8.主従の決定
混乱から立ち直れば、再び追いかけられるだろう。
紅はそう私を脅して逃げる事に専念させた。
彼女によれば、今のままの私では冷静な鬼族には敵わないらしい。鬼族との力の差を埋め合わせるだけの力を貸してくれる事も出来ないそうだ。
これは仮契約。完全に彼女の力を得るには、彼女が何処かに隠している虜とやらの女を骨も残さず喰い殺さなくてはならないのだとか。
だが、私は紅の言葉を無視する形で虜の訪れを拒み続けた。
先延ばしにして、まずは密猟者共から距離を取るべきだ。彼らを怖がる私に、紅は言う。恐れる必要はないのだと。虜を殺してしまえば、鬼族など敵ではない。怯えながら過ごすことなどしなくていいのだと。
紅は本当の事を言っているのだろう。
それは信じよう。
しかし、私は頑なに拒んだ。
あの場から逃げる事は出来たのだ。満月の夜であっても息は非常に軽い。仮契約でこれならば、仮契約のまま丹に会いに行く事は出来ないだろうか。完全にこの女に呪われてしまう前に、丹と出会い、勇敢の剣の救済を願う事は出来ないのかと。
けれど、そんな私の魂胆は見透かされていた。
「白椿」
月の良く見える丘の上で蹲る私に紅は身を寄せる。
「あなたはどうしようもなく頑固な子ね。こうなってしまった以上、あなたの道はただ一つだけ。いつまでも仮契約で居させてあげられると思っているの?」
高圧的なその脅しに怯むわけにはいかなかった。
「異国の奴隷かお前の虜。二つしか道はないように見えるが、果たしてそうかな。身体は軽い。今のままなら、神殿に入ることも……」
と、言いかけた時だった。
急に身体が重たくなった。満月の光の下で苦しみが広がり、視界が一気に暗くなった。地面に生える雑草を握りしめてでなければ、この苦痛に耐えられない。泣きながら私は何が起こったのかを考え続けた。
私の苦痛を和らげるのは紅の柔らかな手つき。背中をさすりながら、彼女は私を諭す。
「あなたを逃がしてあげたのは誰だったかしら」
微笑むその顔は、この目には見えない。
「仮契約のままねばろうとしても無駄よ。次にまたあの狩人たちに出会ってしまってもいいの? 嫌なら言葉で誓いなさい。私と協力し、果実を奪うのだと。虜の命を奪い、新しい虜になると」
「……丹」
泣きながらその名を呼ぶ私の頭を、紅は優しい手つきで撫でた。
「怖がらないで。あなたなら果実を奪える。果実を奪った後は好きにすればいい。支配者になりたくないのならならなくてもいいの。聖樹を枯らしてくれれば、愛する人を甦らせる方法さえも教えてあげる。あなたはあらゆるものを手に入れられる。私の庇護のもとでエインガナのような存在となる。この私に協力さえすれば」
「……私は」
「それとも、一度きりの機会を無駄にするつもり? あなたがそれでいいのなら、私はもう二度と手を貸さない。仮契約は私の自由も保証している。今の私たちはいつでも解消できる関係よ。仲間を殺された狩人達は怯えるかしら。それとも、復讐を誓うかしら。あなたの毛皮の価値は相当なもの。その血筋はそれ以上。同じ毛色の子を生む可能性のあるあなたが生涯どれだけ金を生みだせるものか、彼らは常に計算している」
聞きたくない。
「それだけじゃないわ。奴らを放置しておけば、いつかはあなたの家族に辿り着く。あなたに白い毛を引き継がせた母親。その母親から生まれた妹達はいくつだったかしら。あなたのように白い毛をしているのよね?」
ぞっとした。
長く会っていない私の家族。老いた両親を支えているという妹達。月下で人として暮らしている彼女たちに手を出すのはそう簡単な事ではない。だから、大丈夫だ。大丈夫だと思いたい。
しかし、奴らは鬼族。ほんの短時間で人を攫うことなんて容易なのではないだろうか。昨日まで普通に暮らしていた住人が行方不明となる事件だって起こり得ないわけではない。そうだ。丹の両親だってそうだった。どんなに人の中で普通に暮らしていたとしても、生粋の悪人が本気になれば、一家族を消し去ることだって可能なことなのかもしれない。
「……私は」
「さて、あなたはどうしたい? 危険を放置して自分だけ逃げ隠れするの? あなたの身元は彼らも分かっている。あなたの愛する人の身分証は彼らが持っているもの。その伴侶であるあなたの事くらい、彼らならばすぐに調べられるのよ。白椿という名前も、月下出身であると言うことも……」
「どうしたらいい」
苦痛の中で私は紅に縋った。
「私は、どうしたらいい。残された家族を守るには、どうしたらいい」
「言ったでしょう。誓いなさい、と。誓って、私の力を正式に得て、そして復讐なさい。愛する夫の無念を晴らし、同じことが繰り返されぬように奴らを喰い殺すの。心配せずともあなたはもう人を殺している。一人も、二人も、大勢も同じこと」
この女はやはり天使などではない。
私は悪魔の虜となった。
「……果実を奪い、復讐を」
頭を過ぎるのは神殿で少しでも話す事が出来た果実の巫女サヤの姿だった。
今はまだ仮契約の身。鮮明に思い出せるサヤの姿は尊く、牙を剥くなど到底考えられない。カタナはどうしているだろう。そろそろ呪いからは解放されただろうか。
どちらに転んでも破滅しか待っていない。
ならば、私はどうしたいだろう。
天秤が傾くのはどちらなのか。分かりきった事だった。
「誓おう」
苦痛を堪えて私は告げた。
「お前に協力し、果実を奪う。お前が連れてくる虜とやらを喰い殺そう……良心は全て捨てて勇敢の剣に託し、お前と共に茨の道に進むと誓う」
伸ばされた手を握り返せば、苦痛が一気に取れた。
脱力してその場に伏せると、紅は私の頭を撫でながら答えた。
「誓いは受け取った」
身を寄せてくるのが何故だか不快ではなくなった。
「これから、あなたの生き方は大きく変わる。虜を殺し、その罰を背負ってあなたは私と共に生き続ける。私が守ってあげるわ。私が愛してあげる。だから、安心して生まれ変わりなさい、白椿」
悪魔の命令が下る。私は私でなくなった。
勇敢の国に牙を剥く悪しきケダモノ。
この国の多くの民が信じる善なる大神の血が泣いている。
それでも、私は後悔していなかった。これで丹に会う事が出来るのだから。だからこれはきっと嬉しさ。悲しくて泣いているわけではないのだろう。
そう信じながら、私はこの身を紅に委ねた。




