表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇敢の剣  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第3部 白椿
49/63

13.人食い狼

 神殿が遠い。見えているのに遠い。

 荒い息と地面に落ちる涎はまさにケダモノのもの。

 私の目はきっと血走っているだろう。

 そのくらい余裕のない状態で、私は聖樹を守る神聖な場所を眺めていた。


 いい香りがする。今すぐに捕まえて食いちぎってやりたい香りだ。美味そうな匂いはひしめきあっている。あの場所の隅々にまで食い物が散乱しているのだと思えば、気が狂ってしまいそうだった。


 ――食い物?


「考えるのはやめて」


 頭の中で紅の声が響いた。


「それよりも御覧なさい。御殿の周りに赤い結界が見えるでしょう? あれが天使を阻む悪しき術。いつの時代か私を信じない魔術師がかけるようになった古い術よ」

「悪魔を拒む神聖な術か」

「何とでも理解すればいい。とにかくあれは私を拒むもの。けれど、あなたなら大丈夫よ。あなたはまだ未来への欲望を溜めこんでいる。明日を生きるだけの気力があるのなら、あなたはあの術によって民と思われ、天使と認識されないわ」

「よく分からないが、つまり問題なく通り抜けられるということか?」

「よく分からないなりに分かってほしい所は分かってくれる。そんなあなたが好き。あなたを選んで良かった」

「悪魔に好まれても嬉しくはないな。そう言われて私が嬉しくなるのは丹だけだ」

「釣れない人。勿論、丹とあなたの間に割って入りたいわけじゃない。よき相棒として、私はあなたを信愛する。それだけよ」


 悪魔め。そう言いながら明松を手放したくせに。もしも私が黄金の果実を手に入れられる器じゃなければ、あっさりと見捨てるのだろう。たとえば、そう、黄金の果実を得る前にカタナに殺されたりでもしたらどうなるだろう。紅は喜ぶだろう。私の死など悼みもせずに、聖剣の主人になれたことを喜ぶ事だろう。

 私は悪魔など愛さない。天使も愛していないのだから。


「まあいいわ。今の私はあなたの無念を晴らしてあげたいだけ。丹の亡骸に触れたいのならもうしばらくその欲望を解き放つのを待ちなさい」


 冷静なその忠告に私は無言で頷いた。


 鼻に頼れば笑みが浮かんでしまうようないい香りを微かに感じる。御殿の何処かに隠されているだろう黄金の果実は、今頃どうしているのだろう。己の命運など分からずにぬくぬくと守られているのだろうか。

 サヤとかいった名前をつけられた巫女。思い出すだけで牙が疼く。早くこの爪を喰い込ませたい。あの子の中に私の求めているものがあるのだ。


 喉が渇いた。血を呑みたい。誰の血でもいい。肉を食いたい。誰の肉でもいい。命が尽きる瞬間をこの手で感じたい。誰の命でもいい。

 あの子の代わりになる者はいないのか。

 聖樹に到達するまで、私は果たして私のままでいられるだろうか。


「騒ぎを起こすのは丹のもとに到達してからの方がいいわ」


 紅が囁きかけてくる。

 その手が私の額を撫でている。今の私は人の姿をしているのだろうか。それとも、狼の姿をしているのだろうか。確認する気にもなれないまま、私はただ高い壁に守られる聖地を眺めていた。


「夜風があなたの味方になる。無能な番犬達は誰も気付きやしない。さあ、おいでなさい。私が導いてあげる。宝物はすぐそこよ。この国の要をいただいてやりましょう」


 紅がそう言って姿を消したちょうどその時、私の頭の中に道が浮かんだ。一本道。感覚を研ぎ澄ませば見えてくる。頼るのは視覚ではなく嗅覚だ。まっすぐ神殿の敷地を侵し、御殿の中へと続いているらしい。


 ――行きなさい。


 そんな声がした気がして、私は走り出した。

 四足で走っているのか、二足で走っているのか、その交互なのか。考えることもなく、私はただ前へと進んだ。夜風が私を導いている。この世界の終わりを望んでいるかのように。走れば走るほど、私の心は躍った。


 黄金の果実の香り。

 近づいている。

 すぐそこにある。

 手を伸ばせば届きそうなくらいに。


 夜風が私を運んでくれる。一心不乱に走り続け、いつの間にか私は御殿へと忍び込んでいた。見張りは少ないわけじゃない。だが、あの足の生えた肉たちはどういうわけか私に気付かない無能ばかりであった。奴らを引き裂いて食い荒らしたい気持ちを抑えて、狂ったケダモノのように目指すはただ一つの場所。私の目には黄金に輝いて見える窓が一か所だけあった。


