15.未完成の怪物
月下まであとどのくらいだろう。
大罪を犯してから、何度日が昇り、何度日が沈んだのか分からない。
食欲を抑えて何も喰わないで走り続けているせいもあって、いつまでも走り続けるなどということは不可能だった。
町と町の境すら分からないような自然の中を私は身も心も狼となったまま進んでいた。森林で出会う鳥獣たちは、私の正体を分かっているかのように警戒した。彼らにとっても聖樹に守られるこの場所の居心地はよいのだろう。
私は勇敢の国に住む全ての生物の敵だ。
分かっている。そんなことは。分かっている。私自身も分かっているのだ。こんなことはいけないのだって。紅に流されるままに進めば、私はいつか気が狂う。そして呪われた果実を利用して聖樹に牙を剥く悪魔となるのだ。
そんな悪魔となった私を丹は受け入れてくれるだろうか。
――くれるわけがない。
分かっている。分かっているのだ。こんなことを続けても、私は幸せになどなれない。しかし、どうしたらいいのだ。進まねば密猟者達は家族に手を出してしまう。丹の無念を晴らし、残された家族たちを守るためにも奴らは殺さねばならない。
その為には鬼族に敵わなくてはならない。
(復讐……)
サヤの声がはっきりと頭の中で響いた。
(不幸が、不幸で塗り替えられる)
どうしろというのだ。
(神は望んでいらっしゃらない。カタナ。私を殺して)
私はどうしたらいいのだ。
神は何を望んでいるのだろう。この世界の為に、家族に犠牲になれと言うのだろうか。月下に向かっている密猟者達を裁いてくれないのは何故なのだろう。私の両親が、妹たちが、何をしたと言うのだろう。
丹が何をしたと言う。明松の家族が何をしたと言うのだ。
これが神の試練だというのなら、私には重すぎる。大神の誇りをかけた戦いだというのなら、私には厳しすぎる。
「白椿」
動けぬ身体を木々のひしめき合う影に横たえていると、鼻先を紅の手がそっと触れていった。不快ではない。彼女はすっかり私の一部だ。
「あとほんのもう少しよ。いまにあなたの気持ちはすっきりする。勿論、それで終わりではないわ」
「聖樹を枯らすのか」
動くのもだるいなかで応じると、紅は私の頭に頬をくっつけてきた。
「元気がないわね。きっと栄養が足りないのよ。果実の力を使うだけでは駄目。ちゃんとその欲望を満たさないと、あなたは明松のようになってしまう」
「満たしたら、の間違いじゃないのか」
目を閉じれば、優しく身体を撫でる紅の手の感触と共に、サヤや明松の顔が浮かんだ。走り続けた末に力尽きて倒れる度に、私は明松やサヤのことを夢に見た。きっとこれは記憶だろう。彼女たちの濃淡な記憶が夢となって私に訴えてくる。
二人とも不安定な記憶だった。
得体の知れない恐怖に押しつぶされそうになるサヤの日常と共に、殺せば殺すほど狂って行く明松の崩壊した日常が混ざった状態で圧し掛かってくるのだ。
人を殺すという異様な欲望に狂わされた明松は、欲望に忠実になればなるほど心を崩壊させていった。歯止めが利かなくなり、ついには自分のことさえ分からなくなっていった。私に喰い殺される時は実に幸せそうだった。幸せだったのかもしれない。あまりの痛みに悲鳴をあげつつも、幸福の気持ちは手放したりしていなかったのだから。
「私は……」
この手に残る濃厚な死の感触。
私の牙で少しずつ削られていった命。
密猟者の一人や神殿の大勢の者たちを殺した時にはなかった気持ちの悪さが、今もずっと残り続けている。
怯えもせずに殺されていった明松はそれほど異様だった。
「私は、ああはなりたくない」
頭を抱える私を紅は抱きしめる。
