10.悲劇の継承
鴉。変わった名前だが、どうせ本名ではない。
魔術師というものは故郷にもいた。花の名前だの鳥の名前だの、色の名前だの虫や獣の名前だの、様々な単語を名前として使用し、その身元はいつだって羽衣に包まれているものだった。
彼らはいつだって胡散臭さがまとわりつくもの。
妖力を持たない人間にすら手品の力を与えることが出来る魔術を人に広められるような存在なのだから、胡散臭くて当り前なのかもしれない。
鳳と凰。憎きあいつらの名前も、たしか古の夢幻の国の言葉で鳥を意味していたはず。同じ流れをくむ魔術師ならば、憎らしい気もする。
それでも、私は鴉の言っている事を信じてはいた。
本当に神殿から来たのだろう。そんな臭いは確かにしたのだ。カタナと、そして、愛らしい巫女の香りは確かに彼女と共にある。
本当にカタナやサヤから頼まれて、私を呼びに来たのだろう。
心配していた、と言っただろうか。ああ、他人を心配している場合だろうか。
必死に止めようとする使者の存在など無視して、私は目の前に座りこむ半裸の女を見つめながら、大神殿で呑気に私を待っている愚直な聖女たちを哀れんだ。心の伴わない哀れみだっただろうけれど。
「……明松」
声にならぬかならぬかの狭間で私は与えられた生贄の名前を口ずさんだ。
明松というその女の心は崩壊していた。私に喰い殺されることで天国に行けるとでも思っているのだろうか。紅を天使様と呼び、その言葉に従順に振る舞う忠実なしもべ。それなのに、紅はこの子を解放しろと私に差し出した。
とんだ悪魔がいたものだ。
明松の身体を引き寄せて、その肉の感触を確かめた。
柔らかい。生肉だ。まだ生きている。生きている温もりを感じる。生きている鼓動を感じる。でも、すぐに止まる。死んでしまう。私に委ねられている。獲物は逃げたりしない。心が先に死んでしまっているから、逃げる事も出来ない。
この女は、未来の私の姿なのかもしれない。
恐れは何処にもなかった。ただただ美味そうだった。
だから、口をつけることには、何の躊躇いもなかった。
爪をたて、牙を喰い込ませた瞬間、明松の身体が大きく震えた。相当の痛みなのだろう。抵抗をするべきかしないべきか迷っている。そして肉を引き千切ろうとすれば、今度はほぼ反射的に逃れようともがいた。慈悲など何処にも存在しなかった。牙を喰い込ませ、血の味を受け取った瞬間から、私の頭には欲望しかなかった。
信じられないほどの美味みを感じた。逃げようとする女を取り押さえ、喰い荒していくこと自体が、味わったこともないような快感に思えた。
化け物だ。化け物になってしまった。だが、化け物でいい。化け物ならば家族を守れる。何も知らずに平和に暮らしている家族が守れるのならば、化け物だっていい。
痛みのあまりだろう。明松が悲鳴をあげる。しかし、その悲鳴が私の欲望を更に深めた。明松が苦しめば苦しむほど、私は心地よかった。動かなくなるこの瞬間まで、私は開放的な気持ちになれる。
「てんし……さま……」
声を出すのも億劫だろう。喉笛を噛み切れば楽にしてやれる。しかし、殺せば肉はすぐに固くなる。生きたまま喰うことのなんと楽しい事か。野蛮なケダモノと罵られたところで、やめる気になどならない。
十六夜の美しい月の下で、生贄の身体が血の色に染まっていく。
骨の髄まで残してはいけない。
段々と動けなくなっていく明松の全てを零さぬように抱きしめながら、私はその味に浸り続けた。
そうしている内に、視界はぼやけ、不思議な光景が頭に浮かんだのだ。
(……明松)
その名を呼んでいるのは誰だろう。
私の脳裏にはいつの間にかススキの畑が広がっていた。その中で無邪気に遊ぶ子供達がいて、子供達を優しく見守っていた明松がいた。
