4.毛皮
四方から襲われたその現場を二人で逃げる事が出来たのは奇跡だった。
相手は鬼族が二人に人狼が三人、その他、人間の血が濃い人妖や人鳥、人馬などもいた。皆、恐らく夢幻の民の末裔。だが、純血の人間など何処にもおらず、それぞれが魔物の血を多少なりとも引いていた。
母国に戻ればもっと魔物の血の濃い者が溢れているのだろう。
聖域を越えられない者たちの代わりに、人の血を受け継ぐ混血の民が勇敢の国に忍びこんで略取している。その略取の対象にされるのは腹立たしいことだ。しかし、無駄に歯向かって負けでもすれば、今度は私たちがその手駒になってしまう。
山道から逸れた先の岩場の洞に隠れて、私と丹は身を寄せ合っていた。
外はからりとよく晴れて、きっと月も星も綺麗だろう。
しかし呑気に眺める自由を私達は与えられてはいなかった。
密猟者はまだ追ってきている。諦めるということを知らないのだろう。それほどまでに切羽詰まっているのだろうか。怖かった。七海町まで逃げ切る事が出来るのか。信じなくてはやっていけないはずなのに、信じることが出来なかった。
此処が見つかってしまったら、どうしたらいいのだろう。
「……白椿」
震えていると、そっと丹が囁いた。
「二手に分かれよう」
「――いや」
思わず拒否したものの、丹は諭すように言った。
「少しの間だ。七海町を目指して逃げ続けるんだ。君は西から、俺は東から。ぐるりと回り込む形で逃れれば、相手を分散出来るはず。無事に逃げて町で落ち合おう」
「いやだ、丹と離れたくない……」
その時、私は本当に不安だった。
持って生まれた人狼の力を駆使すれば、一人で逃げ切る事なんて出来るだろう。そう自負していても、丹と離れ離れになることが異様に怖かったのだ。
虫が知らせたのだろうか。
「大丈夫。俺も君も誇り高い大神の子孫だ。七海町まできっと守って貰えるよ」
このまま二人で逃げれば、お互いにお互いを意識して逃げ切る事に専念出来ない。
丹が言いたいことも分かってはいたのだ。ならば、どうしてこんなにも不安だったのか。自分でも理解出来ないまま、私は渋々丹の提案に従った。
「絶対に、町で会おう」
そう言うと、丹は笑顔で頷き、私の身体を抱きしめた。これを最期にするわけにはいかない。丹の温もりを存分に感じながら、私は強く心を引き締めた。
切ない抱擁を惜しみながら解くと、丹が強く言った。
「行こう」
二人で洞を飛び出してからは、お互いに自分の事だけを考えて七海町を目指した。丹の黄金の狼姿がきちんと東の道へと消えたかも確認出来ぬまま、私は銀色の狼の姿をさらして西の道へと突き進んだ。
それから暫くして、丹の遠吠えが聞こえた時になって、私はようやく彼の真意を知ってしまった。
「……丹!」
思わず立ち止まった。声はとても遠い。何処にいるか分からない。
彼は挑発していた。狼の言葉で敵を挑発していた。
最初から、自分だけ囮になるつもりだったのだ。
「ああ……そんな……」
狼狽していたのも束の間、私はふと別の気配に気付いた。
丹の声は遠い。だが、私の周りにはいつの間にか近づいて欲しくない臭いが立ち込めていた。恐怖に駆られて走り出すも、既に全ての逃げ道は断たれていた。丹の遠吠えが響いている。声が頻繁に移動しているということは、彼は彼で追われてはいるのだろう。
だが、丹の目論みは失敗に終わった。
あっという間に私は取り囲まれ、尾が腹に巻き付くより先に観念して人の姿に戻った。心細さに身を預ける場所など何処にもなく、無様に膝をついて震えを堪えるのに必死になっている内に、この場を仕切る者が私と視線を合わせてきた。
あの少女だ。鬼族の少女。
その額には角の名残があるのだろうか。
「鳳兄さんに伝えて」
彼女の指示を受けて、敵の人狼が野太い声を上げる。
鬼族の少女は私の目をじっと見つめたまま、おもむろに手を伸ばしてきた。逃れることも、噛みつくことも出来ぬまま、私は茫然としていた。
頭の中が真っ白だった。
このままどうなってしまうのか、考えたくもなかった。
頬に触れられ、身体が震えた。
「いい子にしていれば、傷つけたりしない」
少女は言った。
「綺麗な髪だけれど、さっき見せてくれた獣の姿はもっと綺麗だった。きっとあなたならいい繁殖になれるでしょう」
「繁殖だと……」
