11.大神であった者
私はもう人狼ですらない。
紅の手に抱かれて眠る人間の少女を見つめていると、無視出来ないほどの食欲が込み上げてくる。度々顔を覗かせるのは、「別に今、喰ってもいいのではないか」という問いかけだった。
滲み一つない肌と柔らかそうな肉がとても美味しそうだ。このように同じ民をまじまじと見つめたのは初めてのことだった。
紅がこの場にいなければ、服を引き千切って口をつけていたかもしれない。そう思うくらい、鴉とかいうこの少女は御馳走に見えた。
血と肉に飢えている。この衝動は何だろう。全ての渇きを満たしてくれるのはただ一つ黄金の果実だけ。聖樹の根元で震えていたあの神秘的な少女こそが私の欲望を叶えてくれる存在なのだ。
あの子が欲しい。
カタナとかいう憐れな番犬が私物化している勇敢の国の宝。
あの子を自分だけのものにしたい。
思えば思うほど左胸が熱く燃えるようだった。血が沸騰するかのような耐えがたい衝動。目を閉じれば瞼の裏には聖樹の前で蛮行に興じる自分の姿が映り込む。ああ、なんて美しいのだろう。血に穢される聖域の色は、まさにこの国の天使の色。
感じれば、感じるほど、息が荒くなっていく。
目眩がしてその場に膝をつく私を、紅が物静かな眼差しで見つめてくる。
「白椿」
その手に抱かれるのは彼女の人形。その身体は異国風の黒い衣で隠されているが、私には分かった。左胸が光って見える。一度この目に焼きつけた赤い天使の印によく似た模様である。逆さまではあるけれど、あれが誰による目印なのかは分かりきっていた。
今や、同じ模様が私の左胸にもある。鴉のものよりも、濃く、深く、歪んだものが。
「苦しいのなら無理をしては駄目よ。今やあなたは私の一番大切な人。苦しくて仕方がないのなら、今すぐにこの子を食べなさい」
意識を失い昏睡状態の少女を差し出され、私は目を逸らした。
じっと見つめていれば、その言葉に甘えてしまいそうなほど空腹が私を狂わせている。鴉。年頃の少女。なんて美味そうなのだろう。明松の全てを奪ったばかりなのに、私の胃袋は奈落にでもなっているのだろうか。
鴉のことは一切見ずに、つばを飲み込みながら私は言った。
「果実を手に入れるまでは、あまり人を食べたくはないんだ」
本当は欲しくてたまらない。
どうせもう後には引けないというのに、何故、ためらっているのだろう。ばかばかしい。でもやはり、無抵抗に眠っている人間の少女を喰い殺すことが怖かった。正気を失っていたとはいえ人間の女性一人を丸々たいらげたというのに、今更なことだ。
それでも、一度嫌になれば頑固なものだった。
「果実を手に入れ、密猟者共を殲滅する。その目的に邪魔な奴らだけを殺そうじゃないか。見た所、その子はずいぶんぐっすりと眠っている。私の邪魔をするようには見えない」
「眠りの魔術はすぐに消える。それにこの子もまた私のお気に入りだったお人形。あなたの力は信じているけれど、あまり舐めていると痛い目にあうかもしれない。眠っている今だからこそ、手を抜くべきではない」
紅は怪しく目を光らせる。
「喰い殺さなくてもいい。それなら眠っている内に手足を使えなくしておきましょう。誰にも見つからない食糧庫にでも生きながら隠して、食べられるのをただ待つだけの子にしてしまうの。そうした方がいい。あなたの為よ」
ほら、聖典の天使がこんな事いうものか。やっぱりこいつは悪魔だ。悪魔だという私の勘は正しかった。おかしさと気味の悪さで苦笑しながら私は答えた。
「せっかくの提案だけど気が乗らないな。どうせ果実を得てしまったならば、その子に抵抗する力なんてないのだろう? それならもういいじゃないか。それより、早く行こう。私を導いてくれ。黄金の果実――サヤが私を待っているのだろう?」
「白椿」
と、紅が急に冷めた声で私を呼んだ。
「あなたまさか鴉をわざと生かしておこうと考えていないでしょうね?」
その冷ややかな眼差しが怖かった。
絶対的な上下関係が刻まれそうになる。左胸に感じる熱さが酷くなり、見えない手綱を引っ張られているかのようだ。
動揺を隠し、私は表情を変えずに答える。
「まさか。そんな意味のない事をするわけがないだろう」
ただ、早く先に進みたいだけのこと。
大神殿では丹が待っている。死の別れをきちんと告げて、詫びよう。丹は死んで大神となってしまったが、私はおそらく違う。今後、丹とはもう二度と交われない。私は紅に抱かれて、どこまでも不浄な怪物となるのだから。
その為にもぎ取るべき果実があの場所にいる。
勇敢の剣に寄り添われながら、私を信じて待っている。
なんて無垢な娘だ。愛おしくて仕方がない。今すぐにこの牙で貪り尽してやろうじゃないか。この国のすべてを哀れむようなあの巫女は、どんな顔をするだろう。泣きながら私を罵るだろうか。汚らわしい化け物と拒絶し、私を呪うだろうか。
――勇敢の剣は?
