14.絶望の日
私は何人殺しただろう。
咳き込みながら吐き出せば、出てくるのは血と肉ばかりだった。紅に背中をさすられながらその場に伏せると、左胸が異様に熱く感じた。
私は手に入れた。手に入れてしまった。黄金の果実の主人になってしまった。
丹の毛皮も、自分の身体も真っ赤な血に染めて、この身体の隅々にまで勇敢の剣カタナの味を覚えさせてまで、私は大罪人になってしまった。
(カタナ……)
頭の中で声が響く。
(助けて……)
サヤの声だ。死にたがっている。彼女の肉体は死んだ。私が好きなだけ汚してしまった。その血と肉の味は素晴らしかった。たぶん、吐きだしてしまったけれど、不満なことは一切ない。可能ならばもう一度味わいたいほどだ。
しかしもう出来ない。彼女の肉体は死んだ。カタナと違って滅んでしまうのが巫女なのだ。それでも、魂は死んでいない。彼女は私の中にいる。私と言う檻のなかで助けを求め続けている。
絶望しているだろうカタナが来ると信じている。
「サヤ……今はもう私がお前の主だ。私に馴染め……」
彼女の絶望が私の身体を苦しめている。
神殿から距離をとればとるほど、その嘆きの声は強まっていくようだった。時折倒れ伏して吐く私を、紅は何度も労わってくる。
「焦らないで、白椿。すぐに追手はこないわ。来たとしても私が守ってあげる。あなたさえ私を求めてくれれば、怖いものなしよ。あなたも神龍やエルリクのようになれる。私がならせてあげる。だから、私を信じて、心と身体を休めなさい」
「果実が嘆いているんだ。私を拒んでいる。カタナが来てしまう。それが……とても怖い」
あんなに弄んだ勇敢の剣が、今は怖かった。
この世で私を殺せるのはあの女だけ。サヤの言葉が通じているのなら、きっと全力で殺しに来るだろう。それが今は怖かった。
――丹にはもう会えたのに。
動く事も出来ないまま丹の毛皮を抱きしめていると、神殿で聞いた悲鳴の一つ一つが頭の中で甦った。
今もきっと神殿の中では悲鳴が溢れているだろう。
私の犠牲になったのは何人だっただろう。私は何人の命を犠牲にしたのだろう。血と肉にしか見えなかった彼らもまた、私と丹のような民であった。丹を奪われた私が嘆いたように、あの場で嘆いている者も沢山いるかもしれない。
虚しい。この虚しさはなんだろう。せっかく願いを叶えたのに。
「いいえ、あなたはまだ願いを叶えきってはいないわ」
紅が囁きかけてくる。
「あなたは復讐を果たしていない。まだ間に合うわ。月下に向かっている密猟者たちを追いかけるの。家族に手を出される前に殺すの」
「……ああ、そうだった」
早く追いかけなければ。
奴らの息の根を止めて、家族を守らなくては。
そして、その後は……その後は、何をしたらいいのだろう。
「大丈夫よ、白椿。奴らはそんなに遠くにはいない。私の力で追いつかせてあげる。月下に辿り着く前に、あなたはあの人たちに追いついて、復讐を果たす事になるでしょう」
「紅の……力で……」
「ええ。その後はあなたの好きになさい。黄金の果実の力を存分に体感すればいい」
(いや)
紅の声に重なる形でサヤの声が聞こえてきた。
(カタナ、迎えに来て)
大人を求める子狼のように吠えている。左胸をそっと抑えれば、反応するように熱さが生じる。この中にサヤがいる。この国の命運を背負った巫女の魂が封印されている。これが果実。聖樹を枯らしてこの世界を変えてしまう力を秘めている魔性の実。この世に存在する殆どの呪いは、この果実が実現してくれるだろう。
――ともすれば、丹を甦らせることだって……。
(駄目)
強い反発に身体が苦しくなった。
(解放して)
泣きながらの訴えが苦しい。