 あれだ。


 欲しいものが近いと分かったせいか、身体が異様に軽く感じた。早くこの手に抱きたい。そんな気持ちで飛び上がり、楽々と部屋の縁側へと到達した。

 閉まりきった窓の向こうで一人の女が驚いた顔で私を見つめている。

 カタナ。

 何が起こったのかにまだ気付いていない。


「行きなさい」


 紅の声が聞こえると同時に、窓硝子が全て割れた。

 轟音が響いただろうけれど、全く気にならなかった。硝子の破片で怪我をするかもしれないという予測も、私を怯えさせたりはしない。

 私はただじっと部屋を見つめていた。

 この場所には何もかもある。

 紅が求めている二つの宝物も、私が求めているたった一つの宝物も。

 カタナが怯えている。異様な力を感じたのだろう。彼女に戦意はまだない。私の事を危険だとまだ分かっていないのかもしれない。


「白椿……どうして……」


 呟くその声は、何処までも女らしいものだった。

 カタナの背後でサヤが震えている。私の姿の歪さに気付いたのか、小さな悲鳴をあげた。その姿のなんと美味しそうな事か。子羊のように震える彼女を見た瞬間、頭でもぶたれたような衝撃が走った。

 人間共とは比べ物にならない。

 これで分かった。この欲望の原因は黄金の果実の所為だ。

 ゆっくりと部屋へと踏み込めば、カタナが慌てたようにサヤの元へと逃げていった。


「待て、近づくな」


 弱い犬が吠えるかのように「剣」を呼びだして威嚇してくる。

 だが可愛いものだ。相手をしてやるまでもない。


「斬りたいなら斬られてやろう。だが、その前に『彼』に会わせてくれないかな」


 紅に咎められることはなかった。カタナもサヤを背負って、寝台から離れて行く。そのまま逃げる気だろうか。黄金の毛皮が飾られた棚から距離を取っていく。

 別に構わない。邪魔をしないでくれるのなら。

 私の視線は黄金の毛皮へと釘づけになっていた。


「ああ……まこと。確かに君だ……」


 触れてみればその懐かしさに死んでしまいそうだった。頬ずりをすれば、丹の匂いが甦ってくる。


「会いたかった……会いたかったよ、丹」


 どうして神はこの人を私から奪ったのだろう。

 真面目な人だった。悪に走る人狼を許さずに懲らしめるような正義の味方だった。大神の血を引く者として、いつでも弱者の味方になれるよう努めるような人だった。それなのに、どうして彼がこんな姿にされなくてはならなかったのだろう。


「神は平等なの」


 紅が私に寄り添いながら囁いた。


「善人も悪人もない。情で力を与えるのは本物の神ではない。天使の私は本物の神にはなれない。その代わり、あなたにこうして別れの機会をあげられた」


 感謝しろ、と言いたいのだろうか。

 でも、構わない。感謝する。感謝するしかない。紅が力を貸してくれなかったら、こんな機会すら奪われたのだから。


「なんで……白椿……どうして……」


 サヤの声が聞こえてきた。


「彼はあなたを待っていた。愛していると、強く生きて欲しいと。あなたがあなたのままで会いに来るのを待っていたの。それなのに、どうして……どうしてこんな事に」


 彼女には分かっている。恐らく、紅の姿も見えているのだろう。

 絶望している。巫女は信じていたのだ。私が私のまま来てくれると。神を信じ、聖樹を信じ、全てがいい方向へと傾くと信じていたのだろう。

 丹を抱きしめて、私はおもむろに振り返った。この目に映る二人の聖女。神を、聖樹を、天使を、使命を信じて、彼女たちは日常を犠牲にしてきた。そうしてまで守ろうとしてきたこの世界は、本当に美しいものだっただろうか。


 ――どうしてこんな事に。


 丹の匂いは残っているけれど、温もりはもうない。毛皮が語りかけてくれることなんてないのだ。死者は蘇らない。甦らせることが出来るとすれば、それは、目の前で嘆いているあの黄金の果実を手に入れた者だけ。

