3.大神の夫婦
月下に住む全ての男性と比較しても、丹は美しい人だったと思う。真心の意味を込めたその名前をくれたのは母だという。けれど、彼の両親は何処にもいなかった。
彼は孤児だった。勇敢の都などに溢れる孤児とは違い、丹は林の中で捕えた動植物を町で売ってどうにか暮らしていた。
元々、彼もまた町人だったと聞いている。けれど、その両親は知人に仕事を紹介され、外出したまま行方不明になり、家で留守番をしていた彼だけが残されたのだという。その後、彼は、彼を引き取る余裕のない親族の伝手で、林の中に住む心優しい純血の人間の家族のもとへと引き取られた。
老いた老人とその孫娘の家族。しばらくはそこで楽しく暮らしていたらしい。人狼である彼は子供なりに人間の家族の為に尽くしたのだという。しかし、そんな日々も長くは続かなかった。盗賊によって人間の家族が殺されてしまったためだ。
丹はまたしても無事だった。
二度に渡るこの不幸で、人々は丹を気味悪がるようになった。
同じ人狼の親戚までもが彼の引き取りを拒否し出し、丹は一人きりで暮らさなくてはならなくなった。幸い、丹の集める品々は評判も悪くなく、それ以上は気味悪がる町人もいなかったため、どうにか暮らせたらしい。
私が初めて丹にあったのは、林の中でのことだった。
心配がる両親を誤魔化しつつ林に入ったのは、魔鳥の一種である渡り鳥の巣を見つけたからだ。そこで雛が顔を覗かせるのが楽しくて、幼い私は毎日のように林の中へと訪れた。そんなある日、いつものように鳥の巣の木の下へと訪れてみれば、そこに彼がいたのだ。
眩い金髪は物珍しい。私の銀髪もそうそういないらしいが、母より受け継いだ色であるので見慣れているし、父親はこの国の人間たちにも多い黒髪。人狼の親戚の中にも金髪のものはいなかったので、なおさら珍しいものに思えた。太陽の煌めきのようなその姿に恍惚としていると、丹は私の訪れに気付いて微笑みかけてきたのだ。
「やあ、町の子だね。……君も、大神の子なんだね?」
月下は大神信仰の中心地。けれど、町に住まう住人に人狼が多いわけではない。
丹だって一人息子であったし、私には妹たちこそいるが、それ以外には親戚にさえ子供が少ない。赤の他人にもう一、二家族ほど人狼の家があった気がするが、親しい間柄でないので、同じ年くらいの人狼の子供という存在自体が物珍しくもあった。だからこそ、興味を抱くのは当り前のことだった。
「怪鳥の子を見に来たのでしょう? ほら、もうあんなに大きくなっている。親鳥が来るのを待っているんだね。無事に大きくなったら、聖域の外にも行くのかな?」
「多分、そうだろうね。そうなったら寂しくなる」
二人で木を見上げながら語り合うと、少しだけ心が温まった気がした。
魔鳥の雛を同じ大神の子同士で見上げている。秘密の共有が楽しくて仕方なかった。その上、その相手がこんなに綺麗な男の子だなんて。
「ねえ、よかったら名前を教えて。僕は丹っていうんだ」
明るく訊ねられ、私はおされるままに頷いた。
「私は……白椿」
「白椿か。綺麗な名前だね。君にぴったりだよ」
美しい少年に微笑みながらそう言われて照れないはずがなかった。
丹。彼の存在はよく知っていたけれど、こっそり会って遊ぶまでに仲がよくなったのはこの時が初めてだった。両親にも内緒の友人。魔鳥の雛が繋いでくれた絆。
成長と共に、私と丹の関係は段々と変化していった。同い年の友人から、男女の差を意識するような関係に。
私がようやく丹との絆を両親に紹介した時、それは、友情などではないもので心と心が繋がれてしまってから後のことだった。
両親はあっさりと私達を許した。私も丹も十六歳の頃だった。
家の事は妹たちに任せ、私は丹と二人町を飛び出した。
ああ、あれは一体何年くらい前のことだっただろう。
まだ幼かった妹達は成長し、親を支えているのだと聞く。自由奔放の姉とは違ってしっかりした子たちだ。だからこそ、私は安心して丹と二人で勇敢の国のあちらこちらを流離うことが出来たのだ。
人狼には禁忌がある。勇敢の民としての尊厳を保ちたいのならば、生まれ持った人狼の力を悪事に使ってはならない。かつて大神と崇められた先祖の事を誇りに思い、純血の人間よりは恵まれた身体能力は、人助けの為に使え。耳にタコが出来るくらい父母に教えられたことだった。
丹もその教えをきちんと守る人だった。訪れた先で人狼による悪事が発覚すると、その犯人を捕えるべく率先して住人と協力し、優れた嗅覚で何人かの悪人を捕えたことだってある。彼は英雄なのだ。私にとっては永遠の英雄。
多くの勇敢の民達は善良な人狼と悪い人狼とを区別して考えるものだ。人狼は悪である、という思想が異国人から伝わって来ることはあっても、大神伝説が砦となって流行るようなことはなかった。