紅の手を取って以来、捨て去ってしまったと思いこんでいた良心が甦って来たかのようだ。私の心は引き裂かれよう。いったい、何人の命を弄んだというのだ。悪魔の言いなりになって、自分の為だけに暴れた末に何が残されただろう。
私は丹に相応しくない。
どうせならこのまま大神の名を捨てて、化け物らしく生きてやろうじゃないか。
「紅」
怒鳴るように私はその名を唱えた。
「私を導いてくれ」
切羽詰まった咆哮。自分でも焦りと恐怖で一杯だとよく分かる。
私はきっと紅の思惑通りの器ではない。エルリクにも、饕餮にも、ルマカカにさえもなれずに朽ちるだろう。
カタナが私を殺しに来る。私に汚された巫女の命を奪いに来る。巫女が望むとおりに、自ら死へと飛び込もうとするのだろう。
怖い。だが、避けられない。どうせ避けられないのなら、せめて、この復讐だけは果たしたい。丹を奪われた私自身の為にも。
「奴らは何処だ……私は何処へ向かえばいい……」
「おいで。私と繋がっていればあなたは迷わない。疑いは捨てなさい。今は勇敢の剣だけを恐れればいい。彼女以外にあなたを阻める者はいない。神は猶予を下さった。あなたの復讐は成し遂げられるわ」
強い言葉に身体が疼く。
紅の翼を拒まずに受け入れれば、瞬く間に道が頭に浮かんでくる。
(嫌)
果実が私の中で悲鳴をあげる。
その悲鳴が引き金となって、私は走り出していた。きっと今は狼の姿をしているだろう。この国の中で何者よりも醜いケダモノの姿となっているだろう。
血に飢えている。肉に飢えている。
聖地で味わった禁断の果実の味はとうに過去のものとなった。今はただ欲を満たしたい。誰でもいい。何者でもいい。しかし、どうせなら憎いあの者たちにぶつけよう。罪なき血ならば神殿で十分流してしまったのだから。
「無理をしては駄目よ」
走り続ける私の頭の中で紅の声が響く。
「あなたに必要なのは血と肉と魂。とりわけ、愛する人を取り戻したいというその執着に必要なものは肉。我慢は毒よ。喰らい尽くしなさい」
およそ天使とは思えぬ助言だ。
なに、今更の事だ。こいつは悪魔なのだ。悪魔として私に近づき、悪魔としてその手を伸ばしてきた。そして私は悪魔と分かっていながら従った。この先に待っているのは地獄でしかないのだろう。
それとも、この世とは善悪の判断すら曖昧なものなのだろうか。
正しき者が無様に殺され、悪しき者が生き延びるようなこの世界は、はたして本当に神が見守る世界であるのだろうか。
聖域は何から人間を守っていたのだろう。
魔物など弾いたところで、この世には悪が満ちている。たとえば、殺人鬼の明松のように。たとえば、明松を不幸にさせた男のように。たとえば、密猟者のように。たとえば、罪なき人々を殺していった私のように。
「私は怪物だ」
走りながら言った。
「怪物になるんだ」
自己暗示でもしているのだろうか。自分でも分からないまま唱えた。
「そのためにこの欲望は奴らにぶつける。奴らだけにぶつけるんだ」
その宣言が力となったのだろうか。急に左胸が熱くなったかと思えば、四肢に力がみなぎって、走るのが異様なほど楽になった。
月下は遠い。
だが、途方もなく遠いわけではない。
足がもつれるまで走ろう。心臓が悲鳴をあげるまで走ろう。意識が遠ざかるまで走ろう。黄金の果実の嘆きが途切れるまで走り続けよう。
(カタナ……)
声が弱々しくなっていく代わりに、その黄金の力が血潮のように私の身体を駆け廻っていく。こんなにも動くのが楽しかったことはあっただろうか。進めば進むほど、高揚した気持ちに胸が高まり、何故だか泣き出していた。
「丹……」
背負う毛皮は何も言わない。
「丹……丹……!」
もう何処にも居ない夫の名で吠えながら、私は獲物の逃げ道をただ進み続けた。




