12.悪魔のしもべ
大神殿までの道は、さほど短くはない。それなのに非常に長く感じるのは何故か。答えは簡単だ。私の歩みが遅すぎるせいだ。震える足で歩んでは止まる。この近くには私の噂を聞いてさまよう密猟者たちが居たはずだ。けれど、密猟者たちの臭いは全く感じられなかった。鬼族らしく獲物の不吉さを察知して逃げたのだろうか。聖域内に踏み込める魔のつく者の中で最強とも呼ばれる種族のくせに情けないものだ。
じゃあ、何処へ行ってしまったのだろう。
まあいい。果実を手に入れ次第、引き出せる力を駆使してでも居場所を暴いて殺しに行く。どうやって殺してしまおうか。楽しみだ。わくわくする。仲間はどうでもいい。引き裂いて終わりだっていいし、面白みなく喰い殺したっていい。どうでもいい。関心は奴らを率いていた鬼族の兄妹だけ。鳳からやるか、凰からやるか。
――殺したのは妹。誘き出したのは兄。
命を奪ったのは妹の方か。ならば、妹の前でまずは兄を喰い殺してやろうか。ぎりぎりまで死なない程度に喰っていって悲鳴をさんざん聞かせてやろう。その後で孤独を味わわせ、身も心も屈服させてから妹はいただいてやろう。
ああ、それでいい。
楽しみだ。
わくわくする。
だが、ものすごく先の事に思える。
「紅……神殿はまだか」
とぼとぼ歩きながら何処へともなく訊ねれば、透かさず艶やかな紅の手が私を慰める。
「苦しいのね、白椿。だから言ったのよ。あの時、鴉の身体の一部でも食べていれば……」
「いい。神殿にだって肉はたくさんあるじゃないか。暴れなくてはならないのなら、思い切り暴れたい。この欲求をすべて果実にぶつけたい。ああ、勇敢の剣でもいいか」
「勇敢の剣もまた、今のあなたにとっては好ましい獲物でしょうね」
「神殿は?」
「あと少し……と言いたいところだけれど、結界の感覚すらまだあなたにとっては遠い。常人ならば今日中につくでしょうけれど、今のあなたでは明日つけば早いといえるところでしょうね」
「……そっか」
紅の言う通り、あの場に転がっていた肉に口をつけるべきだっただろうか。
だが、あの時はそんな事出来なかった。あの時の心境がいまいち思い出せない。あんなに美味そうな肉を転がしておきながら、どうして手を伸ばさなかったのだろう。命を奪うことまではしなくとも、手や足の一本でも喰えばよかったのに。
――ああ、何を考えているのだ、私は。
血と肉に飢えた心が暴走しているということだけは自覚した。
そんな自分に忌まわしさを感じるや否や、力がふっと抜けてその場に蹲ってしまった。時折起こることだ。このせいでまた私の歩みは遅くなる。
息苦しさは何だろう。
まるで満月の夜の苦しみのよう。
これでは契約した意味がないではないか。
「白椿……自分を苦しめては駄目よ」
耳元で紅は囁いた。
「今の自分に疑問を持てばあなたは苦しむ。あなたは忌まわしくなんてない。新しい世界を作り上げるのだもの。怪物なんかではない」
背中をさすりながら紅は言った。
「あなたを批判する者がいたとしても、私が守ってあげる。あなたを否定するものが立ちはだかったところで、私達の力には敵わない。そうしてあなたは六人目の支配者となるの。先の五カ国のように古い世界を終わらせられる神となる」
「……ああ」
頼りない言葉しか漏れなかった。
以前ならばはっきりと拒絶出来たというのに。
苦しさの狭間に映り込むのは、今まで会ったこともないような人々の顔だ。その中には明松もいる。明松の怨んだ男もいる。誰もがこの国の民らしい顔をしていた。中には大神もいた。それ以外の獣人や魔族もいた。その誰しもの背後には同じ色の翼が広がっていたのだ。赤い翼。ぼろぼろの翼。燃え盛る地獄の業火のようだった。
何故、あの翼が彼らの背後にあるのか。
これは、連鎖なのだ。悲劇は私に継承された。人々の無念が連なり、鎖のように伸びて聖樹を害そうとしている。鎖が繋がれば繋がるほど、悪魔の力は増大していく。悲劇が繰り返される度に、この国の根は腐っていく。
背中をさする紅の手の感触が気持ち悪い。
この悪魔が全ての背後にいる。こいつがいたからこそ、不幸になった人々は存在する。紅の与える力はまやかしのもの。彼女に従う事は、不幸になるということ。
分かっているのに。分かっているのに。
何故、私は進み続けようとしているのだろう。
「行かなきゃ……」
再び立ち上がり、歩み出す私を、紅は決して邪魔しない。