あいつはどんな顔をするだろう。
不完全な大神ながらに私を威嚇するだろうか。ああそれとも、眠っていたケダモノの血が目覚めて、聖獣へと変身でもするだろうか。
私を殺せばあいつが次の罪人となる。
不思議なものだ。いまや私はそれでも構わなかった。そうなれば私は私の家族を守る事が出来なくなるはずなのに、どういうことだろう。
――そうか、私は騙されたのだ。
「とんだぺてん師がいたものだな、紅」
「あなたの考えの流れは今や私のもののように分かる。言わせてもらえば誤解よ、白椿。私はあなたが思っているような存在ではない。私はただあなたに出来る事をしただけ。その上での変化はあなたの責任によるもの。恨まれる覚えはないわ」
鴉を抱きしめたまま、紅は言った。
「恨んでなんかいないさ。お前の言葉に耳を傾けた私が悪い。だが、お前の思う通りにはいかない。私は私の意思で果実を奪い、復讐を果たしてやろう。どんなに殺されていいと思ったとしても、別の者にこの座を譲るものか。況してや、勇敢の剣だなんて」
「果実を奪う前ならば、あなたの心はカタナに宿る。あなたの魂は彼女に引き継がれ、成し遂げられなかった願いもまたカタナの行動を制御するの。果実を奪う前ならば、カタナに殺されるのも悪くはないことよ」
「それはお前にとって、だろう?」
ちらりと紅を見てみれば、異様に赤い目がこちらを見つめていて鳥肌が立った。今や私もまたあの姿のようにおぞましい存在と成り果てているのだろう。だが、今しがた異形の者になったばかりの民と生粋の化け物とでは程度が違い過ぎる。
紅はやはり恐ろしい悪魔だ。それでも恐れる必要は何処にもない。
「果実を奪った後に勇敢の剣に殺されれば聖典の通りだ。民は安心する事となり、世界は何事もなかったかのように新しい果実と勇敢の剣を生みだす。悔しがるのは新しい世界を作ろうとしたお前だけ。だが、紅よ、私は別にそれでもいいのだ」
「どういうこと?」
「果実を奪い、復讐を果たした後でなら、聖樹を枯らす前にカタナに襲われたって構わないってことさ。どうせこの世には丹はいないのだ。生き返らせる事が出来るだと? そんなもの、まやかしだ。丹がそっくりそのまま戻って来るわけではない」
「約束が違うわ、白椿。ああそれに、そんな大口よく叩けるものね。せいぜい言っていなさい。どうせ後々あなたは思い知る。契約はね、違反しようとして違反できるものではないの。私達の間の交わりはあなたの気持ちで変化するものではない。あなたは民から外れた者。段々とその意味が分かっていくことでしょう」
声を荒げて怒るわけでもなく、紅は笑いながらそう言った。その姿は妙に妖艶なもので、単なる強がりになどは思えないものだった。
「まあ、何にせよ」
と、紅は鴉をそっと地面に寝かせて言った。
「あなたが果実を望むのなら、これ以上は引きとめたりしない」
笑みを変えることなく紅は私を見つめる。
「おいで、白椿。私の可愛いお人形さん。あなたに永遠を約束してあげる。その身体に忘れられない程の悦楽を与えてあげる。この世の美味を詰め込んだ黄金の果実こそが、私があなたにあげられる情の証。行きましょう」
伸ばされる手に、私は素直に従った。
触れればすぐに強い力で引っ張られる。
「地獄の果てまでずっと一緒よ」
呪いの言葉が何故か心地よいものだった。