その言葉に不快感をあらわにすると、周囲の男達が蔑むような目で見つめてきた。
彼らの様子に、私はある噂を思い出した。
獣人は立派な毛皮や羽毛を持っている。死して残すその毛皮や羽毛は、価値も高く、古くは同じ民でありながら公然と狩られ、売りだされるものだったらしい。今だって、聖樹を抱える他国では奴隷の身分が存在し、獣人達が生まれながらに毛皮や羽毛、時には肉が目的で売り買いされている場所もあるらしい。
勇敢の国では禁じられていることだが、闇市は存在し、今でもこっそり人狼の子が高値で取引されている。孤児であることも多いが、獣の姿を持つような純血の獣人は特別な理由がない限り孤児になる可能性は低い。ならば、頻繁に売り買いされるという獣人の子は何処から来ているのか。
噂には聞いたことがある。
行方不明となった獣人は何処かの施設に監禁され、奴隷売買の為の「繁殖」という尊厳を踏みにじるような立場に落とされるのだ。生まれた子供はある程度育つと奪われ、高値で売られてしまう。そうやって金を稼ぐことで、勇敢の国の根底を腐らせていく悪人達がいるのだと。
飽く迄も噂だと思っていた。怖い噂だと。他人事だと思っていた。
それなのに、私は、このままでは――。
髪をすらりと少女が撫でていく。人の姿をしているこの私を、獣のように愛でている。腹立たしいよりも先に恐怖が勝った。
怯える私の髪を握りしめ、少女は言った。
「悪く思わないで。わたし達も必死なのよ。神龍に従わなくては夢幻の民の血は滅んでしまう。エルリクとのいがみ合いは激しさを増すばかりよ。守ってくれる聖樹は何処にもない。だから、常に新しい魔族の血が必要なの。この国に恨みなんてないわ。あなたにも恨みなんてない。でもね、形振り構っていられない。いい子でいたって意味がない。他人を蹴落としてでも生き延びなければ、わたし達は生きていけないの」
「……饕餮。そんなものに、お前は鬼の血を泣かせているのか。エルリクが怖いのなら、そんなものに従うのはやめろ。聖域を取り戻せ。決起して夢幻の鞭をあの怪物から取り戻せばいいじゃないか。魔族のくせにそんなことも出来ないのか、腰抜けども」
辛うじてそう言うと、少女の張り手が私の頬を襲った。
「無責任ね。生意気言わないで。そんなことが出来るとでも思っているの? あなた達、元々は神様だったのよね? 笑っちゃうわね、大神の末路って。ずっと人間たちを守ってきたのに横暴な神に魔物として退けられるなんて、ひどい話じゃない。祖先を追い出したような神様の下でぬくぬくと暮らして、あなた達は恥ずかしくないの?」
「煩い……私達は勇敢の民だ。ただの魔物ではない。人間の血も引いている。大神だって――先祖だって人間と共に歩むことを選んだのだ」
「あらそう。でもまあ、そんな事どうでもいいの。人間だから何? わたし達が望むのは、あなたが人狼であること。狼に変身できるのなら、あなたには価値がある。あなたの血を引く子は将来何になるのかしらね。強い兵士? よい繁殖? 見世物? 愛玩? ああ、それとも小さな毛皮かしら?」
「……やめろ!」
煽られるままに歯向かおうとする間もなく、彼女の仲間の男達が私を取り押さえた。
「このケダモノ。凰様に歯向かおうとは生意気な」
力ずくで地面に押し付けられて、悲鳴が漏れだした。そんな私を鬼の少女はくすりと笑いながら見下している。
悔しかった。今すぐに八つ裂きにしてやりたかった。
けれど、私には力が足りない。足りなかった。
鳳に凰。どうせ偽名かもしれない。しかし、その名前は頭に刻んだ。兄と言う事は、もう一人いた鬼族の青年の事だろう。このまま生まれ持った全ての尊厳を奪われて過ごす事になるのだとしても、この憎らしい兄妹のことは忘れたりしない。
いつか復讐してやる。そう心に誓っていると、何処からか遠吠えが聞こえてきた。丹のものではない。別人の遠吠えだ。
「返事がきました。……取り逃がしたようです」
丹のことだ。彼は逃げられたのだ。
それが分かっただけでも、ほっとした。
――せめて、彼だけでも。
「そう。でもいいわ。こっちには餌がある。狼の夫婦の絆は固いそうじゃない。一匹よりも二匹。試してみましょうか」
「……何をする気だ」
