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勇敢の剣  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第3部 白椿
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7.聖域外の魔物

 人が潜りこめるほどの大樹の洞の中はとても静かだ。静かでひんやりとした空間は、この苦痛を少しは緩和してくれる。

 今宵は美しい満月が輝いている。せっかくの名月の下で、同じような苦しみを味わっている民は一体どのくらいいるのだろう。

 苦しみは大神としての血筋の濃さとの引き換えだと聞いている。丹も、父母も、妹たちも、同じように満月の夜は苦しみに耐えるしかなかった。


 変身すら出来ないほど弱い血しか引いていない者は、力がない代わりにこの苦しみからも解放されるらしい。羨ましいものだ。どんなに高貴な血筋であろうと、こんな世の中では、大神として生まれることに何の利点もない。


 私は人の姿をしているだろうか。それとも、狼の姿をしているのだろうか。

 確認する余裕もないまま、苦しみに耐えていることしか出来なかった。


 聖域は魔物を殺す。

 どんなに力のある者も、魔物であるならば聖域を侵せない。

 満月の夜は大神の子孫たちも魔物として認識されてしまう。


 古来、満月の夜は大神の祭りが行われていたらしい。始祖となる純粋な大神とその子孫は、いつもよりも力の循環がよく、人間たちを楽々と守る事が出来たのだとか。

 今では嘘のような過去の話。

 この世界に聖樹も聖域もなかった時代の話だ。


 大神の子孫でないならば、この苦しみは分からない。だから、想像すらしないだろう。満月の夜が来る度に、人狼たちは一度くらい聖樹などなければよかったのにと思ってしまうということを。

 それでも訴えた事は一度もない。

 満月の夜に大神の子孫が苦しんでしまう事くらい、この国の民は知っていた。

 日頃、人々といい関係を築いていれば、そのような夜はそっとしておいて貰える。独居の者などは、面倒を看てもらえたりもする。

 だが、私は一人きり。何かあったところで守ってくれる者なんて何処にもいない。


「いいえ、私がいる」


 苦しみ浮かぶ額の汗を柔らかな手が拭っていった。

 紅は常に傍にいるらしい。


「あなたを守ってあげられるのは私だけよ」

「……紅」


 息も絶え絶えという中で、私はその手に触れた。


「密猟者達は……」

「あなたを探している。銀色の美しい雌狼と聞いて、諦めきれない様子。それに今宵は美しい満月だから、きっと妖力を駆使してでもあなたを見つけるでしょう」

「……どうしたらいい。此処は……見つからずに済むだろうか」

「分からない。今の私に出来るのはあなたの傍にいることだけ。でも、あなたを守る方法ならあるわ」

「どんな……方法?」

「取引をしましょう。口約束でいいの。私と契約を交わし、運命を共にする。そうすれば私はあなたを守るに値する価値を得られる。あなたに仮の力を与え、残酷な悪人たちを退ける事が出来るの」

「……そんな事をすれば、私は……果実を奪わなくてはならないのだろう?」


 霞んだ視界の中でも、紅が微笑む様子が分かった。


「ええ、そうね」


 短く肯定するその声が不気味だった。

 苦痛の中で私は必死に首を振って、そのまま伏せた。

 吐き気がする。でも吐く力が無い。病にでも苦しめられるように、私は呼吸すら辛いなかで思い出していた。


 ――サヤ。


 そんな名前を持つあの果実の巫女は優しかった。誰もが私を警戒し、拒もうとする中で、あの子だけは私の話を最初から聞こうとしてくれた。果実を奪うと言う事は、あの子に危害を加えるということ。あの場所に落ちついているあの子を脅かすという事ではないのか。

 そんなこと、したくはない。


「躊躇う事はないわ。果実を奪ったところであの子は死なない。あの子を殺せるのは勇敢の剣だけ。あなたが奪えばあの子はあなたの中で永遠に生き続けることが出来るのよ」

「そうすれば、怪物になってしまう……聖典にはそう書いてあった……黄金の果実を口にした者は……勇敢の剣に討伐されるべき怪物になると……」


 朦朧とする中どうにか反論すると、紅の手が私の背中を撫でていった。

 私は今、どんな姿をしているのだろう。


「あれは偽りの書。本当の事が書いているわけではない。怪物というのは聖樹の視点での名称。果実を得てこの国を作りかえる事が出来る者は、新しい世界の頂点へと君臨する。西の神龍や北のエルリク、そして南のエインガナのように」


 エルリクはともかく、西は饕餮タオティエ、そして南はルマカカと呼ばれているはず。違う名前で呼ぶということは、この紅という存在は聖樹に反対する者でしかない。勇敢の国の周囲三国が滅んだ理由はどれも怪物によるもの。その怪物になるべきではないということは、幼い頃からの常識だった。


