を食いこませ、肉を引きちぎった。
肉の味が広がった。恍惚とする感覚に気が狂いそうだ。
頭がおかしくなってしまいそうだった。
どうしてこんなに美味しい味がするのだろう。
ぼんやりとした私を紅が叱り飛ばす。
「白椿! 避けなさい!」
はっと我に返りその場から逃れれば、髪の毛の数本を剣が切り裂いていった。
カタナによる反撃だ。左腕を食いちぎられながら、右手に持つ「剣」をぶつけようとずっと狙っていたのだ。
危なかった。だが、こちらは無傷だ。
血の一つも流せずに悔しがるかと思ったが、そんな余裕すらもないらしい。しかし侮れない。こいつは不死なのだから。
「こんな痛み、サヤに比べれば……」
暗示でもかけているのだろうか。
涙を浮かべながら耐えきって、カタナはじっと傷の修復を待っていた。
心なしか治り方が荒い。彼女の不死たる所以は私の体の中に閉じ込められた黄金の果実だ。果実を私が支配している今、勇敢の剣の主人も私となるはず。そうならぬように黄金の果実は意識を保ち続けるのかもしれない。この異常な事態を治めることができる唯一無二の存在に、決意を抱かせるために。
面白くない。
こんなに美味しい血肉を持つ不死者なのだ。私の好きなようにすれば退屈しないはず。信仰なんて捨てたいと思うようにするにはどうしたらいいだろう。どうしたら、勇敢の剣を手に入れられるだろう。
いつか紅が見せてくれたあの力は、どうやったら再現できるのだろう。
「それはあなた次第」
紅は教えてくれた。
「あれは明松と私の力によるものだった。再現するにはあなたがもっと私に近づけばいい。欲望を解放しなさい。そうすれば、あの力をあげられる。勇敢の剣はあなたのものになるの」
もっと近づけばいい。
ああ、そうか。あの呪われた短刀。きっと、明松の犠牲の上に成り立ったもの。ならば、簡単だ。今の私なら、再現できる。今の私なら――。
――白椿。
一瞬だけ、丹の声がしたような気がした。
――心優しい君はきっといい母親になるのだろうね。
あれはいつの頃の声だっただろう。
丹。そうだ。丹。
私は何をしているのだろう。血で肌を穢して、同じ勇敢の民を食い荒らして悦に浸っているのはいったい誰だろう。
いけない。
紅の思惑通りに動いてはいけない。
私の本当の願いは、こんな未来じゃない。
「白椿、動きなさい!」
紅の言葉が私を制しようとする。だが、その前に、私のすぐ目の前には「剣」が迫って来ていた。
悪行を終わらせる剣。
この国を救う勇敢の化身が、私の命を切り捨てようと襲い掛かってくる。
避ける時間はあまり残されてはいなかった。