丹に牙が向けられた。そう思った途端、これまでの恐怖が吹きとんでしまうくらいの怒りが生まれた。力いっぱい取り押さえられている状況では逃れることも出来なかったけれど、心の底からの殺意を込めて私は凰を睨んだ。
しかし、凰はにこりと微笑みを返すと、手早く別の仲間に指示を送った。暴れ出してみるも逃れる事は不可能だった。取りだされた布に含まれる薬品の強烈な臭気は、近づけられるまでもなく伝わってくる。
ここで気を失う訳にはいかない。
けれど、抵抗は虚しいだけだった。
「安心なさいな」
吐き気と共に意識が薄らいでいく中、凰の優しげな声だけが頭に響いた。
「愛する人も一緒よ。寂しい想いをさせたりしないから」
そのままぐらりと視界は暗転した。
夢は見なかったのだと思う。
気を失ったのは一瞬のようにすら思えた。
だが次に目を開けた時は、それから随分と経った後だった。
焚かれた炎の揺らめきをぼんやりと眺めて暫く。私は急に自分の置かれている状況を思い出して絶望した。
人の姿でいるのに、私は犬のように繋がれていた。
後ろ手に縛られ、口は布で塞がれている。首に繋がる縄を外すことは出来なかった。変身したとしても、この現状は変わらないだろう。後ろ手に縛られたこの状況だと、身体を壊してしまうかもしれない。
私が目覚めた事に気が付くと、一人の青年が近づいてきた。
やけにはっきりとした顔立ち。鬼族だということは臭いで分かった。彼が凰の兄、鳳なのだろう。恨みを込めた目で睨みつけると、鳳はにやりと笑って私の頭を撫でた。
「なるほど、確かに綺麗だ。人間として見てやるなら、祖国の種犬どもにくれてやるには惜しいくらいの美人だろう」
怒りに震える私をからかうように、鳳は私の頬から首筋そして更にその下までに手を這わせていった。屈辱に耐えていると、遠くから声がかかった。
「兄さん、悪ふざけは止して」
異国語ではなく、私にも分かるこの国の言葉だった。
「その子の相手は母国の種犬なんかじゃない。今まさに此処に来ようとしているのよ」
――丹が。
「分かっているさ、可愛い妹よ。何もかもお前のお陰で無事に仕事を終えられそうだ」
鳳が呆れ気味に立ち上がる。
「出来のいい妹をもって、兄さんは肩身が狭い。見ろ、仲間達のこの憐れむような眼差しを。凰、お前は本当に自慢の妹だ」
そこで困惑したような仲間の声があがる。きっと母国語だろう。何を言っているかは分からなかった。
「馬鹿者、この国の言葉を話せと言っただろう」
鳳の一言で口を挟もうとした男だけではなく、他の仲間達までも黙りこんでしまった。これだけで彼らの順位が分かるというものだ。特に私達の同胞を仲間に入れている為だろう。やけに上下が厳しく思えた。
それにしても、人狼が三人もいるなんて。
彼らは何も感じないのだろうか。同じ始祖を持つ仲間をこのように狩ることに疑問を持ったりしないのだろうか。
ああ、しないのだろう。同胞だからと誰も彼もが危害を加えるのを躊躇うのであったら、この世には殺人も強盗も誘拐も人身売買も起こらない。期待するだけ無駄なのだ。捕まってしまった時点で私が悪い。これが私の運命なのだろう。
――ああ、だから。
だからせめて、丹だけでも安全な七海町へと逃れて欲しい。
――欲しかったのに。
「来た」
妖艶に笑いあう鬼の兄妹。その目が見つめる先に現れた人物を見た途端、私は涙を流してしまった。
丹。太陽のような黄金の人が迷うことなく此方に向かってきていた。
彼は一瞬だけ私を見つめた。穏やかな色をしたその目が確認したのは、私の無事だろうか。今となってはもう分からない。すぐに彼は私を捕える密猟者達へと目を向け、そして猛々しい声で叫んだ。
「悪人ども」
これまでに見たこともないほど荒々しい表情だった。
「妻をかえして貰いに来た」
今まで見たこともないほど愛おしい逞しさだった。
威風堂々とした彼の前に鳳と凰が向かう。
どちらも人狼よりも力のある鬼族。その血の濃さはきっとこの聖域の中に存在するのがやっとという所だろう。
それでも、丹は怯えたりしなかった。
「待っていたわ、狼のご主人様。来ると信じていたわ」
この国の言葉で凰が微笑みつつ丹に声をかける。
「わたし達の願いはただ一つ。あなたにも従ってもらいたい。あなたの態度で奥様の待遇が決まる。わたし達を煩わせるようなら、愛する奥様は祖国の種犬どもの慰みものになるでしょう。けれど、あなたが従順ならば、奥様の貞操は守られる。さあ、どうするの?」
