2.神聖なもの
夜空の下。
満月の近づくこの夜に包まれながら、私は茫然と紅を見つめていた。
警戒心しか抱けない。当然だ。果実が欲しいとこいつは言った。この国、いや、この世界でそれが何を意味するのか分からないほど私は無知ではない。
「果実の巫女をこの手で抱きたい。果実さえ抱くことが出来るのなら、あなたの願いを幾つも叶えてあげるわ。毛皮を取り戻す、あなたが本当に叶えたいのは、何もそれだけじゃないでしょう?」
怪しげに訊ねられ、口ごもってしまった。
――果実を抱く?
いや、そんな言葉で惑わされては駄目だ。この女が言ったのはつまり、果実を奪うということ。この国において……いや、聖樹を守り守られる国においてそれはこの上ない大罪。かつてそうして滅んだ国が五国もあったという話は、子供の頃の私の心にも多大な恐怖を与えたものだった。
――私を大罪人にするつもりか。
恐ろしい。何を言っているのだ。やはりこの女は悪魔だ。甘い言葉で人を惑わし、道を外れさせようとする者。神に背く者。天使の名を騙る危険な女。
――けれど……。
私は俯いたまま黙ってしまった。
本当に叶えたい願い。その言葉に囚われていた。私が願うのは丹に会うことだけ。ただそれだけでいい。それだけでいいと自分に何度も言い聞かせていた。何を動揺しているのだろう。悪魔の言葉になど耳を傾けてはいけない。破滅は必ず訪れる。丹と同等の死を得たいのならば、こんな言葉に惑わされていいはずがない。
「どうやら力を貸して貰う事は出来ないようだ」
動揺を隠しつつ私はきっぱりと断った。
そっぽを向くのは拒絶の表れ。だが、それだけではなく、逃げの心でもあった。紅の赤い目には人の心を惑わす魔性が宿っている。伸ばされる手を握ってはいけないとどんなに心に誓っても、伸ばしてしまえと誰かが唆しているようで怖かった。
それでも、私は理性を保って背後にいるはずの彼女に言った。
「果実の巫女は守られるべきもの。手を出してはいけない事くらい、私も心得ている。いくら純血の人狼だろうと、そのくらいの知性はあるつもりだ」
「あらそう、素っ気ないのね。神がその関心を地上に向けるまでは、あなた達の祖先が盾となって人々を守っていたのでしょう? 大神の娘」
「大神……? ケダモノの間違いかな」
「もっと誇りを持ちなさいな。あなたは古の神の系譜。私の従ってきた神よりも、人々をはっきりと守ろうとした者たちよ。そんな彼らにこの仕打ち。聖域が彼らまでも魔物と判別する事もまた、神の計算外のことだった」
「……計算外、か」
随分とそそっかしい神様なことだ。
「今の聖樹信仰は神の思し召しではない。人は間違った流れにどんどん流れていくもの。勇敢の剣の印があるからと、当然のように人一人を神殿に捧げ、この国の礎とする今の風習は間違っているでしょう。だから、私はそれを変えたいの」
「その為に、果実を費やすと言うのか」
「ええ、果実を使って聖樹を生まれ変わらせるの。そうすれば新たな悲劇は生まれない。武器は武器として眠り、悪鬼のように人の子に宿るのをやめる。勇敢の剣を今の姿のまま封印すれば、我が子を奪われる母親の悲鳴はもう上がらないのよ」
振り返る気にはならなかった。何故なら、すでに心の半分ほどはその声に耳を傾けてしまっているからだ。このまま振り返れば、私はその手を握ってしまうだろう。そのくらい、紅の主張には正当性が含まれているような気がした。
これは罪ではない。紅の言う通りに動けば、私は私の願いが叶えられる。
「……いや、駄目だ。信じない!」
私は目を瞑って更に拒絶した。
この女がもしも天使などではなかったとしたら。この世に悪魔がいるなどという話は聖典では聞いたことはないけれど、人々の信じる伝承にはよくよくある話だ。悪魔は人の心にいつでも潜んでいる。この女がもしも、私の孤独さゆえの欲望の化身だったとしたら、私は間違いなく誤った道を進もうとしている。
黄金の果実を奪う。
分かりきった大罪に手を貸していいはずがない。
果実はこの国の基盤。かつて丹が愛した世界の全ても、あの聖樹を前提として成り立つものなのだ。丹を愛した者として、彼を感じられるこの世界を壊すわけにはいかない。手を出してはいけないもの。それが、黄金の果実であり、聖樹だ。
「あなたは憐れに思うのでしょう? 勇敢の剣の事を」
「それとこれとは別だ。奴だって納得して私を阻んだ。勇敢の剣の気持ちなんて私には分からない。彼女の幸せを決めるのは彼女のはずだ……そうだろう?」
「あなたはそういうけれど、あなたの心に潜んでいるのは尊びだけではないようね。あなたには恐れがある。不死の者を相手に宝を奪うことなど出来るはずがないという恐れ。本当は自分の願いの為ならば、果実を奪ってでも愛する人の形見を取り戻したいと、そう思っているのでしょう?」
「……やめろ。やめてくれ」
泣き出しそうになりながら、私は無様に両膝をついた。
夜風が私を慰めるようにくすぐってくる。その匂いの何処かに丹の香りがないだろうかと、今でも私は確かめてしまう。
でも、もう戻って来ないのだ。
丹は死んでしまった。死んだものは戻って来ない。弔いの為に毛皮に触れるだけでいいのだ。それでいい。それでいいと納得しなければ。
「それすらも、今のあなたには出来ていないじゃない」
肩に触れられて、私はぎょっとした。
本意は私の心の奥底で眠っている。その周りは胡桃のように固い皮で何重にも覆われている。その一つ一つを玉葱のようにあっさりと剥いてしまう紅の存在が、恐ろしくて仕方なかった。
けれど、恐怖は自分から去ってくれなかった。
「思い出して、白椿。あなたが愛した人の事を。そして、あなたの心に恨みの炎をともした相手の事を。思い出しなさい」
「やめてくれ、お願いだから!」
必死に拒む私の手に紅が触れると、ふと頭の中に情景が浮かんだ。
瞼の裏に広がるその景色に、私は恍惚とした。
記憶にある場所。記憶にある時間。私の姿は幼く、この目に見える全てのものが今よりも全体的に大きく感じられる。そのくらい昔、林の中で、私は一人の少年に出会った。それが誰であったか、何者であったか。
「……丹」
目を開けば、待っているのは現実。
この世界にはもう丹はいない。彼は毛皮になった。毛皮としてしか存在しない。その毛皮さえも触れられない。
「忘れては駄目よ」
紅は私の耳元で囁いた。
「あなたの愛した人の無念を思い出して」
悪魔の囁きが思い出したくもない過去を甦らせる。