今も現存する豊穣の国や英知の国からはそれでも度々狼は悪という話が入って来るが、その理由は二百年ほど前の大戦が影響している。あの時に悪用された勇敢の剣は、大神の子孫だったと言われている。今の勇敢の剣のような半端者ではなく、私たちのようにしっかりと両親からその血を受け継いだ純血の黒狼。
豊穣と英知では彼女の印象はかなり悪い。公式な記録や一部の伝承では、勇敢の剣にいた悪い権力者に利用された可哀そうな武器として登場するが、そうではない話も多いのは、それだけ彼女が各国の民を恐怖に陥れたからだろう。
直接的にその恐怖を伝える話が飛び込んできても、何故、勇敢の民の心に響かないのか。それは、勇敢の民が当時悪用された勇敢の剣に対して同情心を抱いていることが多いからだ。剣に施されたのは服従の術。高度な才知をもつ魔術師が武器を支配するために幼い頃から仕込むという恐ろしい魔術だ。そこには尊厳もなにもない。当時から民の多くはその現状を知り、感謝と共に同情したものだった。
勇敢の剣はいつも国民に好かれている。その印に選ばれるものの半数ほどは人狼の血をいくらか引いた者である。そのこともあって、大神信仰は廃れたりしない。
ならば、もっと我々は大切にされてもいいのではないだろうか。保護されたっていいのではないだろうか。
丹と二人で旅をし続けて十年以上経つ間に、私はたびたびそんな不満を勇ましいこの祖国へと抱いたものだった。
「……まずいな、七海町までまだまだなのに」
月の美しい秋の夜、山道のなかで丹は言った。
そのとき、私と丹は国内南部にある七海町を目指して旅をしていた。北部の冬は厳しい。それにくらべて、南部の冬はまだましだ。寒さに強いという大神の子孫であっても、いつまでもずっとケモノの姿でいるつもりはない。人間らしい姿でいるならば、冬は出来るだけ温かい方がいい。
月下の冬はなかなか寒いものだったが、その寒さをどうやって乗りきっていたか忘れてしまうほど、ここ数回の冬は南部のいずれかの地域で過ごしたものだった。
あれは、去年の事だったと思う。
遥か昔にも思えるし、ついこの間にも思える。
これまで歩んできた山道を振り返る丹が何を気にしているのか、その答えが私の嗅覚にも伝わってきていた。
金髪に銀髪。目立つ容姿を隠すのは異国生まれの外套である。地味な色の帽子で頭を隠さなければならないのは、山道や林道という人気のない道では、勇敢の国の憲法が守られにくいためだ。特にこのような場所で、私達が人狼であることを知って近づいて来る者に、善人など殆どいないだろう。
丹は私に言った。
「落とすような荷物は持っていないよね」
静かに「持っていない」と答えると、丹も頷いた。
荷物は最小限。身に着けていれば、オオカミとなった時に毛皮と同化する。人狼の変身能力が物理的なものなのか、まやかしに過ぎないものなのかが議論される一因でもある。一説ではその正体は死した時に残される毛皮が答えとなっているとのこと。
そう、人狼は死ねば狼そのものになる。身につけていた衣服も荷物も、その時だけは毛皮に同化せず、その場に落ちてしまう。よく知られた現象だ。この現象をあげて、人狼が人に見えるのは、そういう幻覚を見せているからであり、それならば人ではないのだと密猟を正当化する悪党もいる。
私達にも答えは分からない。狼の姿の時は四足歩行をし、人間の姿の時は二足歩行をしていると思い込んでいる。狼の姿の時は楽に身体を動かせるし、人間の時はモノだって掴むことが出来る。衣服やバッグを身につけ、物を運ぶのには便利だ。それだけしか実感出来ない。事実なんてわからない。
古代の魔術師は衣服を着たまま鳥や獣に化けることが出来たという。それと同じことが出来ているのだと思えば、私たちは狼でもあるし、ちゃんと人間でもあるはずだった。
きちんと教育を受けた私はその説を信じている。魔術師と一緒。魔法のようなものなのだと。
しかし、問題となっているのは真実がどれかということではない。他人にどう思われているかだ。ケダモノなのか、人間なのか、相手がどちらで認識しているかは重大な問題だった。
私たちをひっそりと追いかける者たちの臭いは風となって襲い掛かる。人気のない林道で、挨拶する気配もなく私たちを追いかけてくる者が、只者であるはずもなかった。彼らが私たちを勇敢の民として見ているのか否か、無視できない問題である。何故なら、この国は決して善人だけの国ではないのだから。
国民を対象にした密猟は珍しいことではないのだ。このまま放っておいても、私たちは猟銃で撃たれ、生まれ持った毛皮をさらすだろう。違法だと訴えたところで、発覚しなければいいという答えが返ってくるだけのこと。