「賢い選択を信じているよ」
鳳が今度は言った。
「君たちは大神の子孫なのだろう? 賢い選択は何か、よく分かるはずだ」
丹は賢い男だった。
だが、大神としての誇りは誰よりも強い。そうでなければ、旅先で見かけた人狼の悪党を躍起になって取り押さえるようなことはしないだろう。
『逃げて!』
何もかもが動きだしてしまうより先に、私は人のまま狼の唸り声をあげた。布で口を抑えられていても、この言葉は分かるはず。私の行動に気付いた人狼の男が透かさず振り返り、腕を振り上げる。
「この雌犬っ!」
殴られると思い目を瞑ったその直後、事態は動きだしてしまった。
「ぐっ……き、貴様っ」
男のうめき声に目を開けてみれば、目の前で人狼の男が苦しそうに蹲っていた。地面を汚すのは彼の血だろう。鬼族の兄妹が驚いた様子でこちらを振り返っていた。
丹は何処だろう。
慌てて捜していると、私を拘束していた縄が全て解かれた。
「怖い思いをさせてしまったね、すまない」
口早に丹の詫びる声が聞こえた。口の布を解かれると同時に、感嘆の声が漏れだす。助けてもらえた。見捨てられる覚悟が一気に解け、身体の力が抜けてしまいそうだった。
「安心するのは早い。ここから逃げなくては」
「させるものですかっ!」
我に返った凰の声が響き、彼らの仲間達が一斉に襲いかかってきた。
丹は真っ先に姿を変え、黄金の狼の姿で私を先導した。それに続く形で、私も狼となってその場から逃げ出そうとした。
「逃がすなっ!」
鳳の鋭い命令に従って密猟者達が姿を変える。
恐ろしさの余り振り返ってしまった。誰も彼も人間の姿をしていない。狼に馬に鳥。その他の者達も人間の皮を被る事を諦め、本来の魔獣らしい姿で追ってきていた。
「前を見るんだ、白椿!」
丹に言われて、私は慌てて行く手を見つめた。
前を走る彼の姿はまさに黄金の導き。ついて行けばきっと大丈夫。そう安心させるほどの堂々とした姿であった。
私達があんなつまらない連中の餌食になるわけがない。そう信じていた。
「止まれ、野良犬どもっ!」
行く手を数名の化け物に阻まれた。
だが、丹は止まらず、そのまま突っ込んでいった。
「丹っ!」
叫んだ時には二名程の男が人間の姿に戻って倒れていた。おそらくは、人間の血の濃い者達だったのだろう。血を流して倒れる彼らの様子を窺うと、丹は吠えた。
「止まるな、逃げろ!」
黄金の毛並みが赤く染まっている。
丹の傷ではなく、今倒した男達の返り血。そうと分かっているのだけれど、不吉で仕方なかった。まるでその血によって丹の体力が奪われていくような気がしたのだ。
虫の知らせだったのだろうか。
「よくも仲間を傷つけてくれたな」
追いついてきたのは人馬の男。
逞しい蹄で私と丹を踏みつぶそうと襲ってくる。普通ならば一頭の馬など二匹の狼でかかればなんてことないが、相手はただの馬ではなく人馬。それに厄介な仲間がいる。いちいち相手をするなんてことも出来ぬまま、時折丹が足を狙って噛みつこうとした。
しかし、私達はすぐに思い知った。人馬は囮だったのだ。
気付けば行く手では鳳が一人で立ち尽くしていた。目立った武器を持っていないが、それだけでは侮れない。何故なら彼は鬼族。その妖力は人狼など震えあがらせてしまうほどのものなのだ。
私だけならば、もうここで諦めていただろう。
けれど、丹は違った。
「道を通せ、悪人め!」
恐ろしい唸り声と共に丹は飛び掛かった。
本気で、鳳を噛み殺すつもりだったのだろう。その切羽詰まった狼の勢いに、鳳は真正面から迎え撃とうと構えた。
一対一だ。
私はそう思った。きっと丹もそう思っていただろう。
しかし、私達は失念していた。相手はただの勇猛な狩人ではない。異国より我が勇敢の国を蝕みに来た密猟者なのだ。
「かかったな、ケダモノ!」
鳳が嘲笑したその瞬間、鋭い風が通り過ぎていった。
風ではなく刃だと分かったのは、煌めきが見えたから。何が起こったのか、それ以上の理解を進めたくはなかった。それでも、その答えはもたらされる。私は認めたくなかった。信じたくなかった。丹が……丹が血を流して倒れているなんて、嘘だと思いたかった。
「これでもう逃げられない」
淡々と言ったのは凰だった。
身を潜め、兄を囮にし、魔術で丹の首を斬り裂いたのだ。