 大神には伝説がある。先祖代々受け継がれてきた伝説。聖域により、先祖の大神が子供たちとこの場を去らねばならなくなった時、人と交わり生まれた子孫たちにこの場に残るように告げ、思いを託したのだ。

 これからは新しい時代。新しい信仰、新しい絆、新しい世界のなかで生きなさい。この土地を去る先祖の存在を忘れず、人々を守り助け合いながら過ごしなさい、と。

 我々の先祖は人を守るべく存在していた。その役目が聖樹にかわったいま、大神の子孫が出来る事と言えば、先祖の認めた信仰を守り、民として過ごすこと。

 そんな一族の子孫であることは誇りでもあった。

 丹を失ってしまうまでは疑いようもない尊厳であった。

 揺らいでいるとはいえ、基盤は変わらない。そうだ。丹と結ばれたのだって、私が大神であったからではないか。身も心も大神でいたいのならば、私はしっかりしなくてはならない。こんな満月の夜などに怯えず、じっと耐えて、神や祖先を信じてこの場をしのぐしかないのだ。

 特に優しげに寄り添うこの赤い悪魔を信用してはいけない。


「その気高さは美しい」


 いやに身体を密着させながら、紅は囁く。


「けれど、このままではあなたは愛する人に会えない。それでいいの?」

「……会えない?」

「狩人達がどんどん近づいて来ている。鬼族の妖力ならば魔物に近くなったあなたの気配などすぐに分かる。あなたの居場所など彼らはお見通しよ。逃げる事も出来ないあなたを捕えるための道具を揃えて、この洞を目指しているの」

「……嘘だ……信じない」


 信じたくない。恐ろしいことだ。

 はっきりとした不幸が迫ってきている。足音が聞こえてきそうで怖い。せめて紅の言っている事が嘘であることを願うしかない。

 私は動けない。動く事が出来ない。気力でどうにかなるものではない。満月の夜の人狼など、純血の人間の狩人だって捕えられることだろう。

 況してや鬼族だなんて。


「鬼族の兄妹が率いる犯罪者達。あなたのように苦しんでいる人狼を除く数名が近づいて来ている。もうすぐそこまで。時間はないわ」

「――信じない、そんなこと」

「怖いのは分かるわ。でも信じなさい、白椿。私の誘いを受けなければあなたは夫に二度と会えなくなる。彼以外の者の子を不幸になると分かっていながら生み育て、その上、その子達まで奪われてしまってもいいの? その気高さを踏みにじられたくなければ、私の手を取りなさい」


 紅は耳元で囁いた。


「天使の力を受け取り、私の虜を喰い殺すと約束するの。そうしたら、あなたを助けてあげる。あなたの運命を変えてあげる。異国の牢獄で玩具にされて、襤褸切れのように殺されるあなたの結末も、私になら変えてあげられるのよ」


 ――嘘だと言ってくれ。


 苦痛の中で私は神に訴えた。

 私が何をしたというのだろう。丹が何をしたというのだろう。私達は勇敢の民として何か間違った生き方をしただろうか。ここまで辛い終わり方をしなければならない罪は何処にあったのだろう。

 教えて欲しい。何故、丹は死ななくてはならなかったのか。

 神は本当にいるのだろうか。いたとしてそれは、私達が信じるような存在なのだろうか。

 祖先よ、私はどうなってしまうのだ。


 洞の中で怯えている私の鼻にも伝わってくる。紅は嘘などついていない。本当に、私の隠れる場所を目指して嫌な臭いが近づいて来ているのだ。

 どうか気付かれないように、願うだけ無駄なことだったのだろうか。

 紅に手を握られながら、私は涙を流していた。洞の中の淀んだ空気が私の身体を受け止めている。もうずっと此処にいたい。どうせ丹に会えないのなら、このまま此処で死んでしまいたい。

 洞の外から覗いてくる誰かの影を見つめながら、私はそんな虚しい願いを抱いていた。


「……見つけた」


 聞き覚えのある声。少女の声。もう二度と聞きたくもなかった声。


フォン兄さん、此処に居たわ」


 冷たい声色は何処までも私を見下していると分かるもの。


「美しい銀狼。やっぱり彼女よ、間違いないわ。また会えるとは思わなかった。聖域のせいで苦しみながら震えているわ。可哀そうに、聖域に苦しめられているのね」


 言葉とは裏腹に、とても機嫌がよさそうだ。

 見上げたくもなかった。その顔を見たくない。横たわったまま、私は覚悟を決めていた。何の覚悟だろう。このまま虫けらのように踏みにじられる覚悟だろうか。私から丹を奪った運命とやらに身を委ね、『勇敢の民』として不幸にも異国に骨を埋める覚悟だろうか。

