16.亡国の人々
夕空は月下まであと少しと言う場所にある。
栄えた町が少しばかりあるだけで、あとは夕日の映える平原や森林が広がっているばかりだ。切り開かれた平原には家畜が放牧されているが、野生動物も多少は暮らしているらしい。家畜も野生動物も、ありふれた獣から魔物との混血まで多種多様だが、荒れているという印象はない。
美しく、穏やかなものだ。
以前も丹と共にこの場所へと訪れた事がある。月下から旅立って初めて目にする異なる風の吹く土地。同じ聖域の中にありながら、ここまで特色が変わるのもきっと、深い森林が町と町を阻むためだろう。
月下と此処は違う。此処では永久に夕焼けが続くのではないかと思わせる不思議な雰囲気がある。この神秘さと静かな衝撃は、初めてこの地へ来た時と同じもの。あの時からこの場所は何も変わらない。
変わらないはずなのに、風の匂いだけこうも違うとは。
丹の毛皮を被ったまま、私は風の吹くまま丘より平原を見つめていた。平原は一望するだけで何がいるのか分かる。私の視界にいるのは、許された時間の中で慎ましく生きているだけの家畜と、守られぬ世界で自由にそして忙しなく生きている野生動物だ。
その中に人はいない。人と分類される者はいない。
家畜の主人らしき者すらいないのは何故だろう。
風の匂いに訊ねながら、私の視線は導かれるように平野の脇に広がる森林へと向いた。あの場所から怪しい風が吹いているような気がするが、気のせいだろうか。
紅に背中を押された気がして、私は駆けだした。
どちらにせよ月下に行くには丁度いい。森林を通りぬけよう。
(駄目)
力のないサヤの声が私の頭で響いた。
(怖い)
たどたどしい言葉だ。奪った当日のようにきちんと喋る事すら出来なくなっている。そのうちに果実らしく言葉すら失ってしまうのかもしれない。
(カタナ)
そうならない内に、彼女としては勇者を呼びたいのだろう。
ならば私はカタナが追いついて来る前に、やりたいことをやるだけ。紅の希望が叶うかどうか等はどうでもよかった。どうせいつかは滅ぼされる運命にあるのなら、溢れる怒りのままに無念を晴らしてやろうじゃないか。
森林に入る頃には、私の心は炎のように燃え始めていた。
風の匂いが伝えてくる。この道を選んだのは正解だったと。走れば走るほど強まって来るのはこれまでにはっきりとは嗅いでこなかった臭いだ。そして狼の耳に届くのは、悲鳴と懇願の声。
誰かが何かに襲われている。
命乞いをする青年と、笑いながらそれを聞かない何者かの声が私の足に力を与えた。
そして、ようやくその光景は見えてきた。
「お願いです。どうか、どうか、命だけは……」
乱暴に拘束されながら必死に願っているのは、恐らく牧童だろう。平原に野放しとなっている家畜たちの面倒を見ていたものかもしれない。やけに黄色い髪の色は異国の者の特徴にそっくりだが、顔立ちは完全にこの国の民のもの。
ああ、彼の正体が分かってしまった。
理由は取り囲んでいる者たちの顔ぶれにある。
「目的はお金ですか? お金なら払います! 安月給でたいした額はありませんが――」
懐から財布を出そうとする青年を、取り囲んでいる男の一人が蹴飛ばした。見覚えのある顔だ。奴は恐らく人狼。
「俺達の目的は金じゃねえよ。だが、そんなにくれてやりたいのなら、貰ってやらないでもない。てめえを始末してからな」
煽るように笑うその声に、青年が悲鳴を上げた。
「や、やめてください! 僕を食べる気ですか? 狐なんてまずいものです! 大神の御方の口にはまだ、純血の人間の方が――」
やっぱり、あの青年は獣人なのだ。
取り囲んでいるのはあの鬼族の兄妹――鳳と凰と、そしてその仲間達。節操がないものだ。だが、一人きりで家畜の世話を任されていた牧童なんて都合のいい獲物だったのだろう。
木々の影から見つめていると、凰が刃物を取り出した。魔術ではない。綺麗に皮を剥ぐ為だろう。逃げる事はもう出来ない獲物の喉をゆっくりと切り裂くために、切れ味のいい刃物を用意していた。
「いや! やめて! お願いです、どうか助けてっ!」
悲痛な声が響いた時、私の身体は自ずと動いていた。
これ以上、黙って見ているのは辛かった。彼の姿はいつかの私の姿だ。紅の手を握らなかったら、散々子供を生まされた挙句にあの恐怖を味わっていたのだろう。ならば、彼を助ける事は、もしかしたらあったかもしれない未来の私を助けるということ。
突風となって私は凰に飛び掛かった。
奇襲は成功した。誰もが獲物に集中し、私の接近に気付いてもいなかった。凰に噛みついて刃物を握る手を噛みちぎろうとする私を、密猟者も被害者も暫く茫然と見つめていた。けれど、凰の血が飛び散り、悲鳴が上がった時になって、ようやく兄の鳳が我に返った。
「こ、こいつ!」
魔術を使う余裕もなかったのだろう。
彼は長刀を抜いて私に斬りかかってきた。
――これが鬼族?
