1.勇敢の剣
――混血か。
人狼とそうでない者との混血児がどうやって生まれるのか、私は聞いたことがある。
母親が人狼の場合は、人間の男を慕ってのことか、或いは、人間の女性と偽ってのことである。女人狼に乱暴出来る人間など殆ど居ないだろう。いくらその女人狼が弱々しい気性をしていたとしても、だ。
だが、父親が人狼である場合は、そうでないこともある。生まれる子供は祝福されず、ゆがんだ世界の中で育つ羽目になる。
度々、そういう悪いことが起こるのだと丹が腹立たしげに言っていた日が懐かしい。人狼の一部が悪さをするせいで、全ての人狼が白い目で見られる事となる。大神などと崇められていたのはいつの時代のことだったのか。いまやその信仰ですら、我々の生活を苦しめる鎖となってしまっている。
全ては聖樹信仰のせいだろうか。唯一の神の信頼に我々の祖先が敗北したのだから仕方がない。それでも、私は恨んだ。私達を民だというのなら、神よ、どうして世の中の悪人をのさばらせておくのかと。
「勇敢の剣……」
去りゆく神殿を振り返り、私はふとその言葉を呟いた。
欲しかったのは果実などではない。あの場所の何処かに隠されている丹のなれの果て――死して我らがこの世に残す狼の毛皮を返して欲しかっただけ。それでも、あの場所に没収された毛皮に会う正式な方法は、私の訪れを拒んでしまった。
当然かもしれない。
私は特別な地位も持たない一般人。
人狼の血を引き、ただ思うままに国を流離っていたような女の訴えなど、真面目に聞いてくれる者なんていないのかもしれない。
そう絶望してしまうくらい、私の訴えは聞き届けられなかった。
始めから忍び込もうなどと思ったわけではない。訴えが通り、一目だけでも確認させてもらえたならば、こんな手段には出なかった。
あの場所には丹がいる。丹の毛皮が保管されている。
私の唯一無二の伴侶が待っているのだ。
しかし、神殿の者たちは会わせてくれない。私はどうしたら、会えるのだろう。多額の金を費やせというのか。大した財産も持っていないこの私に。骨を拾う事さえ出来ずに、泣き寝入りしろというのだろうか。そんなのは嫌だった。
果実を傷つけないと言い訳をし、忍び込んだのが数日前。私の侵入を、彼女は真っ先に嗅ぎつけた若い女の姿が頭を過ぎる。
「同じ大神の血を引いているとは思えない。化け物のようだな」
身体を壊しながら立ち向かうその姿は、正直恐ろしかった。脅威だったというわけではない。単純に不気味だったのだ。何が彼女をそこまでさせているのか。そこまでして果実に尽くさなければならない理由があるのか。聖樹信仰を幼い頃より学び、祖先の大神夫婦の功績よりもずっと多くの事を覚えさせられた私でも、勇敢の剣の姿は異様に思えた。
若いから、だろうか。
それとも、そういう生き物なのだろうか。
幼い頃より勇敢の剣はいつの時代も聖女なのだと習った。その通りかもしれない。ただ、印象とは違った。あのように血生臭い聖女だとは思わなかった。そして、気持ちが悪かった。この国があのように若い娘の犠牲の上に成り立っているのだと思うと、非常に不愉快なものを感じたのだ。
あの女は若い。
子供の頃からあの生き方しか許されていない。
このまま寿命を迎える事となっても、あの生き方しか出来ないのだ。
そう思うと憐れだった。同じ大神の血を引くものがあのように飼いならされている姿はあまり見たくないものだ。たとえ、その血が薄いものであったとしても、その血を本人が好ましく思っていなかったとしても、奴は私の遠い親戚に間違いない。
憐れな奴。本当にこのまま印の通りに生きるつもりなのだろうか。
丹が見ていたら、なんと言っただろう。彼女の姿を見て、どんな感想を抱いただろうか。夜空の彼方を見上げながら、私は思いを巡らせた。
「……丹」
あの神殿の何処かだ。それは間違いない。あの神殿へと運ばれていくところを見たから、間違うはずがない。丹の毛皮の匂いをこの私が間違うはずがない。だって、彼は私の夫。心より愛し、永久の絆を古の神の御前で誓った相手なのだから。
そんな伴侶の毛皮を取り戻せずに、いったいどれだけの時間が過ぎていっただろう。
丹は死んだ。殺された。理不尽に毛皮にされて、大神の化身として人に売られそうになっていた。大神の化身だと、腹立たしい。偉大な大神の夫婦を貶しただけでなく、人の命まで奪うなど極悪卑劣な密猟者どもを、どうして新たな神は罰してくれないのだろう。
丹を殺した人物は、もはや何処に消えたのか分からない。
だが、わざわざ捜すなどというつもりはなかった。
「――私はどうしたらいい」
空に訊ねても返事はこない。
丹と二人で広大な空を見つめたあの日々が懐かしい。ああ、丹はどうして死んでしまったのだろう。向かった先は大神の先祖の眠る場所だろうか、それとも、この地に天使を送った『唯一の神』のもとなのだろうか。どちらでもいい。私の訴えを聞いてくれるのなら、何者でもいい。
もう一度、丹に会う方法はないだろうか。
あの毛皮を引き取る術を教えては貰えないだろうか。
あてもなく問うのは虚しい。しかし、何かに縋らなくては気が持たなかった。いっそ、丹を殺した奴らの前に赴いて……と、何度も思いかけては留まった。やはり怖い。丹のように殺されるのは嫌だ。怖すぎる。
あの恐怖を忘れない。ケダモノと呼ばれることもある私の恨みよりも恐怖を勝らせた異国の蛮人たちの、美しくも獰猛な眼光を忘れない。
だからせめて、いずれかの神よ、私に知恵を貸してはくれないだろうか。
神殿の夜を眺めながら、誰もいない丘で私は虚しく夜風に当たり続けていた。
そんな時だった。
風向きが変わると同時に、異様な香りが私の鼻孔をくすぐった。恐ろしく艶めかしい。都や町にて男を誘う遊女たちの香りのようだ。振り返った先に待っていたその姿も、まるで遊女か何かのように艶やかな姿のものだった。
しかし、遊女であるわけがない。それにしては放っておけない神秘さを漂わせている。いや、そんな漠然とした雰囲気だけの話ではない。彼女はいつの間に、私の背後に迫ってきたのだろう。この人狼の私に気付かれることもなく、どうやって?