 このまま、囚われる事が正しいことなのか。


フアン様、準備は万端です。あとは私にお任せを」


 彼らの仲間の声が聞こえてくる。死刑の執行時刻が迫っているかのようだ。

 だが、このまま待っていて良いのだろうか。


「気を付けて、満月の夜とはいえ相手は人狼よ。それも大神の子孫。聖域の中の生き物とは言え、祖国にいるような人狼とは少し違う」

「分かっておりますとも。しかし、人狼の扱いは俺らも慣れています。宿に残した彼奴らと日々、殴りあってきましたからね」

「そう。じゃあ、お願い」


 やり取りが済めば、囚われるだけ。

 誰かが洞に入りこもうとする気配がして、寒気が走った。


(このままでいいの?)


 頭の中で紅が囁く。


(本当に、このままでいいの?)


 丹。

 君は、私を軽蔑するだろうか。

 丹。

 私は間違っているだろうか。

 丹。

 ああ、だとしても、私はもう一度、もう一度だけでいいから、君に会いたい。

 

 だから、許してくれ。


「あなたの望み。受け取ったわ」


 その声が響くと、身体が急に軽くなった。

 私にとっての満月の夜が突然終わった。起きあがってみれば、魔族の男が一人、私のすぐ傍まで迫っていた。私の姿を見て一瞬驚いたが、すぐに油断して笑みを浮かべる。その手に握られているのは縄などという生易しいものではなく、鎖だった。もう二度と、獲物を逃さないつもりなのだろう。


『観念しな、わんころ』


 その言語は聞きとれなかったが、意図する心ははっきりと伝わった。私を威嚇しながら鎖を巻きつけようと近づいてくる。

 しかし、滑稽なものだった。

 男が鎖で私を捕えるより先に、私は狼へと姿を変えて男に飛び掛かった。狙うは喉笛。人の姿をしている者の喉を噛みちぎるなど、考えたこともない。だが、今の私にはそれが出来た。あまりにも簡単なことだった。

 魔族の男は訳も分からないまま目を見開き、声にならぬ声を上げてその場に倒れた。辺りはすぐに血まみれになった。血だまりの中で男の姿が歪んでいく。背中に翼をもつ灰色の姿をした化け物の姿となってもがき苦しむと、やがて、呆気なく事切れた。

 洞の外から中を眺めていた少女の小さな悲鳴が聞こえた。


「なんてこと……!」

「どうした……何があった、凰!」

「鳳兄さん、彼が……仲間が殺されたっ!」

「何? いかん、下がれ凰!」


 下がらせるものか。

 毛を逆立てて私は凰を睨みつけた。この小娘が丹を殺したのだ。その後ろにいる兄が囮となって。ならば、どうしようか。どう料理してやろう。どうしたらこの心は治まるだろうか。私は舌舐めずりをしながら考えた。

 不思議なくらい鬼族が鼠のように見えるのは何故だろう。


「今は逃げるだけの方がいい」


 冷静な紅の声がすぐ傍で聞こえてきた。

 その姿が何処にあるのかは分からない。


「あなたは正式に力を受け取ってはいない。私の虜を食べるまでは仮の契約に過ぎないの。それに、相手は純血の鬼族よ。復讐をしたいのなら、果実を得てからにしなさい」

「……仕方ない」


 こちらが面白くなるほど青ざめた顔をしている鬼族の娘を睨みつけて、私は思い切り勢いを付けて飛び掛かった。

 小動物のように悲鳴を上げて、凰がその場を離れる。ついでにその身体に傷でも追わせたかったが、今はまだ洞の出口を開ける事が出来ただけで十分なのだろう。外に出てみれば、私を捕えるために集まっていた見覚えのある密猟者共が、皆して私の姿に恐れをなしていた。満月の夜だというのに動きまわれる私の姿に驚いているらしい。

 面白い。だが、今は紅の言葉に従おう。

 走り去る私を彼らは追いかけることもしなかった。身を隠していた洞の中には彼らの仲間が惨死している。その姿が見えるからこそ、誰も追いかけては来られないのだ。


 満月の美しい空の下で、私は走った。

 身体が軽かった。今までになく軽かった。さっきまで聖域に苦しめられていたのが嘘のようだ。だが、心は重たかった。非常に重たかった。私はついに踏みこんではならない領域に来てしまった。

 これからどうなってしまうのだろう。

 漠然とした不安だけが、私の傍につきまとっていた。

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