5.女人狼
思い出しても仕方のない事を思い出したものだ。
せっかく忘れかけていたというのに、この心を何処にやればいいというのだろう。
明るい空をぼんやりと眺めながら、私は溜め息をついた。
見つめているのは大神殿。その敷地外に、私はしばらく滞在していた。敷地外のここならば、番人たちが追い払いに来ない。
様々な臭いの感じるこの場所で、昨夜は祭りによる美しい夜空とそれに浮かれる神殿の者達の感嘆の声を味わった。
誕生祭の都の賑わいを思い出す。
丹と二人でその賑やかさに笑い合った夜が恐ろしく遠い。気付けば、丹と私の時間はどんどんずれていく。これが残された者の辛さなのか。悲しむ力さえ、もはや残ってはいない。私はまだ丹にきちんと別れを告げられていない。黙ったまま、何も言えないまま、見送ってしまった。
――私は、どうしたらいいのだろう。
丹が物言わぬ毛皮となるその過程を、私は物影から吐き気をこらえながら見つめた。
取り逃した獲物をいつまでも追いかけるつもりはないのだろう。手元に残った丹の毛皮と肉と骨とを残酷にもわけてしまうと、密猟者達は動き出した。奴らからどうにかあれらの遺品を取り返せないだろうか。肉はその日のうちに食べられてしまった。私は心を殺してそれを見つめた。残された毛皮と骨……とくにかさばっている毛皮ならば取り返せるかもしれない。
心はすでにおかしくなっていた。平常でいられるはずもなかった。愛した人があんな姿になってしまう所を黙って見ていることしか出来なかったのだから、当たり前なのかもしれない。
必死に気配を殺して追いかけ続け、そして彼らを追いかける形で勇敢の都へと入った時、事態は大きく変わった。
密猟者が勇敢の国の番人達に取り押さえられたのだ。
都の番人は優秀だ。彼らの中には人犬も珍しくなく、大神の血を引く者も多少は紛れている。だから、すぐに分かったのだ。密猟者達の手荷物にまぎれた狼の毛皮が、単なるケダモノのものではないことを。
――もしかしたら、返して貰えるかもしれない。
私は期待してすぐに名乗り出た。
しかし、期待はずれだった。
名乗り出たところで、遺族である証拠を出せと言われた。丹の身元を明かすものはとうに密猟者達に捨てられており、私の身分証も役には立たなかった。特徴の一つ一つを述べたところで、決定的な証拠がない限り引き渡せないと言われてしまったのだ。
――どうしたらよかったのだろう。
取り調べを受ける密猟者達がどうなるのかなんてもはやどうでもよかった。その時の私は丹の毛皮がどうなるのかということばかり気にしていた。
後日、丹の毛皮は役所から急に運ばれていった。まさか廃棄されるのではと焦りながら追いかけてみれば、その先はあの大神殿だった。すぐにまた申し出てみるも、やはり無駄。都の役所よりもやや乱暴な形で追い返されてしまった。
あれからずっと私はこの場所に滞在している。
――どうしたらいいのだろう。
勇敢の剣に訴えてみるか。
いや、駄目だろう。奴は分かっていない。自分と私の身分がどれほど違うのか、全然分かっていない。
「白椿」
茫然としている私の手を紅がそっと触れてきた。
天使だと言うこの女は何の前触れもなく現れては消える。最初に現れたのは昨日だっただろうか、一昨日だっただろうか。彼女の接触は現実と妄想の境を生みだし、私のあらゆる感覚を惑わした。
――天使だなんて、ふざけたことを。
私は思った。
――こんなもの、悪魔じゃないか。
「あなたが可哀そう」
紅は言った。艶めかしい手つきで私に触れる。
「せめてあなたの力になりたい。私を信じられないのも無理はない。大神は気高き者。神もその気高さを認めてはいる。ならば、印を見せてあげましょう。受け取って」
怪しげな言葉と共に握らされたのは、不可思議な装飾の施された短刀だった。
