15.絶望の日
――今はいったい、いつなの?
魔術の厄介さは魔術を使う立場だからこそ分かっているつもりだ。
それでも、わたしは自分の事が憎くて仕方なかった。
なんで、あんなつまらない魔術に抗えないのだろう。なんで、こんなにも長く、逃げ出すことが出来なかったのか。
これまでわたしは師匠の一番弟子という自分に誇りを持ってきたけれど、もはやその誇りは脆くも崩れ去った。
魔術から解放されてすぐに、レラは一生懸命わたしを運んでくれた。
でも、わたしは間に合わなかった。
なんて使えない主人だろう。授けてくれた師匠に申し訳ない。だが、どんなに自分を責めたところで、時間は戻らないし、状況も変わったりしない。
わたしは大神殿を前に茫然としていた。
結界が虚しく感じるほど死臭に満ちている。広大な敷地の端々には見張りも殆どおらず、殺伐とした空気と嘆きばかりが漂っていた。御殿に近づけば近づくほど、それらは強くなっていく一方だった。
聖樹と果実を守る神聖な場所。
見上げた空を覆う聖樹は枯れたりしていない。それだけでも、喜ぶべきことなのだろうけれど、素直に喜べるはずもなかった。
死臭があらゆる場所にこびりついていた。
男女や種族問わず、一か所に並べられている。中には、部品がばらばらになった機械人形までもいた。その数は絶望してしまうほど。身元が分かるのには苦労するだろう遺体も多いらしい。
弔う人々もまた、多くが傷を負っていた。弔える者はまだ軽傷だったのだろう。そう思うのは、今もまだ生々しい血の臭いと傷にうめく人々の心が漂っているような気がしたからだ。
この混乱の下で忍びこむのは恐ろしく簡単だった。
ただ数名、機械人形の者達がわたしの影を気にして顔をあげるのが見えたので、彼らが騒ぎ出す前に物影へと隠れた。死臭も弱まれば、人犬の番犬なども脅威となるだろうが、もっと先の事になりそうだ。
酷い有様だった。
誰がこんな事をしたのか問うまでもない。
わたしは止められなかった。見ていながら、止められなかった。
遺体はやがて棺に入れられる。だが、命を落とした者たちの姿は、あまりに悲惨なものであった。あれが、ケダモノに喰い殺されるということ。食人鬼となった白椿は、手当たり次第に貪っていったのだろう。
では、その犯人は今、何処にいるのか。そして、その被害は何処まで及んだのか。
希望なんて捨ててしまった方がいい。そうは分かっていても、御殿へと入るまで――その中庭へと足を踏み入れるまで、わたしは希望を捨てられなかった。
だから、目に飛び込んできた中庭の風景は、あまりに悲しいものだった。
一人の女が少女の傍で泣いている。少女は目を覚ます事はない。それでも何度も名前を呼び続け、そして聖樹の根に爪を立てていた。周囲の目など気にしている余裕もないのだろう。何度も咳き込みながら嘆き悲しむ彼女に、話しかけられる者など何処にもいなかった。
わたしもその一人。
――御免なさい。
レラに包まれながら、わたしはその背中に謝るしかなかった。
――御免なさい、カタナ。
その姿は人の形から一切変わらないけれど、カタナの姿はまるで飼い主を失った真っ黒な犬のようだった。縋りつく先は少女の形をした亡骸。聖樹になど端から期待してはいないのだろう。一度も見上げることなく、カタナはサヤ様のご遺体にばかりすがっていた。
「すまない」
カタナは何度も謝っていた。
目を覚まさないサヤ様に向かって。
「すまない、サヤ。……サヤ」
地べたに寝そべりながら狼のように唸る彼女は何度も期待しているだろう。これが悪夢であってほしいと。夢現の狭間で見る恐ろしい悪夢なのだと。
そうでないと彼女に告げることなど、誰に出来るだろうか。
少なくとも今のわたしには出来ない。