「ま……こと……」
状況がやっと頭に入ってきて、私は彼の傍へと近寄った。震えている。寒いのだろうか。丹は震えたまま、私へと目を向けてきた。血だらけだ。どうしたらこの血を止められるだろうか。このままでは、丹は――。
「にげて……」
丹はどうにかそう言った。
「君だけ……でも」
彼の目に浮かぶ涙。見ているだけで辛かった。
「愛……している……白……椿……」
それっきり、言葉は絶えた。
私は何も言えなかった。何も伝えられなかった。どうすればいいのかも分からぬまま、固くなっていく丹の亡骸に縋りついた。
「丹……丹っ!」
死なないでくれと、そう訴えるので必死だった。
周りの状況などどうでもいい。今すぐに、丹を起こしてくれと。
「残念だが、こいつは諦めるしかないな」
悲しみに浸る私にとって耳障りな声はあがった。
「仔を産めるのは雌だもの。雌が手に入ればそれでいいわ。蛮勇は何にもならないのに馬鹿な雄犬ね。愛したものを守ることも出来ず、野蛮な種犬に喰わせることになるなんて」
「あまり意地悪な事を言うんじゃないよ、凰」
――こいつらが。
起きあがり、その姿を目に映すと、心身の奥底で炎が灯った。
この炎はただでは消えない。
鳳と凰。それだけではない。こいつらに加担した全ての者を殺さない限り、治まることはないのだろう。
睨みつける私を、凰は不敵に笑みを浮かべながら見つめる。
「何よ」
発音は完璧だ。ならばこの国に侵入してさほど短くもないのだろう。
「あなたも『毛皮』になりたいの?」
我慢の限界だった。
人形のようなこの小娘をばらばらにしてやりたい。こんなにも暴力的な感情を抱いたのは初めてかもしれない。人狼として持てあましていた力の全てを解放し、私は凰に躍りかかった。凰も素早く応戦する。鬼族として恵まれた妖力をふんだんに使い、私を迎え討つのに十分な力を発揮する。
はたしてこの世に神はいるのだろうか。
いたとして、私や丹は勇敢の民として認められていたのだろうか。
私の爪と牙が美しい凰の手足を引き千切るより先に、鬼族の妖力が存分に込められた魔術――丹の命を奪った悪魔の力は、私の身体に思い切りぶつかった。
痛みは思っていた以上に酷いものだった。
悲鳴は意識せずに漏れだし、狙いはそれて凰の真横を通り過ぎる形となった。
「いけない、追うんだ!」
怒声のような鳳の声が聞こえてきたが、私は混乱していた。
痛みは強く、どくどくと脈打っている。魔術で傷つけられたのが何処で、どんな具合なのかを確認している暇もなかった。
これ以上戦えば、これ以上の痛みを与えられるのだ。そう思うと怒りも引っ込んだ。炎を灯したまま、私はひたすら前へと逃れた。猟師から逃げるケダモノのように走り続けた。
だが、私は神に嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
死ななくてはならないような事を、私はしてしまったのだろうか。
逃げ続けた先に待っていたのは断崖絶壁。見下ろせば地面は遥か下だった。逃げ道を変えようと慌てて振り返れば、すでにそこには密猟者達がいた。
鳳と凰が息を切らしながら私に迫る。
「さあ、もう逃げ道はないぞ」
「大人しく従いなさい」
手に持っているのは縄だ。このままだと待っているのは生き地獄か、あの世だろう。ならば、どちらがいいか。
――丹……私を許してくれ。
あの世のほうがずっといい。
「やめなさいっ!」
彼らが止める暇も与えず、私は崖へと飛び出した。
密猟者達の悲鳴が上がっている。私は空を飛ぶような気持ちで遥か下に見える地面に落ちていった。
大神の夫婦として正しい行動はなんだったのだろう。
死ぬまで戦い続けて、夫の仇をとることだろうか。しかし、私は分かっていた。どうせ死ぬのなら、奴らの手にかかりたくはない。負ければ私は奴隷となる。大神の子孫ならば誰もが耐えられない屈辱だ。
丹は死んでしまった。私の夫は丹だけだ。
突如与えられたこの別れには後悔しかない。
彼は私を愛していると言った。それなのに、私は何も言えなかった。何も。
遥か下に見えた地面も着地してみればあっけない。まんまと逃げ道を得られた私は臆病な兎のように前へ前へと逃げ続けた。
もう追いかけてはこない。
それを実感するまでは、足を止めることが出来なかった。