「これは短刀。五十年ほど前に創られたただ美しいだけの有り物。けれど、私の力を宿せば聖刀となる。これに宿るは天使の力。赤い天使の力は共鳴し、制御され、持ち主の意志に従う。これさえあれば、あなたは勇敢の剣を自由に出来るの」
「……勇敢の剣を?」
私を阻んだ聖剣。
悪魔の言葉が私の耳元にもたらされた。
「勇敢の剣さえ克服すれば、あなたは簡単に愛する人の形見まで辿り着ける。何なら、形見の場所を教えてあげましょうか」
紅が怪しげに微笑む。
渡された『聖刀』とやらを私は見つめた。
「この短刀で勇敢の剣を自由に出来るのか?」
「ええ、それであの子を刺して御覧なさい。しっかり刺して、痛みを与え、怯ませるの。力が及べばあの子の左胸に刻まれた勇敢の剣の印が黒く変化する。その印に触れながら命じるの。『物言わぬ武器になれ』と命じれば、その通りになる。『従順なしもべとなれ』と命じれば、やっぱりその通りになる。あの子を従わせれば、あなたはこの国の支配者になれるわ」
それほどの力がこの短刀に宿っている。それほどの力をこの天使となる者は人やモノに与えられるのか。
だが、紅が何と言おうと、私はこれを聖なる力だとは思えなかった。
これは、悪魔の力だ。
「支配者……そんなものに、興味はない」
そう言いつつも、渡された短刀を捨てる気にはならなかった。
「丹は何処にいる。居場所を知っていると言ったな」
「もちろん。あなたの旦那様は今も果実の巫女が預かっているわ。果実の巫女は御殿の中庭にいる。聖樹に祈りを捧げ、この世を憂えている。あなたの事を待っているはずよ。あの子は全ての民を慈しむ巫女だから」
「彼女に聞けばいいのか」
「直接申し出てみなさい。そうすれば、あの子はすぐに分かってくれる。これまでの頭の固い番人や役人、神官達とは違うわ。密猟者たちに気付かれずに追跡出来たあなたなら、中庭までも辿り着けるはず」
きっと一昨日のように勇敢の剣が駆けつけてくるだろう。だが、その時にはこの短刀を使えばいいのだ。悪魔の力が宿るこの短刀を。
「見返りは何だ」
私は紅に訊ねた。
「この短刀の価格は? 私に要求するのはやはり果実なのか?」
「いいえ」
だが、紅は首を振った。
「これはお近づきの印に過ぎないわ。聖刀が使えるのは一度きり。一度使えば聖なる力は費やされ、ただの短刀へと戻ってしまう。このままでは二度目はない。二度目を願うなら、私の手をとって取引に応じてもらう」
「取引?」
「果実を巡る取引よ。契約を結び、私と共にこの国を変える者になってもらう」
つまり、大罪人へと至る道が開かれるわけだ。
もう二度と戻る事の出来ない道へと。
しかし、大して怖くはなかった。わざわざそんな暗闇へと歩みださなくとも、一度だけは機会が巡ってきたのだから。
「紅よ、早まったものだな」
私は短刀を握りしめて妖艶な赤い悪魔を見つめた。
「丹の毛皮さえ取り返せばそれでいい。一度だけ使えるのならば十分だ。あとはお前の力なんて必要ない」
「私と取引すれば、憎き鬼族にも復讐出来るのよ」
「必要ない。奴らなどどうでもいい。私は丹に会いたいんだ。丹と会って、きちんと別れを告げたい。それだけならば、この『お近づきの印』とやらのみで十分だ」
短刀を手に述べる私を、紅は目を細めたまま見つめてくる。
不敵なその笑みはまさに悪魔のよう。
「あらそう。それならば存分に活用なさい。でも、忘れないで。私はあなたを見放したりしない。あなたが望むのなら、いつでも二度目を作ってあげる。いつもあなたの傍にいることを忘れないで」
触れていたその手が離れていく。
目で追えば、いつの間にか紅の姿は何処にもいなかった。
一人残され、私はじっと短刀を見つめた。聖刀だと言われているその禍々しい力は、私の手にはあまり馴染まない。
だが、どうせ一度きりの縁だ。
万が一、勇敢の剣が邪魔になった時に使えばいい。
番人など怖くない。怖いのは剣だけ。だから、これさえ、あればいい。そう思った。そう思っていた。
――けれど、そうじゃなかった。




