17.念願の味
我ながら食い荒らしたものだ。
神殿で暴れて以来、ここ数日我慢してきた甲斐があった。
何の罪もない神殿の者たちを喰い殺した時よりもずっと、心は晴れやかだった。こいつらは不幸者だったのかもしれない。悪事に手を染めねばならぬ事情がある不運な者たちだったのかもしれない。
だが、そんな事はこいつらの犠牲になった獣人たちには関係がない。
不幸の連鎖は私が止めよう。
この世界にはびこる密猟者という密猟者を狩り尽くしてしまうのもいいかもしれない。
その前に、殺すべきは二人の人物。
全ての仲間を喰い殺されてなお、逃げる気配も見せない鬼族の兄妹――鳳と凰だ。
『怪物……』
母国の言葉で彼らは呟く。その意味だけが私の頭に響いている。
『これが、神龍と同等の女王。新たな大神の忌まわしい姿というわけだ』
『兄さん、下がっていて』
手負いの凰が前へ出ようとしたが、すぐに鳳がそれを阻止した。
『下がるのはお前の方だ。その身体ではいつもの調子が出ないだろう』
『傷が治るのなんて待っていられないわ』
凰はそう言って、兄の顔を見つめる。
『死ぬ時は一緒よ、兄さん』
きっと不幸な兄妹だったのだろう。
だとしても、同情する事が出来ない。だってこいつらは丹を殺したのだ。こいつらは私を追い詰めたのだ。悪魔のしもべに堕ちる決心をしたのは私自身。だが、その引き金を引いたのはこいつらだ。
勇敢の民よ。恨むならばこの異国の不幸な兄妹も恨むがいい。
じりじりと迫れば、鳳も凰も身構える。逃げる気なんて本当に何処にもないようだ。彼らは彼らで散りたいのだろう。
走り出せばすぐに凰が魔術を駆使して反応した。私の動きを止めるべく鬼族の恵まれた妖力を存分に使って抵抗しようとする。傷を負わされたせいか、その動きは前よりもやや粗い気がした。一方、鳳もまた長刀に妖力を這わせてから私の動きを見張った。一度でも斬られたら、きっと耐えがたい苦痛が私の動きを止めるのだろう。
腐っても鬼族であるのだから当然だが、先に食い散らかした彼らの仲間たちと比べて動きは格段によかった。これが聖域に踏み込める魔物と呼ばれる所以だろう。
しかし、今の私は聖域の中を闊歩する怪物。
これがあの鬼族なのだろうか。ずっと恐れてきた絶対的捕食者の動きなのだろうか。呆れるほど二人の動きが遅く見えた。どの攻撃も私には当たらない。仮に当たりそうになったところで、姿を見せぬ紅が助力によってその攻撃を無効にしてしまう。
こんな私にどうやって勝つつもりなのだろうか。
いや、むしろ負けるつもりなのだろうか。
彼らにとって世界は闇だろう。悪事に手を染めねば殺される国。聖樹を失って魔物に支配される国でどうにか生き延びる民。ひょっとすれば彼らの鬼の血は比較的最近混じったものなのかもしれない。聖域を奪われれば魔物に媚びへつらうことでしか生き延びられなくなる民ばかりなのだから仕方ない。
彼らにとって光は味方だっただろうか。誰も助けてはくれなかった。だから、家族の為に悪に傾倒し、我が国を荒らしていたのだ。だが、この二人が特別なわけではない。こんな者は沢山いる。勇敢の国の王が頭を悩ます原因の一つがこの者たち。聖域を失うとはこういうことなのだ。
強い者が奪い、弱い者が奪われる世界。
けれど、聖域などあっても、悪意は伝染して我が国を侵した。
聖樹は丹を守ってくれなかった。魔物から多くの人々を守ってくれているとしても、その守りに血は通っていない。悪意の犠牲となった民の一人ひとりに涙を流すようなことはしないだろう。その役目は娘のサヤが担っていたのだから。