 大変な罪である。

 丹と共に気ままに生活していた頃は、こんな未来が訪れるなんて思ってもみなかった。


 ――どうしてこんな事に、か。


「私も聞きたいくらいだ」


 声に力が入らない。

 失望と悲しみは飽きるほど感じていた。


「でも、言い訳させて欲しい」


 カタナ。そして、サヤ。この二人には罪はない。悪ではない。嫌いでもない。ただ、運が悪かっただけ。お互いに、神に見放されていただけ。


「仕方がなかった。この女の手を握らねば、私は丹に会えなかった。私は死にたくなかったのだ」


 殺される覚悟もない私が、どうして正義の味方になれただろう。

 私は丹に相応しい女ではない。誇りの為に命を捨てることも出来ず、国の為にこの身を異国に捧げることも出来なかった。


 私はケダモノなのだ。


「だから、許せ……黄金の果実よ」


 私はマモノなのだ。


 開き直りは私に力を与えてくれた。丹の毛皮を被ったまま、私はこの国でもっとも貴重な果実をめがけて飛び掛かった。

 話し合いなんていう甘い考えは吹き飛んだことだろう。

 カタナがとっさに「剣」を構えたらしく、私の一撃は弾かれてしまった。だが、そこからさらに斬りかかるような事はなかった。カタナは知っているのだろう。私を殺せば呪われるということを。悪魔の僕になれば、愛する果実に欲望が向けられる。そうなりたくないからだろう。彼女は巫女を背負って扉を蹴破る勢いで飛び出していった。


「人狼だ! 人狼が侵入した! 皆、起きろ! 逃げるんだ!」


 犬のように咆哮し、何処かへと遠ざかっていった。

 目的は一つしか果たせなかった。


「……腹が減った」


 逃げていくカタナとサヤの背を見送りながら、私は呟いた。そんな私を紅がそっと抱きしめてくる。


「我慢はこれまでよ。好きなだけ食べなさい。全てはこれから神に等しい魔物となるあなたへの生贄。人も、魔族も、男も、女も、ケダモノも、食べられそうなものは全て食べてしまえばいい」

「言われなくても……そうするよ!」


 大声を張り上げてカタナ達は逃げていく。

 その後を追って数歩も動かぬうちに、私の行く手は阻まれた。

 彼女なりに私の危険性を言いふらしているつもりだろう。しかし、勇猛果敢な番人どもは真面目に取り合ったりせずに、むしろ、果実を連れて逃げる聖女の盾になるべく決死の覚悟で突っ込んできたのだ。


「貴様、あの野良犬だな!」


 大した身体付きだ。大した武器だ。恐らくはただの人間ではなく、魔族のいずれかの血を引いている者たちばかりだろう。自信に満ちたその表情から察するに、それなりの猛者のつもりなのだろう。

 だが、恐れる必要は何処にもない。


「サヤ様を狙う悪魔め。この太刀で貴様の首を斬り落としてくれよう!」


 不思議と身体が軽かった。

 たいそうな武器と共に私の命を刈り取ろうと奮闘する男たちの動きがあまりに遅い。まるで喰ってくれと言っているかのような動きに、溜め息すら漏れた。私の毛どころか背負っている丹の毛皮すらも斬らせはしなかった。


 そう長い時間は遊んでいられなかった。一人、二人、三人と間をおかずに首を掻き切り、そのまま息の根を止める前に温かな血と肉を頂いた。もがく感触こそ伝わってきたものの、聞くに堪えない悲鳴は全く耳に入らなかった。辺りに充満しているはずの悪臭も、感じられない。聞こえてくるのは心地よい音楽であるし、鼻に伝わるのはいつまで経っても食欲を掻き立てるだけの美味しそうな香りだけだ。

 美味い部分を殆ど喰い尽すのに時間はかからなかった。

 私の身体は血だらけなのだろう。

 しかし、その穢れを気にしている余裕など、私には全くなかった。


 美味い。人肉が美味すぎるのだ。信じられないほど美味い。これまで喰ってきたケダモノたちの肉とは比べ物にならないほど美味い。

 それなのに、私の心は満たされていない。

 どうしてだろう。答えは簡単だ。今もなお逃げ隠れしているはずのカタナとサヤ。あの二人の残り香に比べれば、今しがた味わった素晴らしい味も霞んでしまう。

 食べたい。

 あの二人の肉を噛みちぎりたい。


「進みなさい、白椿」


 紅が私を誘った。


「あの二人を捕まえましょう」


 それ以上は、じっとしていられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