その動きを目にして素直にそう思った。
遅い。あまりにも遅い。刀を避けるついでに彼らの仲間の一人に飛び掛かった。まずは人馬の男。とっさに馬になれれば相当な力を発揮するだろう。だが、馬というものは臆病な生き物。喉に飛び掛かり、牙を突き立てる私にろくな抵抗も出来なかった。彼の血と肉の味が口いっぱいに広がる。久しぶりの肉だ。人でありながら、草食獣らしい味がする。断末魔の叫びも耳には届かなかった。一心不乱に喰い荒らしているうちに、私はやっと仲間の一人を殺せたことに気付いた。
地面に転がるのは肉の塊。
密猟者達は勿論、人狐の牧童も怯えていた。
「ひ、怯んでは駄目!」
凰が叫んだ。深手を負ってはいるが、さすがに鬼族。丈夫さは獣人よりも上らしい。ならば、存分に楽しめそうだ。愉しむためにも、邪魔者は残らず減らしてしまおう。
次に狙ったのは蝙蝠男。獣人だ。彼はとっさに変身して逃れようとしたが、逆に翼を裂いて捕える事が出来た。後はもはや普段の狩りと同じだ。ごく当り前の蝙蝠を捕まえた時のように、噛み砕くだけ。
『シェ……神龍様っ!』
異国の言葉と共に彼の嘆きが頭の中で響いた。
余韻に浸る気にもならず、すぐさま襤褸切れとなった蝙蝠の死骸を吐きだして、私は三匹の狼へと躍りかかった。人狼であって大神ではない男達。生き延びたいばかりに同胞狩りという悪行に手を染めた彼らを私は許さない。
その尊厳ごと引き裂かんばかりに、私は噛みついた。相手も狼となって応戦する。鳳と凰、そして残された仲間の魔族も援護して、私を仕留めようと試みた。
だが、紅の助力を得ている私に敵うはずもない。
鬼族の魔術は紅の怪しげな力で消され、仲間の援護もことごとく空振りに終わった。そうこうしている内に、狼男共は一匹ずつ私の牙の餌食になった。その血と肉の味を知る日が来るなんて考えられただろうか。同胞食いだなんて堕ちたものだ。しかし、私は愉しんでいた。死んだ男の肉を貪って、その味を確かめながら次なる獲物を探していた。
「ひ、ひいいっ! 誰か、誰かあっ!」
牧童が何とか立ち上がり、這う這うの体で逃げ出していった。彼は見逃してやろう。何も関係がないし、私を邪魔するつもりもないようだ。人を呼んで戻ってきたりでもしたら、その時は喰ってやろう。
『くそっ、こいつ!』
勇敢の国の言語をすっかり忘れて生き残った密猟者が飛び込んできた。
こんなにも辺りを血の海にしたというのに、それでもまだ私を殺そうと飛びこめるのは何故だろう。それほどまでに祖国に尽くしたいのか。それとも、私に喰い殺される方がましだと思うほどの仕打ちが待っているのか。
分からないまま、私は迎え討った。




