18.黒き御使い
復讐は何も生みださない。
その言葉を思い出しながら、私は深呼吸をした。
よく聞く言葉だが、正しくはない。私は実感していた。復讐が生みだすものがあるのだ。虚しさという感覚。辛い気持ちを深める暗い気持ち。
もう何処にも逃げられぬ身体を横たえながら、凰は泣いていた。
あまり時間の残されていないその目がずっと見つめているのは、冷たくなった兄の姿。食べられる部分は残らず食べてしまった。美しいと言われれば頷けるような鬼族特有の顔立ちも、今は見るに堪えない造形に成り果てている。それでも、凰は見つめていた。何度も震える手を伸ばしては、異国風の口調でその名を呼んでいた。
『兄さん……鳳兄さん……置いて行かないで』
相変わらず言葉は分からないが、意図だけは伝わってくる。
仰向けのまま嘆く彼女の上に覆いかぶさる形で、私はまだ肉の残る身体を見下ろしていた。
「安心しろ。お前を一人ぼっちにはさせないさ」
冷たい口調は私のものだろうか。
自分の声さえ聞き違えるほど、心は茫然としていた。
この小娘を喰い殺せば全ては終わる。そう分かっていたけれど、あまり楽しくはなかった。此処に至るまでは楽しい瞬間も何度かあったのに、どうしてだろう。今となってはその過去の楽しささえも陳腐なものに思えてしまった。
毛皮を取り返して、復讐を果たして、次は何をすればいい。
私は何のために生きればいいのだろう。
『どうして……神龍様……どうしてなの』
嘆く凰をそれ以上、苦しませるのもつまらなかった。
あれほどまでに仕返ししてやろうと誓ったのに。丹の受けた苦しみを何百倍、何千倍にもして返してやろうと思ったのに、これっぽっちで許してやるなんてどうかしている。
でも、心は壊れてしまったのだ。
凰はただ死にたがっている。先に逝った兄を恋しがり、羨んでいる。嘆きの言葉は命乞いの言葉ではない。その証拠に、私の牙が首筋に当たれば、凰は大人しく覚悟を決めたのだ。
「新しい世界の女王」
この国の言葉で、凰は言った。
「我が祖国の神龍のように、あなたはこの国を変えてしまうつもりなの?」
唸りながら、私は牙を喰い込ませた。
凰は黙って目を閉じる。
「……何にせよ、わたしはあなたの生贄となるのね。せいぜい、支配なさい。そしてこの国を我が祖国のように狂わせてしまえばいい。大神の子――いいえ、新たな大神、あなたに乗り移ってやる。あなたに乗り移って、仕返しを――」
続く言葉は奇声だけだった。
早く楽にしてやろうという気持ちはあまりなかった。だが、さほど持ちもしなかっただろう。喉を食いちぎると共に、肉という肉を引き千切って食べた。鬼族は食用には向いていない。それでも、美味く感じた。ずっと欲しかった味だったからだろう。
でも、虚しさは付きまとった。
どうして私は満たされないのだろうか。
結局、凰が骨だけになってしまっても、私は満たされないままだった。周囲に散らばるのは、死体ばかり。すっかり骨だけになってしまって、食えるところは何処にもない。
落ち込む気持ちを抱えたまま、その場にぼんやりと座っていると、背後から急に誰かが抱きついてきた。芳しい香り、赤い翼、艶やかな袖。その感覚だけで紅だと分かった。
「気分はどう、白椿?」
「よく分からない」
「抑えていた食欲を一気に解放したのだもの。混乱しても仕方ないわ」
優しく囁きながら、紅は私の頭を撫でる。
「でもまだ足りないようね。もっともっと喰らい尽くしなさい。でないと、あなたは勇敢の剣に負けてしまうかもしれないわ。欲望のままに殺して、食べて、私と同調しなさい。あなた自身が天使になるの。……いいえ、新しい神に」
「私がなるのは悪魔だ」
「白椿ったら釣れない子。少しは笑ってご覧。愛する人の仇は討ったのよ。もうあなたの妹や両親が奴らに襲われる心配なんてなくなったのよ。よかったじゃない」
「……ああ」
「笑った後は気を引き締めなさい。カタナは近くにいる。へそ曲がりな魔女が力を貸してしまっているから。でも、大丈夫。あなたが私を求めてくれる限り、私はあなたを完璧に守る事が出来るの。だから、安心して。あなたが立派な怪物になれるまでは、私が温めてあげる」
笑えば笑うほど、虚しさは激しくなっていく。
私は復讐を果たした。憎き相手を殺した。家族を守った。もう何も心配することはないはずだ。何も怖がることはない。