皆、高貴な服装。それなりの身分のある家族だろう。
「明松、お茶が沸いたわ」
呼んでいるのは母親だろうか。明松だけではなく、遊んでいた子供達も振り返った。穏やかに微笑む中年の女性と、今より若い明松。幼い子供たちは弟妹だろうか。共に母親のもとへと帰っていくその姿は、今の有様が信じられないくらいまともで幸せそうだった。
情景が唐突に変わる。
明松が身を休める部屋は、金に困ったこともなさそうだと分かるほどの内装だ。その中央に置かれた寝台にて、異国で織られたのだろう寝巻に身を包み、明日の予定を思い浮かべて笑っている。
こんな日々が彼女の日常だった。
――これは明松の記憶……。
別の日、明松の姿は先程よりも少し大人になっていた。弟妹たちもきっと大きくなっているだろう。年頃の彼女は眠れぬ夜に何らかの思いを抱いていた。取りとめもないことだ。読んだ本の記憶かもしれないし、家族や友人と交わした会話の記憶かもしれない。寝つく機会を失い続け、ようやく観念して眠りに就こうとしたその時、不可解な物音が響いた。
不安が私にも伝わってくる。
これも、明松の心に焼きつけられたままのものだろう。
明松は灯りを手に部屋を出た。物音がしたのは何処だろう。無駄に広い屋敷を彷徨い、まずは父母の元へ。寝静まっているのか静かだ。ノックをし、返事を待つが何もなし。何となく手を伸ばしてみれば、施錠はされておらず、扉は簡単に開いてしまった。
そこで待っていたものは――。
「……お母さん」
呟きつつ中を覗いた明松は、そのまま固まってしまった。
知らない男が血まみれで立っている。
その傍にいるのは物言わぬ人形。分解された人形。人形のようになってしまった一組の夫婦。吐き気が込み上げる感覚。これもきっと明松の記憶しているものだろう。
明松の悲鳴はあがらなかった。あげられなかったのだろう。
血まみれの男が振り返る。明松の姿を見て、血相を変えて迫って来る。その手が迫ってきた時、明松は反射的に扉を閉めた。
「……逃げなくては」
慌ててその場を逃れ、明松は隠れられる場所を探す。
階段を駆け下り、一階の無駄に広い中をさまよう。目に入るのは窓を塞ぐ異国のカーテンの傍。屋敷を汚した殺戮を外から隠しているかのような真っ赤なカーテン。その影に隠れ、明松は息を潜めていた。
しかし、その物音に別の部屋の扉が開く音がした。
「お父さん? お母さん?」
怪訝そうに声をかけ、夜の屋敷に三つの足音が響く。
彼女の弟妹たちだ。明松は心の中で叫んだ。来ては駄目、と。恐怖で声があがらないまま、弟妹たちが一階の広間に顔を覗かせる。明松が隠れている辺り。物音がした場所を探しているのだろう。その姿を確認して、明松は急いで彼らを招こうとした。
だが、その時だった。
「さっき覗いていたのは君たちだね?」
聞き慣れぬ第三者の声が子供たちの背後から。
明松の家族などではないのだろう。その男の存在に、明松の弟妹たちは驚いて振り返り、そのまま悲鳴を上げて明松の隠れているすぐ前へと逃れた。逃げ場は何処にだってあるはずだ。明松は祈った。天使に、神に、聖樹に、祈った。祈りが足らぬと感じると、古の大神たちにまで祈りを捧げた。
しかし、殺戮は行われた。
男が逃げ惑う子供たちを指差すと、その子供は泣き叫びながら絶命する。ケダモノに引き裂かれたかのように、死んでしまった。何が起こったのか分からないまま、明松はカーテンの裏からそれを見つめていた。
皆、死んでしまった。
ぴくりとも動かない。
静かになった屋敷の中で、明松は息を潜めたまま茫然としていた。
男はゆっくりと辺りを見渡すと、金品を物色し始める。やがて、明松が生きた心地もしないまま隠れていると、気が済んだのか男は何処かへと去ってしまった。