そのサヤすら、今は私のものだ。
聖樹などいらない。私が聖樹の代わりになればいい。この国の者たちを導き、旧夢幻の者たち――饕餮の傘下どもに負けない強国にしてしまえばいいのだ。ああ、天使の舞い降りる以前の国に戻してしまおうじゃないか。大神の夫婦が守っていた時代に戻して、弱い人間たち全てに大神の血を混じらせて強い民にしてしまおう。
これまでの世界を変えるのだ。
その為に、私は怪物にでも神にでもならなくてはならない。
その為に、私は紅ともっと同調しなければならない。
その為に、私はもっともっと生贄を喰い尽さねばならない。
今、手に入れられる最高の生贄は何だろう。答えはこいつらだ。目の前で無様に戦う鬼族の兄妹。彼らを仕留めて食い荒らせば、怒りに満ち溢れて紅の力をもっともっと引き出せるだろう。
丹の仇を取るのだ。
この者たちに恨みを晴らす日が来たのだ。
『凰っ!』
一瞬の隙を見せた凰の姿を見逃したりはしなかった。手負いなのが悪かったのだろう。疲れもあったのかもしれない。彼女が足をもつれさせて転ぶより先に、私は鳳のことなど無視する形で凰へと迫り、その腕に思い切り噛みついた。
『い……痛いっ! 痛い――』
悲鳴を上げる彼女の声が心地よくて私は更に絞め上げた。
我慢して声を押し殺す様もなかなかいいものだ。
やっと捕えた獲物を引きずり満足していると、鳳が我に返って長刀を片手に襲いかかってきた。
『このケダモノ! 妹を放せっ!』
だが、大人しく斬られてやる優しさなどなかった。
凰の腕をくわえたまま、私は軽々と大地を蹴って跳ねながらそれを避けた。そして、着地と共に鳳の見ている前で、妹の身体を地面に叩きつける。強過ぎる衝撃が魔力に頼りっぱなしの鬼族の小娘の身体を痛めつけた。しかし、手加減してやるものか。怯んでいる隙に腕から牙を離すと、すぐに無防備な足へと爪を伸ばし、そのまま腱を切ってやった。
血が地面を汚す。いい香りがする。今すぐに食べたい。
『やめろっ! 凰! 凰、しっかりするんだ!』
『……兄さん』
泣き出しそうな情けない声。
この小娘が丹を殺したのだ。忘れてはいない。彼女の犠牲になったのは丹だけではないだろう。やけに手際の良かった様子を見れば分かる。
そんな彼女が自分の終わりを感じて震えているなんて。
『兄さん……助け――』
滑稽なものだ。
『いや……いやあああっ!』
服を引き千切るのと肉を引き千切るのが同時だった。
引きしまった肉体と不可思議な味の血は、食べ応えがあるものだ。もがき苦しむ彼女を見逃してやる気になる前に、その味への執着が生まれてどうしようもない。逃れようと動かれれば動かれるほど、楽しささえ感じた。
もはや私は人ではない。ただの狼だ。
『凰っ!』
ようやく兄が動揺から立ち直る頃には、凰はすっかり大人しくなってしまっていた。お陰で加えながら攻撃を避けるのも楽なものだった。
今更私を貫いたとしても何にもならない。
凰はもう助からない。助からない状態で生き永らえている。
私にとっては美味い肉の塊でしかない。
そっと獲物の身体を地面に置くと、私は鳳を振り返った。怒りと混乱、恐れと悲しみと憎しみ、あらゆる感情の虜となった異国の青年が、まさに鬼の形相で私を睨みつけていた。
『化け物……』
長刀を構えなおして、勇者のように飛び掛かってくる。
『覚悟しろっ!』
今の私は勇敢の剣にしか倒せない。それをきっと誰よりも分かっていたはずの亡国の子が、私の命を刈り取ろうと怪しげな武器を手に挑んできた。
愚か者がそこにいた。