「あなたは果実を得た。聖樹を枯らしても枯らさなくても、すでにあなたは神様のようなもの。領地を奪われた大神よりもずっと力のある神様よ。『唯一の神』と聖典に記された聖樹の神よりもずっと確かに存在することが出来る神様となったのよ」
「私は私のままでいい。これ以上の絶望を振りまいて何になるのだろう。それに、復讐を果たしたら、カタナに殺されたって――」
言いかけたところで紅は私の口を塞いだ。
「言霊は恐ろしい。それ以上は言わせないわ」
冷たい声が私の耳に届いた。
だが、その手の動きは優しげなままだ。
「白椿。あなたが可哀そう」
紅は言った。
「あなたは怪物になりきれていない。不幸が私を呼んだだけで、本来はきっと何も知らずに安穏と一生を終えるような民に過ぎなかったのでしょう。私と縁を得た者の中でも、あなたは恐ろしく純粋で真っ直ぐな人。善人でありたいという気持ちを、果実の主となっても捨てきれないままだなんて可哀そう」
寄り添う紅の香りが心地いい。
「あなたは何も悪くない。悪いのはこの世界。そう思ってしまえば、あなたは狂ったりしないわ。ねえ、白椿。あなたは怪物であり、新しい世界の神様なの。新しい世界ではあなたの行動が善となる。だから、怯えなくていい。あなたは明松のようにはならない。神龍やエルリクのように――」
(やめて!)
頭の中でサヤの悲鳴があがる。
音が反響しあって頭痛が生まれた。
紅を受け入れる私を引き留めるかのように、サヤが心を揺さぶってきた。
(不幸になってしまう……あなたが……)
たどたどしい言葉が伝わってくる。
(満たしても満たしても……満たされない存在に……)
脅しているのだろうか。それとも、心から私を心配してくれているのだろうか。甘いことかもしれないけれど、思い出すのは中庭で初めて出会った時のサヤの姿。赤い礼服につつまれた神秘的な少女。私を怖がらず、真意を受け止めて話を聞いてくれようとした、心優しい巫女の姿。
私が殺した。
私が、私が、殺してしまった。
欲望に導かれるままに、全てを紅のせいにして、私が――。
「後悔してもあなたの為にはならない」
ぎゅっと紅が抱きしめてくる。
「果実の言葉なんて聞いては駄目。それは悪魔の実でもある。この世を惑わす万能の実。惑わされればあなたは滅んでしまう。これでいいの。これでいいのよ、白椿」
これで、本当にいいのだろうか。
分からない。分からないまま、時間ばかりが過ぎて行く。
私は何処へ行けばいい。目を閉じれば答えは果実が教えてくれる。匂いなど届かないほど遠い場所で、私の追跡を感じている悪人どもの姿が見えた気がした。
これで、本当によかったのだろうか。
すっかり汚れてしまった丹の毛皮は何も答えてくれない。どんなに泣いて縋っても、彼は私を叱り飛ばしてもくれないのだ。
これで、本当に――。
「よかったのよ、白椿。そう思うしかない。あなたはそう思うしかない」
紅に抱かれながら、私は幻想を見た。
復讐の果てに待っているのは地獄かもしれない。しかし、この偽りの天使ならば死後も私を騙してくれるだろう。丹と共に溜め息の漏れだすほど平和な野山で暮らす夢を見せてくれるかもしれない。傍らには、私と丹の子供等がいて。
「私はあなたを見捨てない」
紅は言った。
「あなたがいつか私の手から零れ落ちてしまったとしても、この翼で心を守ってあげるわ。それが私の為にその心身を捧げた者への償い。聖戦に散った者への癒し」
その手が触れると頭に浮かぶのは地名だった。
月下までどのくらいだろう。あと二つか三つかは町を越えなくてはならないはず。だが、運命の場所は不思議と伝わってきた。私は成し遂げるだろう。この復讐を果たし、怒りをぶつけて念願の血と肉を手に入れるだろう。
それで、私は満たされるのだろうか。
答えはきっともたらされない。
一生分からないまま、私は潰えてしまうだろう。




