9.十六夜の下
夜風が騒がしい。
飽きるほど美しい月を眺められる丘の上から、昨日とは違う色をした勇敢の国の木々を眺め続ける事しばらく。
殆ど枯れ果てたような心と共に、私は一人の女の到着を待っていた。
私の牙を受け入れたがっている人間の女。思い出すのは昨夜食いちぎった魔族の血肉だ。
よその国の話では、人狼という輩は人食い鬼のようなものらしい。奴らは大神の子孫ではない。同じ人狼に区分されてはいるけれど、大神の誕生よりも前に枝別れたした別の部族だ。それでも、根本は同じ。私達は人狼。大神と名乗っているだけで、その根元では血と肉に飢えた猛獣であることは変わりない。
この国でも人攫いはいる。獣人が被害者ならば相手は密猟者。しかし、純血の人間ならば違う。獣人の中には菜食主義と肉食主義がいる。
大神は肉食の魔物。古代の人間たちは彼らの力を借りて、その感謝の印として血の滴る生贄を差し出した。大神の子孫のなかには偉大な父母の功績も忘れ、生贄が足りぬと激怒し、村々から子供や若い娘を攫っては喰い殺したり、気に入れば花嫁や花婿にしたりしたという伝承もある。そもそも、聖域の中に残る事が出来た大神の子孫たちは、そうやって攫われた者と大神との間に出来た子供たちであったと言われていたりもする。
食欲と肉欲の狭間で出来た落とし子。
私の祖先を辿って辿り着く人間の血も、ひょっとしたら理不尽な形で大神の花嫁や花婿となった人間のものなのかもしれない。
だが、生憎、私は人狼としての血が濃い。生粋の人間であった祖先の血も、生粋の魔物であった祖先の血が混じれば別物となろう。私はケダモノなのだ。このまま紅の言うままに従っていけば、大神ですらなくなってしまう。
けれど、怖くなかった。
むしろ、待ち遠しかった。
私に喰い殺されるためだけに人間の女がとぼとぼ歩いて来ている。紅に誘われながら、喜んで私の前に横たわり、柔らかな肉を差し出してくる。
――想像しただけで、よだれが出てきそうな話だ。
今まで、人を食おうだなんて思った事はなかった。
喰い物は金を払って食べるか、食材を購入して料理するもの。野宿するにしても、魚を釣って焼くか、人語の分からぬような野兎や野鳥、鹿などを捕まえて焼いて食べることしか考えつかなかった。
民として生きていながら、民として生きている他人を襲って喰うだなんて。
しかし、今は違う。
思い出すのは密猟者の汚らしい血と肉の味。魔族の肉はまずい。そう言われていたのに、今まで味わったこともないような感覚が私の心を掴んでいた。
純血の人間は、一部の獣人を除いたあらゆる魔族よりも美味なものである。
本当かどうかは分からなくとも、誰しも一度は聞いた事のある噂だった。
今だって人肉を食ったとして追われる身となった凶悪な魔族は存在する。犯罪と分かっていながら、倫理をかなぐり捨てて純血の人間に手を出してしまうのは何故か。
かつてのように気持ちが悪いという感覚はなくなっていた。
どうしたことだろう。昨夜、紅にあのように抱かれて以来、私の中で大きな前提が崩れてしまったような気がしていた。
奇妙だ。丹を恋しがり、密猟者達に怯えていたときの自分が自分でないかのよう。
心に一度浮かんだ人肉への欲求は、簡単には消えてくれそうもない。
「……早く食べたい」
この焦燥感は何だろう。
腹のあたりがむずむずして、喉が妙に渇いている。
目を閉じれば、自分のために身を捧げる生贄の姿が浮かび上がり、思わず手を伸ばしてしまった。紅がくれる私への貢物。その全てを口にした時、私はどうなってしまうのだろうか。考えて浮かぶこのそわそわとしたものが、恐れによるものなのか、期待によるものなのか、いよいよ分からなくなってきた。
目を開けて映るのは美しい月の輝く緑豊かな夜の景色。
こんなもの無意味だ。
丹がいないこの世界など、存在する価値もない。
もう後戻りは出来ない。後戻りをする気力もない。自分の力では、動く気にもならない。無気力。いや、無気力のままではいけない。私は変わらなくては。どう変わるのだろう。ああ、そうだ。鬼族などひとひねりで倒せるくらいには強くなりたい。
果実を奪い、紅と運命を共にし、家族に危害を加えられるより先に、野蛮な密猟者たちを野蛮な方法で殺してしまおう。
自分でも異様だと分かるほどの殺意を抱きながら待っていると、ふと、夜風が不思議な香りを運んできた。
純血の人間。恐らく娘と思われる。
彼女が約束の品だろうか。
しかし、それにしては不可解だった。彼女は息を潜めて私を見つめている。背を向けたまま動かないからと言って、気付いていないとでも思っているのだろうか。
背後に着地する気配がした瞬間、私は即座に振り返った。
誰もいないように見える。だが、誰もいないはずはない。この鼻は誤魔化せない。高度な魔術のようだが、隠れきることなど不可能だ。
そのくらい分かっているだろうに。
「隠れても無駄だ。臭いで分かる」
恐らくいるだろう場所を睨みつけながらそう言うと、彼女は大人しく魔術を解いた。
その姿を見るなり、私は顔をしかめてしまった。この子、ではないだろう。紅が言っていたのは成人した女性だ。そこにいるのは子供。少女。恐らく十代後半。大神殿で守られているだろう果実の巫女と同じくらいの年頃だ。
――私が丹と結ばれ、故郷を出た時と同じくらいの年頃。
高度な魔術を使える少女。その存在はまさに鬼族の小娘――凰の憎き姿を思わせる。だが、しばらく目の前にいる少女の不可思議な目の色を見つめ、私は若干の混乱を覚えていた。伝わってくる匂いは確かに純血の人間のもの。魔族の血の一切も感じられない。
私は彼女に問いかけた。
「魔族ではないな。しかも未成年か。私に何の用だ? 魔術師なら私が何者かが分からないなんて事は言わないだろう?」
血と肉への期待を膨らませていた分、目の前に突如現れたこの子供もまた美味そうに見えてしまうものだが、食べる気にはならない。どんなに美味しそうでも、直接関係のないような小娘に手を出すほど狂ってはいない。
それに、この少女は……ただの野次馬などではなかった。
「白椿というのは、あなた?」
震えた声で少女は訊ねてきた。
私の正体を分かっていながら、たった一人で向き合っている。
だが、そんな事よりも、私は内心驚いていた。
「何故、私の名前を?」
名前を知っているような相手。
誰だろう。思い当たるのは、私の身分すら知ってしまった密猟者たちくらいしか思い当たらない。警戒心がやや生まれる中、少女は一歩だけ私に近づいてきた。しかし、こちらが身構えそうになるその前に、彼女は言ったのだ。
「わたしは鴉」
息を呑みながら、少女は訴えてくる。
「神殿の御使いで来たの」
それは最期に差しのべられた、救いの手でもあったのかもしれない。
遅すぎた、救いの手。