それなのに、どうして私はこんなにも不安を抱えているのだろう。
「一人で抱えては駄目よ。白椿。私を見て」
紅が目を合わせてくる。
「敵はすべて殺した。それでも愛する人はまだ帰ってこない。恋しいのなら願いなさい。あなたの味方は誰? この世界で唯一あなたを見放さない者は誰? 私を見なさい。私だけを見なさい」
暗示でもかけてきているかのよう。
こいつだけを信じて、こいつだけを見つめて、生きていけばいい。
だが、何を目指して生きていくのだ。
この先、私はどうすればいい。
「聞きなさい。白椿。恋しいのなら生き返らせるの」
生き返らせる。
「丹に帰って来て貰いたいといいなさい。あなたと私なら出来るわ。黄金の果実を支配するの。恋しい人が帰ってくれば、あなたはきっとまた幸せになれるわ」
そうなのだろうか。
死者を甦らせれば、これまでの悲劇はなかったことにでもできるのだろうか。
丹を甦らせて以前のような暮らしを……。
「いや、駄目だ」
想像は半ばで途切れた。
「どうして?」
「丹には会いたい。でも駄目だ」
「どうしてなの?」
「……丹に合わせる顔がない。彼にとっての私は、誇り高い大神の子孫であり、純朴な勇敢の民であったはず。ならば、今の私は、彼を失望させるだけの存在だ」
ただ純粋に怖かった。
生き返った丹は私になんというのだろう。
大神としてあるまじき行為を私はしてきた。こんな醜い私に愛想を尽かすのではないだろうか。悪しきものを罰するために、数えきれないほどの罪なき者を殺してきた私を、彼は怖がらないだろうか。
丹は正義感の強い男だった。
光のような人狼だった。
死後の世界があるのならば、私はきっと彼に別れを切り出されるだろう。
「馬鹿な人。そんなわけないじゃない」
しかし、紅はそう言った。
「丹は喜ぶわ。またあなたと一緒に暮らせるなんて。不当に奪われた未来だもの。取り返したいに決まっている。試しもしないで何を怯えているの? 丹は冷たい死の世界に囚われたままなのよ。可哀想だと思わないの?」
心を揺さぶる声がする。
紅の言葉が器用な指となって、私の本心を包む皮を一枚一枚丁寧に捲っていっているかのよう。
これは悪魔だ。間違いない。彼女に触れられ、その香りを嗅ぐだけで、抑えこんでいるはずの欲望が沸き起こる。
(……カタナ)
苦しそうな果実の声が私の動揺をさらに深めた。
「それとも」
紅が声色を変えて囁きかけてきた。
「嫌われることばかり恐れて逃げるつもり? 自分ばかり嫌な思いをしたくないが為に、せっかく取り戻せる丹の未来を諦めてしまうの? 自分の恋人でないならば、丹なんてどうでもいい。そういうことかしら?」
「ち、違う」
妙な焦りが生まれ、私は紅を見上げた。
紅はそんな私の唇に手を当てて、にっこりと微笑みながらさらに続けた。
「どう違うの? ただただ愛しいだけならば、たとえ自分の恋人でなくたって生きているだけで嬉しいものでしょう? あなたは終わりを恐れるあまり、丹を諦めようとしている。その程度の愛。その程度の絆だったというわけよ」
「違う!」
吠えながら紅に噛みつこうとしたが、実体のよくわからない者を噛めるはずがなかった。紅は笑いながら私の頭を撫ではじめる。
「恥ずかしがらなくたっていいの。それもまたあなたの生き方。果実は自分のために使いなさい。あなたがどう使おうと、私はあなたの味方。私だけがあなたの味方であり、本当の伴侶なのよ」
「本当の伴侶だと?」
不快な気持ちが高まった。
私の伴侶は丹だけ。丹だけと決めている。こんな悪魔が伴侶だなんて。ああ、でも、間違ってはいないのかもしれない。勇敢の天使に愛された民の子孫は皆、天使の伴侶であり、天使をお許しになった神の伴侶でもある。しかし、その神に背く私は、もはや伴侶ではない。私は悪魔。悪魔になってしまう者に過ぎない。
落ち込む私を抱きしめて、紅は更に言葉をかけてくる。
「永劫の伴侶は丹だけ? そう信じているのなら、どうして彼を復活させないの? 信じればいいじゃない。蘇った彼はきっとあなたの心情を理解してくれるわ。あなたと共に歩んでくれるはず。そうでしょう?」
そう、なのだろうか。
丹はいつだって正義の味方である前に私の味方だった。
お互いにお互いを唯一の伴侶と認め、共に歩んできたのだ。