私は尊厳を失った。今はただ悪魔の願望を叶える為の道具でしかない。与えられる餌に釣られて動くだけの家畜。大神の血は泣いている。私を狙い、丹を殺したあの鬼族の兄妹よりも卑しいものとして存在しているのだ。
「考え方を変えなさい、白椿」
紅の言葉が頭に響く。
「その尊厳の根底にあるものは何? あなたの正しさを決めつけているのはあなたが無意識に植え付けられた聖樹信仰の価値観でしかない。神、天使、聖域、聖樹、これらを忘れて御覧なさい。あなたの身体を縛る善悪の鎖。それらは本当に正しいもの?」
「……お前の言葉なんて信じない」
何が正しいかなんて、どうでもいい。
私は丹の愛したこの世界を壊そうとしている。
それだけで十分だ。十分、私は悪だと言える。
「そう卑屈になっては駄目よ。今のあなたは勇敢の国に住む人狼の中でもとりわけ神々しい。きっとあなたの故郷月下で何も知らずにぬくぬくと育っている妹たちよりも、ね」
「――家族」
「あなたが認めなければその力は馴染まない。復讐をしたいのでしょう? 家族を守りたいのでしょう? ならば、私を受け入れて」
正しく生きれば不幸になる。
悪魔の言う通り、密猟者どもが私の家族を狙っているのだとしたら。
「疑うのなら見せてあげるわ。ほら」
そう言って紅は片手で私の視界を遮った。
途端、脳裏に浮かぶのは景色。
ここからそう離れてはいない見覚えのある林道を、見覚えのある憎らしい鬼族どもが仲間と共に黙々と進んでいる。目指す方角は月下のある西側。私を追いかけるつもりはもうないらしい。戦利品らしきものも持ってはいない。
遅れ始める仲間を振り返り、鬼族の兄である鳳が急かしだす。
『急げ。呪いの通りだと、数日も経たぬうちにこの辺りも荒れてしまう』
口から飛び出すのはこの国の言葉ではない。それなのに、何故か私には理解出来た。耳より入りこむ言葉が弾け、中身が漏れだすようにその意図が沁み込んできた。
『奴が本当に新たな女帝となるつもりなら、愛した者を奪った俺達は相当怨まれよう。月下は遠いぞ。死にたくなければ急げ』
『けれど、兄貴。本当に奴の家族なんて捕えられるんですかね? 手ぶらで戻れば俺達も、俺達の家族もどうなるか分かったもんじゃねえ。ひょっとしたら隣のこいつが代わりに毛皮になれ、だなんて……』
彼の言葉が理解出来た時、兄妹の仲間の人狼数名が青ざめた顔をしていることにやっと気付いた。彼らを庇ってか、人馬と思われる男が大将格の鳳へと必死に食い下がっているのだ。
鳳も凰も浮かない顔はしている。
『そうならないために、月下を目指しているんじゃないか』
鳳は言った。
『それに、人馬のお前だって、他人事じゃないぞ。馬の皮だって肉だって、祖国では貴重なものだ。ああ、それに鬼族だって例外じゃない』
溜め息を吐きながら彼は頭を抱える。
『俺達にだって家族がいる。無能だと判断されればそれまでだ。鬼族の骨は魔物にとっては素晴らしい薬になるのだとさ。役に立たない鬼族は、薬にして役に立たせる。それが側近共の考えだ。それならせいぜい俺一人分の価格で家族全ての未来を約束してもらうまで』
泣いているのだろうか。忌々しい。同情なんてするものか。
苦悩する兄を妹もまたそっと窺いつつ告げる。
『その時はわたしも一緒よ、兄さん。二人分ならきっと、一族の未来は守られるわ』
同情なんてしたくない。
真剣な顔の凰に、鳳は微笑みを向ける。静かに首を振って優しく妹を諭す彼の姿が、あろうことか有りし日の丹のものに似ている気がして鳥肌が立った。
『そんな未来、願い下げだ』
彼は言った。
『行こう。神龍様と俺たち全員の未来の為に』
天を見上げ、彼は目を細める。
『なに、悲観することはない。いずれこの国は我らが祖国より荒れる。神龍様の有難味がよく分かるはずさ。だからこそ、貢ぎ物は確実に仕留めるぞ。月下だ。せっかく金を払って買った情報だ。無駄にしてはいけない。大して強くなくとも金にはなる白狼が三匹も隠れているんだ。内二匹は繁殖に出来る。金を産むケダモノだ。全力で捕らえろ』
そこで情景は霞のように消え去った。
今見えているのは何だろう。私は茫然としていた。緑がやけに鮮やかで、光がやけに眩しかった。手を繋いでいるのは誰だろう。見えるもの、臭うもの、聞こえるもの、感じるもの、全てをいちいち確認しなければ何が何だか分からなかった。
――私は、何を見ていたのか。
ようやく首を動かすことが出来て、私はじっと隣に寄り添う紅の顔を見つめた。