「お困りのようね」
彼女は目を細めてそう言った。私を恐れてはいないらしい。
「美しい銀髪の女が神殿を侵した。番人達が騒いでいるわ。あの騒ぎは数日経っても治まらないことでしょう」
「あなたは……何者?」
動揺を抑えきれずに怖々訊ねれば、女はくすりと笑った。その仕草の一つ一つが仕込まれたもののようだった。男ならばとっくに悩殺されていただろう。私は女ではあるが、その色っぽさは十分伝わってきた。
「只者じゃない……そんな香りがする」
そこでようやく私は気付いた。
女の背中。私が知っているあらゆる魔族とも合致しない翼が生えていた。ぼろぼろではあるが、その翼は燃えるように赤い。身につけている赤い衣の一部のような色をしていた。翼をもつとしたら獣人である人鳥や蝙蝠人がまっさきに思い当たるが、特徴的にそのどちらでもない。それ以外の魔族を思い浮かべても、あのような翼をもつものは思い当たらなかった。
だが、一つだけ、彼女の姿に思い当たる姿はあった。
「私の名前は紅」
それは――。
「赤い天使。神より使わされた聖樹の母。勇敢の天使よ」
そう、天使。
絵画だろうか、彫刻だろうか、日ごろの生活で私はその印象を何処かで植え付けられている。赤い天使。ここ勇敢の国を建てるきっかけとなった天使。私や丹、そしてあの勇敢の剣の祖でもある大神を追いやることとなった聖樹の母。
いや、そんなわけがない。
天使なんていない。いるはずがない。いたとしても、こんなに俗っぽい天使がいるだろうか、ばかばかしい。それに、ぼろぼろのあの翼。特徴は似ているが、絵画や彫刻の天使とは大違いだ。あの翼。例えるならば悪魔だ。人々の心に巣食う悪魔が幻となって私の前にいるようだ。
「悪魔……あなたがそう思うのなら、そう思ってもいいわ」
心を読まれたのだろうか。
はっきりとそう言われ、背筋が凍りそうになった。
「でも、話だけでも聞いて。白椿、というのよね?」
名前まで。
紅という名前にふさわしい赤い目が恐ろしくて、私は震えてしまった。獣の姿をしていたならば、尾はとっくに腹に巻きついていただろう。
「怖がらないで、白椿。敵意はないわ。あなたの力になりたくて来たの」
「……力に?」
「白椿。あなたには神に縋るだけの願いがある。そうでしょう?」
紅はそう言って神殿を指差した。
「あの場所にあなたの夫が眠っている。美しい黄金の毛皮。彼の思念は毛皮に宿り、あなたに言葉を伝えたがっている。預かっているのは黄金の果実。果実の巫女があなたを待っている。でも、周りの大人は誰もその言葉を真面目に聞いてはくれないの」
「何故、そんな事が分かるんだ。――あなたは」
「言ったでしょう。私は天使。この国の事ならば何でも分かるわ」
「……では、何故、私の前に現れた。こんなちっぽけな私に、何故、力になりたいと申し出てくるんだ」
どうも胡散臭い。やけに都合のいい話だ。
だが、紅は微笑みを浮かべたまま答えた。
「誰でもいい、と言ってしまえばおしまいね。私が選んだのは私の話を聞いてくれそうな人たち。その中でもあなたは、あの神殿に用がある民。そんな人は少数よ。それに悲劇に悲しむ民を私は放っておけない。だって、この私が神にお願いしてこの地に聖樹を産み落としたのだから」
飽く迄も、自分を天使とする紅という女。怪しいがしかし、この艶めかしさの中にも神秘さを持っているのは確かだ。妖艶、と言えばいいだろうか。
「分かった。あなたが天使だと言うことにしておこう。その上で聞きたい。何故、神殿に用があると選ぶ基準になるんだ?」
すると、いきなり紅は翼を広げた。
驚く私の前で美しい羽根が舞い散った。神話によればこの羽根の一つが勇敢の剣となったとのことだが、果たして本当だろうか。
「御殿に守られている巫女は私の系譜。聖樹は私の娘。どちらも可愛い娘に違いない。けれど、私は憂えているの。聖樹と果実。それはいい。問題は勇敢の剣。勇敢の剣を作りなおしたい。神は間違ってしまった。人の子の中から生贄のように差し出させるなんて、残酷なことをお決めになった。それを変えたいから、神殿に入りたいの」
「変えたい? よく分からないが、あなたは天使なのだろう? ならば、神殿にくらい勝手に入ればいいじゃないか」
「そうしたいところだけれど、出来ない理由があるの。神殿に入るには、人の協力が必要。あの場所はかつてとは違う。あろうことか天使の私を拒む結界が張られているのよ」
天使を拒む結界だと。
いよいよおかしな話だ。悪魔と呼びたければ呼べばいいと開き直った通り、この女は天使の名を騙る悪魔であるのかもしれない。戯れ程度に私は更に訊ねた。
「じゃあ、聞こうか。神殿に入ったら、あなたは何を望むのだ」
「果実よ」
紅は、はっきりとそう言った。