そうだ。彼は昔言っていた。もしも私が悪事を働き、人々から追われる身になってしまったとしても、私の味方でいてくれると。私が正しい道に戻れるように守りながら共に寄り添ってくれると言っていた。そうだ。私も答えたのだ。もしも丹がそうなったとしても、私もそうするのだと。
じゃあ、彼は許してくれるだろうか。
生き返り、私の罪を知っても、この胸に宿る黄金の果実の存在を知っても、勇敢の剣から私をかばって――。
「駄目だ……」
私は何を考えているのだろう。
「駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!」
首を思いきり振っても、忌まわしさは取れそうになかった。
「何を言っているんだ、紅。そんなことできるわけがないじゃないか。私は丹を愛している。愛しているんだ。彼を生き返らせれば、彼もまた罪びととなってしまう。そんなのは嫌だ。彼を崇高なままにしたい。彼の意思を尊重したい。私に彼を穢す権利などあるはずがない。この力で彼を生き返らせたりしては、いけないんだ!」
泣いているのはなぜだろう。
身が引き裂かれそうなほど苦しいのはなぜか。
本当は生き返らせたいのだ。丹にもう一度会いたい。ののしられたとしてもいい。彼が生きているというだけでいい。
黄金の果実が万能だというのなら、いますぐに試してみたい気持ちはあるのだ。
だから、私は泣いている。
その欲望をぐっとこらえるために泣いているのだ。
「白椿」
冷たい紅の声がさらに心を揺らがせる。
「何を我慢しているの。そんな価値観捨ててしまいなさい。これからは新しい物の見方で生きてかなくてはならないのよ。丹を甦らせる。何がいけないの? 罪とはなに? どうして穢すことになると思うの? あなたの考えは聖樹信仰に汚染されているわ。価値観なんて捨てて、一度は欲望のままにふるまいなさい」
いやだ。
そう即答したいのに、なぜだか声が出なかった。
紅の視線のせいだろうか。彼女のまなざしには何かが宿っている。私を本来の私でなくす何かが。
「本来のあなた?」
男を惑わす魔性の女のような声色で、紅は私の心をかき乱していく。
「それはいったい何? あなたは何を根拠に『あなた』でいるの?」
助けてくれ。
だれか、私を助けてくれ。
血と肉の味が、紅の言葉が、そして体の中で涙を流して苦しんでいる果実の感情が、私の心を引き裂こうとしている。
このままでは私は壊してしまう。
丹の愛したすべてを壊してしまう。
助けてくれ。だれか。私を止めてくれ。このままでは私は流されてしまう。自分の欲望を抑えきれぬまま、本物の悪魔になってしまう。
助けてくれ。
「私を、殺してくれ」
言葉が悲鳴のように漏れ出した。
私を救ってくれるのはいったい、何だろう。
血に穢れた大地のなかで天使の名を騙る何かに惑わされながら嘆くこの愚かな私の前で、奇妙な匂いを乗せた風が吹いた。
これが、答えなのだろうか。
聖樹に守られる人々が信じた神の使いなのだろうか。
風が運んだのは女。私の前には二人の女が立っていた。片方は女というにはいくらか年が足らない。もう片方は女になったばかりと言っても過言ではないような若者だった。
風を操る風変わりな少女は周囲の光景に怯み、変わった色の目に私への恐怖を浮かべている。
だが、少女に連れられたのだろう若者は違った。
この国に一番多い色の髪と目をした女。その顔立ちの端々には大神の血をほうふつとさせる特徴がよく出ている。
大神は仲間意識が強い。自分の仲間に手を出したものを絶対に許しはしない。しかし、目の前の彼女は大神の血が薄いためだろう。彼女――カタナの表情に浮かぶ怒りの感情は、私が恐れていたよりもずっと弱いものだった。許してはくれない。それはわかっている。だが、怒りよりもずっと違う別の感情が、彼女の表情を包み込んでいるようだった。
「鴉……ここまで感謝する」
真っ先に口を開いたのはカタナだった。
周囲の血なまぐさい光景には目もくれず、彼女はただ私の目だけを見つめていた。おもむろにしゃがんで視線を合わせてくる勇敢の剣は、私が思っていたものとは違って、小さなマッチの灯のようだった。
「やっと追いついた」
彼女は言った。
私に対してではない。
「待たせてすまない、『サヤ』」
その目は今にも泣きだしそうなものだった。




