17.黒き雌狼
サヤ様の前で項垂れるカタナに会いに行ったのは、彼女の心を変えたかったからかもしれない。神官長からの命令も下り、世話係の優しい機械人形との別れも済ませ、カタナはすっかり死へ向かおうとしていた。
そんな彼女を引き留めたかったのかもしれない。
全てはカタナ次第。
そうは言ったけれど、決まってしまえばやはり迷いはあった。
カタナの決意は固かった。思っていた以上に、彼女は聖女であった。やはりわたしの予想した通り、勇敢の剣というものは人間とは少し違うのだろうか。
彼女にはすでに未来が見えていない。
サヤ様を奪われた時点で、サヤ様を取り戻す光景しか見えていないのだ。
それは己の末路でもある。
それなのに、なんで彼女は怖がらないのだろう。
しばらく、涙が止まらなかった。これは何の涙だろう。聖女の尊さへの感動の表れか、カタナの心を変えられなかった失意なのか、わたし自身も分からない。
聖樹の前で暫く、カタナは立ち止まったままだった。
サヤ様の亡骸とも、この神殿とも、もう二度と会えなくなる。本当にこれでいいのかと問いたくなる気持ちをこらえ、わたしはわたしで涙を止めるのに必死だった。
ついて行くのを許してくれた。
共に死ぬのならばそれでもいいだろう。
これはわたしにとっての復讐でもある。悪魔紅を滅ぼすことは出来ないかもしれないけれど、茜の無念を晴らすべくその計画を台無しには出来る。茜の命も吸って膨らんだその絶望をカタナが討ち破ってくれるのだ。
その結末を信じられるのなら、わたしもまたそこで生涯を終えてもいい。
「鴉」
聖樹を見上げながら、カタナはぽつりと言った。
「引き返すのならば今だ。ついて来て欲しいとは言ったけれど、やはり迷う。私はこの為に生まれてきた。でも、君は違う。君は守られるべき民。私が守った後の世界を生きる権利のある子供だ」
「わたしの気持ちはさっき述べた通り。あなたの勝利で茜の無念を晴らせるのだと思えば、死ぬのは怖くない。あなたまで失って、生きる方が怖いもの」
素直に答えたならば、カタナは黙したまま名残惜しそうにサヤ様の亡骸に触れ、そして立ち上がったのだった。
おもむろにわたしを振り返ると、じっと表情を窺ってきた。
そうして、ようやく彼女は静かに頷いたのだった。
「分かった。後悔しないのなら、甘えさせてもらおう。鴉。君の力を貸して欲しい。白椿は――あの怪物は、今、勇敢の国の西側にいる。聖域の境界の町……おそらく月下という場所を目指しているようだ」
「分かるの?」
「……サヤの悲鳴が西へと遠ざかっている。西の端ならば、その町だろう。月下は古の聖地。大神がかつてその場所にいたとされていて、今でも人狼の人口がやや多い場所。きっと彼女の故郷もそこなのだろう」
「分かった。月下ね。そこを目指すわ。わたしの魔術であなたを運んであげる」
そう言ってレラの名を唱えると、レラはやけに素直にカタナの傍へと漂い、獣や精霊が人に懐くかのようにすり寄った。まるで魔術そのものに心でもあるようだ。その感触をちっとも怖がらずにカタナは受け入れる。かつて刃となって彼女を傷つけたこともあったが、それがやけに遠い昔のように感じられた。
「もういいのね」
今一度、わたしは確かめながら手を伸ばした。
「もう、何も思い残す事はないのね」
此処を去れば、二度と帰ってはこない。
カタナは死に赴くのだ。その門出を見送ろうと中庭を見つめている影がわたしにも感じられる。もう誰も、わたしの侵入を拒んだりはしない。きっと鵺か誰かが告げているのだろう。夕暮も、鵺も、朱鷺も、恐らくこの光景を何処かで見つめているだろう。
だが、カタナは迷いなく頷くと、わたしの手を握った。
「思い残す事はない」
穏やかな声で彼女は言った。
「私を連れていってくれ。大神だった罪人の待つ所へ」
この国らしい色の目に決意が込められている。
その猛々しい様子に面喰いながらも、わたしは強く頷いた。
握る手に込められた力は強い。彼女もまた大神の子孫。この地に天使が舞い降りなかったならば、カタナの暮らしもずっと違うものになっていただろう。
それがいい事なのか、悪い事なのかは分からないけれど。
「行きましょう」
向かうは月下。古の聖地。
復讐をしたいと白椿は言っていた。それが叶うという紅の甘言に抗えず、彼女は怪物となってしまった。誇り高い大神の子孫としてはあまりにも酷い。彼女の権威を回復する方法はただ一つだけ。この国に置いて、それが出来るのはカタナ一人だけ。
「レラ」
命じただけで風は舞い始める。
わたしとカタナの二人を巻き込んで、師匠より授かったこの忠実な風の魔術は、最終決戦の地へと運んでくれる。
この先に待っているだろう光景を思うと、どうしても迷いは生まれる。
本当にこれでいいのだろうか。本当にこのまま連れていっていいのだろうか。あらゆる雑念はレラに伝わっているだろう。けれど、忠実な風の魔術はそんな術者のわたしの気持ちなどに動じることもなく、命じられた通りに動いた。
移動には少し時間がかかるだろう。それでも、相手が大地を駆けまわるしかない怪物であれば、十分追いつけるはずである。
何も心配する事はないのだ。
わたしはただカタナの力となり、言われるままに運べばいい。
そうして訪れるのは、一つの答え。
きっとわたしは後悔する。その答えの光景を目にして泣かずにいられる自信などあるものだろうか。それでも、カタナの心は一つに定まってしまっているのだ。わたしにはそれを変えてしまう権限など無い。
師匠はわたしをどう見るだろう。
コタンの大人達は、こんなわたしに何を告げるだろう。
聖域など不必要だと彼らは言った。その教えを存分に受けながら、今、わたしはその聖域の為に一人の人間を死に向かって運んでいる。
わたしは死神なのだろうか。不吉な魔女であるのだろうか。
明確な答えは得られないまま、わたしはカタナを連れていく。多くの人々を守る事の出来ない神や天使の代わりに死ぬこの聖女を、もっとも間近で讃えるために。
正しいのか、正しくないのか。わたしにはどうしても分からないままだった。