「分かった?」
視線は私に向けていない。だが、言葉は矢のように私に向けられていた。
「疑うのをやめなさい。あなたには時間がないの」
「……嘘だ」
否定の言葉はほぼ無意識の中で漏れだした。
「信じない」
信じたくないというのが本音だった。
「信じない。こんなものまやかしだ。幻だ。紅、お前が見せているだけだろう? 手品の力で私に悪夢を与えたんだ。そうだろう?」
「信じたくないのなら、無理に信じる必要はない。でもそれでいいの? 何も信じずに後悔したいの? どうせこの約束は消えないのよ。あなたは私のお人形さん。この世でたった一つの宝物。その事実はどう足掻いても取り消せない。こうなった以上、あなたはどうするべきかしら? お人形になった代わりにあなたは何にでもなれるのよ。それなのに、何に遠慮して我慢しなきゃならないの?」
抗う爪が見当たらない。歯向かう牙も見当たらない。
私はただ頭を抱えて紅の言葉に耐えていることしか出来なかった。
大神の子孫が聞いてあきれる。子供の頃より知らず知らずのうちに積み重ねていった人狼としての自負は全て打ち砕かれている。
私は愚かなケダモノなのだ。
自分の命惜しさに悪魔に手を伸ばしてしまった。
そして、罪悪感のようなものを燻ぶらせながら、少しずつ怪物の道を歩み始めている。化け物になるために、一歩、二歩と歩みを進めてしまう。
これが私の本心。
私は偽善者だったのだ。自分でも気付かなかった。一歩、一歩と進めば進むほど、欲望は更に渦巻き、私のちっぽけな脳髄に残された良心のような塵も消えていく。
紅を信じずに後悔するのか。紅を信じて後悔するのか。
二つに一つ。
ならば、どちらが私にとってまだましな事だろうか。
――姉さん、幸せにね。
命一杯の笑顔で送り出してくれた愛らしい少女たちは誰だっただろう。
――白椿。いつかまた二人で帰っておいで。
微笑みながら送り出してくれた女は誰だっただろう。
――これからは愛する人の為に生きなさい。それが我々大神の幸せだ。
厳かでありながら少しばかりの涙を流して送り出してくれた男は誰だっただろう。
「ああ、そうだ……」
丹を奪った者たちが、さらに私の大切な世界を壊そうとしている。そして私は自分の世界を守るために、それより更に大きな世界を壊そうとしているのだ。
別にいいじゃないか。
神龍もエルリクも聖樹に頼らない国を作った。そこはきっと誰かが生きるのに誰かが悲しみを背負うような世界かもしれないけれど、国としてまとまっていない魔境全体と比べればずっと生きやすい事だろう。
聖樹に守られている方が異常なのだ。
あんなものがなくても、家族は生きていける。いや、私が守ればいい。怪物となった私が好きなだけ守りたいものを守ればいいのだ。丹を守れなかった分、壊したくないものは私が守っていけばいい。
ああ、そうだ。そうだ。そうだ。そうだ。私は怪物になるわけじゃないのだ。私は……私は……私は……私は何になるのだろう。
「あなたは支配者になるの」
紅が囁いた。子守唄のように馴染む声で。
「自覚しなさい、白椿。迷いは捨てて、力に身を浸しなさい。これは天使の力。かつて人々に授けたかった本当の力。私は天使。あなたは天使に選ばれた者。神は迷っておられる。だから、私達で訴えましょう。エルリクよりも、神龍よりも、立派な国を作ってみせましょう。聖樹で守られ、勇敢の剣が犠牲となっていた時代を壊して、もっと理想的な国を作りだすの」
翼が広がり私を捕える。
逃げる気にはならない。抗う気にもならない。むしろ私は求めていた。紅の力が欲しい。もっと欲しい。彼女に選ばれたという自覚をもっと感じたい。黄金の果実が私に相応しいということをもっと教えて欲しい。
「何度でも教えてあげる。黄金の果実はあなたの心臓。そして勇敢の剣はあなたの宝。私と同調すれば、勇敢の剣なんて怖くない。自信をもって突き進みなさい、白椿。あなたが果実を手にした時、私とあなたは固く結ばれるのだから」
罪深い事、などともう言わない。
翼に包まれながら、私は恍惚としていた。
認めてしまえば気持ちがいいものだ。すべての価値観を変えて、紅が正しいのだと信じてしまう事は、今の私にとって恐ろしく気持ちがいいのだ。私は今、苦しみから解放されている。そればかりが自覚出来て、もう歯止めが聞かない。認めてしまえば、楽しいものじゃないか。
自覚した瞬間、反射的に私は走り出していた。