そう、もう私たちには逃げる以外の選択肢が残されていなかった。
「変身して逃げる?」
こっそり訊ねてみるも、丹は首を振った。
「――そうしたかったが、もう遅いようだ。下手に奴らを刺激してはいけない」
「奇妙な臭いがするね。まるで同胞のような」
「ああ、同胞の臭いもするね。奴らの飼い犬だろう。俺たちと同じ嗅覚をもつならば、侮る事は出来ない。――それに」
ふと丹が再び振り返った時、その顔に警戒の色が浮かんだ。
釣られて見てみれば、先程までは誰もいなかった山道に、一人の少女が立っているのが見えた。頼りない身体つきの少女。年の頃は十代後半だろう。この国の民の特徴を持つ容姿ではあるが、いささか異国の雰囲気が漂っている。
やがて、異国の者かもしれないとそう思ったのは、その少女がただの人間ではないと気付いた。
「……鬼族」
丹が呟いた通り、純血の鬼族がそこにいた。
勇敢の国に住まう鬼族ならば、その多くは名門の家柄のものであり、恵まれた職種についているものだ。そうでない鬼族は勘当されて家を出たものか、多くは他所の国より流れ込んだ異国人である。
あの姿。あの服装。
ああそうだ。彼女はきっと異国の者。千年近く前に滅んだという夢幻の国の末裔であるだろう。聖域の破られたそこでは鬼族ですら弱者だと聞く。饕餮の国では純血の魔物でなければ権力を得られない。
だからこんなコソ泥染みた身形で鬼の血を泣かせているのだろう。
「まだ年端もいかぬ少女なのに」
丹が嘆く通り、悪事に加担するには幼い。
しかし、同情してばかりはいられなかった。
「可哀そうに思うのならば、まずは話を聞いてくれるかしら」
異国の訛りはあるが流暢な言葉で少女が口を開いた。武器のようなものは持っていない。それでも、こんな山道に一人きりで立つ少女が只者でないわけがないだろう。既に私達は取り囲まれている。そんな臭いがぷんぷんした。同胞の臭いも何処かに紛れている。木々の間から様子を窺っているのだろう。
「あなた達の正体は分かっている。分かった上で、協力をお願いしたいの」
「協力?」
訊ね返す丹に、少女が微笑んだ。
「悪い話ではないわ。それなりの待遇よ。わたし達と一緒に夢幻の国に来て。わが国で優れた兵としてもてなすと約束する。人材が欲しいの。我らの長、神龍を悪しき者から守るために、偉大な狼軍の一員になってくれないかしら?」
「神龍……饕餮の事か」
丹がそう言うと、少女の表情が少しだけ歪んだ。
「あの御方をそのように呼んでは駄目。今後のあなた達の為にはならない。神龍は優しい御方だけれど、側近は厳しい御方たちなの。来て。心配せずとも奥様の安全は約束するわ。ちゃんとした立派な場所で守ってあげる。いつか生まれるかもしれないあなた達の子供の教育も保証するわ」
傲慢なその態度に不快感を覚えたが、口答えをする勇気はなかった。
小娘の容姿をしていても、相手は鬼族なのだ。人狼は鬼族よりも格下。大神と人間の合いの子に過ぎず、そのものではない私達にとって、鬼族とはもっとも魔物に近い危険種である。聖域を越えられるなんてインチキだと思っても仕方ないほどだ。鬼族と人間の混血でやっと純血の人狼と同等という程度だろうか。なにはともあれ、下手に相手をするのは賢くない。
「悪いが……」
丹も私と同じ考えのようで、出来る限り丁重に答えた。
「せっかくの誘いだが、そういうわけにはいかない。俺達は勇敢の国の民だ。夫婦共にこの骨を埋めるのは勇敢の聖樹の守る聖域と決めている。異国は確かに興味深いが、わざわざ行こうなんて思いを我々は持っていない。申し訳ないが、妻を安全な場所に残して一人で兵に、だなんて性に合わなくてね」
刺激しないようにとの配慮だが、私も丹も緊張を深めていた。
この丁寧さにかけたのは微かな期待だった。これがただの誘いであればいい。そうでなくとも、私たちのことを話の通じる相手だと思ってもらえれば、ひょっとしたら躊躇いが生まれるかもしれない。相手がケダモノではなく人間だと思って貰う事が重要なのだ。
現にそうやって危険を回避した事はあった。
我が国の者であっても、饕餮の国の者であっても、密猟などに手を染める者は、そうせざるを得ない事情を抱えていることが多く、嫌々悪事に従事していることだって多い。根っからの悪人などそうそういるものではないのだ。ましてや小娘。根は優しい娘かもしれない。
しかし、私達の期待はあっさりと打ち砕かれた。
「そう。そう言うと思った。でも、残念ね。わたしたちには目標があるの。最低でも一匹。新しい魔族の血を、我が国に持って帰らなくては、わたし達の首が飛ぶ。つまり――」
にっこりと笑いながら、鬼族の娘は言ったのだ。
「あなた達に断る権限なんて何処にもないのよ」
それが合図だった。