そもそもわたしはどんな顔をしてカタナに向き合えばいいのだろう。わたしは無能だった。任せてと言っておきながら、彼女達の力になれなかった。大切な時間に間に合わなかったわたしを、カタナは許してくれるだろうか。ああ、許してくれたとしても、わたし自身が自分を許せなかった。
レラに身を隠したまま、わたしは御殿をさまよった。
あちらこちらで目にするのは嘆きと罵倒。そして、呪いの言葉。皆、狼を憎んでいた。大神とかつて崇められた存在を憎み、恨み、そして恐怖していた。果実を奪ったその怪物を倒せるのは誰なのか。皆が分かりきっている。
もはやこの国の全てはカタナの覚悟にかかっている。
カタナの傍を離れても、その重圧はひしひしと感じられた。むしろ、遠ざかれば遠ざかるだけ、強くなっているようにすら思えた。
皆が目を逸らしている。カタナという存在が人格のある一人の女であるという事実から目を逸らしている。彼女は兵器。この国を滅ぼそうとする怪物を殺せるただ一つの兵器。ただそれだけを信じて訴えている。
今こそ神官長の許可を。
赤い天使より授かった黒き聖狼を解き放つ時だと。
聖域とはそれほどまでに守るべきものなのか。
レラに包まれながらさまよっていれば、人々の声を聞きながら柱の影に蹲る人物を見かけた。まるで泣いているようだがその硝子玉の目からは一滴も涙は零れない。血の通わない美しさを宿す彼女の名は夕暮。その顔は無表情のままなのに、どうして泣いているように見えるのだろうか。きっとわたしが彼女の身の上を知っているからだろう。
天使に、聖樹に、聖域に守られるこの国。
魔物をはっきりと弾くこの境界は、ここまでして守られるべきものなのだろうか。聖域が消え去ったとしたら、この国もまたエルリクの国や饕餮の国、そして南にあるルマカカの国のように魔物の国へと変じるのだろうか。
白椿はどうするつもりだろう。この国を根本から変えてしまうつもりなのだろうか。それとも、そういったことには興味を示さず、紅の言うままに聖樹を枯らして、あとはルマカカのように何処へともなく消えてしまうのだろうか。
今もなお枝を広げて人々を見下ろしている聖樹。果実を奪われた以上、勇敢の民が守るべきはこの聖樹だけとなった。守るということはカタナの命を使い果たすということ。果たしてそれは必要な事なのか。
わたしにはその必要性が分からなかった。
カタナはどうして死ななくてはならないのだろう。だって、せっかく生まれてきたのに。夕暮を――心の宿る機械人形をあんなにも悲しませてまで死ななくてはならないのだろうか。カタナの命を使わずに聖樹を守る方法だってあるはず。
そうだ。何も自ら怪物のもとに赴いて寿命を縮める事なんてない。白椿は戻ってくるはず。その時になってから迎え討てば……。
そうしたら、結局カタナは死んでしまう。
ああ、なんと罪深いのだろう。わたしはカタナの死が怖かった。侵入したわたしに優しさを見せてくれた彼女。単なる武器ではなく、心があり、勇敢の民として生まれたはずの黒き雌狼。今も聖樹の前で泣いている彼女が死んでしまうと思うと、わたしは怖かった。茜やサヤ様に続いて彼女までいなくなってしまうのが恐ろしかった。
――どう足掻いても、サヤ様はもう戻って来ないのだ。
カタナの命を費やしてまでこの聖樹を守らなければならない必要性が、わたしにはどうしても分からなかった。
別の方法はないだろうか。
それを知っているとしたら、誰か。
そうだ。生き残っている人の間に、今の状況を冷静に分析しているだろう人たちは数名いる。それは、神官長の留守を預かっている側近などではない。魔術師長という役職の者達。とりわけ、剣の主治医という立場にある人間の男。
レラに身を潜めたまま、わたしは糸を手繰り寄せるように彼の魔力を探して、そのまま辿っていった。