場面が切り替わると、そこは冷たい壁に囲まれた部屋だった。
生き残った明松を取り囲んでいるのはいかつい顔の男たち。純血の人間だけではなく人犬や大神などもいる。恐らくは役人だろう。
淡々と明松は自分の見てきた事を男たちに話していた。男たちは困惑したような顔をして互いに顔を見合わせると、仲間の女に声をかけて明松の相手をさせた。
誰も信じてはいない。
それでも、ある日、明松は檻越しに一人の男と向き合わされた。
「この男です」
泣きながら彼女は訴えた。
「この男が、家族を――」
場面は唐突に切り替わる。
裁判とは公平に行われるべきだとされている。古代ならば憶測や陰謀、こじつけや偏見、差別などで人は裁かれた。本物の悪人が処罰されたのは果たしてどのくらいの割合なのだろうか。罪なき人を裁いてはならない。その為に必要なのは、情報の客観性であった。
魔術を扱えぬ者はこの世に溢れている。それでも、魔術師というものは珍しいわけではないため、この世に存在するあらゆる魔術は一つの学問として記録され、資料として誰でも知る事が可能である。それは、禁忌とされる魔術であっても同じことだ。扱うは罪となるが、知らないでいいわけではない。
疑われれば終わりという時代ではない。
私達大神への差別や民の受ける理不尽な扱いはそうそう減るものではないだろうが、少なくとも昔よりはましな裁判なのだと私は学んだ。
だからこそなのだろう。
明松の証言だけでは男を罪人とするのに不十分だった。男が明松の家の物を盗んだ事は認められたが、殺人までしたという証拠は何処にもなかった。
指をさしたら人が裂けてしまった。そんな魔術は何処の記録にも載っていない。男についてあらゆる学者や魔術師が調べたが、魔力の才など全くなかった。同じく、明松は嘘などついていない。態度で分かる人々も、ならばきっと明松の心がおかしくなってしまったのだと判断し始めた。
違う。あの男がやったのだ。
そう繰り返し訴える明松だったが、裁判など彼女には無意味のものとなってしまった。
「……どうして」
一人きりで住まなくてはならなくなった屋敷の中で、明松は泣いていた。
「どうしてですか、神様」
彼女は何も見ていなかった。家族を思い出させるものの全ては彼女の視界の届かぬ場所に追いやられている。
たった一人の中で、彼女は訴え続けた。
「私は何の罪を犯してしまったの? どうしたら、皆に信じて貰えるのかしら……」
誰も明松の言葉を信じない。慰めてくれる者がいたとしても、本当の意味で耳を傾けてくれるものは何処にもいない。
泣きながら床に塞ぎこむ明松は、まるで丹を失ったばかりの時の私のようだった。
そんな明松の背中へと誰かの手が触れる。
怯える彼女の視界に映るのは、一人の女。艶やかな赤い衣に身を包んだ女が、明松に寄り添っていた。
「……誰」
恐れる明松を抱きしめながら、女は答える。
「私は紅」
赤い翼を広げながら明松を抱くその女は、まるで獲物を捕食する魔物のようだ。
「あなたを救う赤い天使よ」
これが明松の崩壊の幕開けだったのだろう。
気付けば情景は全て霞みの向こうにあった。
私の口は血でべたべただ。手元もそう。そして足元も。だが、明松は何処にもいない。美しい月光の下で、明松は消えてしまっていた。
骨の髄まで残さずに。
――ああ、明松。
一人きりで茫然としていたはずなのに、何故だか自分の身体が私一人のものではないような、そんな奇妙な感覚に浸っていた。胸に手を当てれば、明松の身に起き、明松が起こした全ての不幸が私と共にいるようだった。
私は民ではなくなった。
伸ばされた本物の救いの手を退けたのは、他ならぬ私。
全てはもう取り返しがつかない。




