14.大神であった者
どういうことだろう。
目の前で起こった事は、考えなくとも分かることのはずだ。それでも、今のわたしではいちいち考えなくては理解することが出来なかった。
そのくらいの絶望がわたしの頭の中にあった。
むせ返るような悪臭は木々だけでは浄化しきれず、わたしの心身を汚染していく。地獄でも見ているかのような景色の中で、目を光らせながら長い事俯いているその女は、本来白っぽい姿をしているはずなのだが、今は黒に近い赤に染まっている。
ああ、わたしは何を見てしまったのだろう。
茫然とするしかなかった愚かなわたしを背後から抱きしめるのは、この悪臭の中でやけに良好な香りのする紅であった。
「素晴らしい瞬間に立ち会えたわね」
紅は恍惚とした様子でそう言った。
「あなたの運命はあの子次第。あの子の空腹がまだ満たされないのなら、あなたの運命は決まっている。でもそうでないのなら、あなたにもまだまだ好機は巡ってくる。さて、どちらかしらね、白椿」
紅の問いかけに応じるように白椿はようやく立ち上がった。
一目見るだけでも息を飲んでしまうその姿。かつては美しさによるものだったが、今は違う。脳裏に焼きつくおびただしい量の血は、すべて本人のものではなく、さっきまでそこに亡骸をさらしていたはずの明松のものだ。そんな明松の亡骸はわたしの目には見当たらない。一体何処へいってしまったのだろう。さっきまで白椿が絶命した彼女を抱きかかえていたと言うのに、どうして骨すら転がっていないのだろう。残されているのは血だけだ。飲み干せない血が周囲を染めているだけ。
ああ、なんてことだろう。わたしは逃げられなかった。一匹の怪物が一人の人間をたいらげてしまうまで、一歩も動くことが出来なかったのだ。
一歩、また一歩と歩む白椿の足取りはおぼつかない。震えているのは何故か。あらゆる情動が蠢いているのだろう。感情と魔力で頭がおかしくなりそうなのだろう。唸りながら苦しむ彼女の姿は、人間に近いもののはずなのに異形のモノにすら見えた。
紅の拘束は緩い。それにも関わらず、わたしはやはり逃げることも出来ずに白椿が身体に触れるのを待ってしまった。足が棒のように動かない。白椿の姿から目を逸らす事が全く出来ない。わたしは、このまま殺されてしまうのだろうか。明松のように生きたまま、喰い殺されてしまうのだろうか。
茫然とするわたしの頬に白椿の手が触れてきた。
「さすがに柔らかいな」
その手がそのままゆっくりと首筋までおりていく。
「生きたまま喰えば、かなり美味いだろう」
淡々としたその口調。眼差しは最初に向かい合った時からあまり変わらない。ただ明松の命を吸い取ったその全身には、死臭がこびりついていた。震えは酷くなる一方だった。それを楽しむかのように白椿は笑みを浮かべ、さらに首筋から胸元、胸元から腹部へと指を這わしていった。
やめてという言葉すら全身の震えが制していた。恐怖はとっくに限界を超えていて、わたしまで気が狂ってしまいそうだった。
「だが、どうせ喰うならゆっくり味わいたい。何もかも終わった時に、その祝いとしてこいつの命を貰うとするかね」
「……そう。じゃあ、今はあなたの邪魔にならないようにしましょうか」
わたしの願いが通じたのか、はたまた更なる絶望への序章なのか、白椿はそう言うとあっさりとわたしから手を離し、背を向けて離れていった。助かったと手放しで喜べる状況ではないが、それでもわたしは涙を流しそうなくらいほっとしていた。今すぐに殺される事はない。それだけでも心から安心していたのだ。
そんなわたしを罵るように紅は囁いた。
「鴉」
親しげな声色にぞっとした。
「安心するのは早いわ。白椿はあなたよりずっと強い人。古の神様の末裔だもの。ねえ、白椿。あなたは魔女になんか負けたりしないわよね」
「……それはどうだろう」
背を向けたまま白椿は比較的まともな返事を寄越してきた。
「私は鬼族を恐れるあまり一つ目の罪を犯した。変身能力と逸脱した身体能力だけが武器のこの私にとって、魔力というものは厄介だ。鴉とかいうその子が本気でかかってくれば、私なんて殺されてしまうだろうね」
素っ気ないその言葉に紅は溜め息を吐いた。
「だとしても、その時はあなたの代わりに鴉が役目を引き継ぐまでのこと」
俯く白椿の様子はまるで泣いているかのようだった。その姿を前に、わたしは思わず口を開いた。
「どうしてこんな事を」
白椿は背を向けたままだ。
「あなたは大神の末裔。天使が降り立つまではあなた達が人々を守っていた。聖樹の守る世界になったとしても、あなた達は誇り高い一族に変わりなかったはず。それなのにどうして? どうして復讐なんてもので誇りを汚そうとするの!」
「うるさい」
吐き捨てるような声が返ってきた。
「お前に何が分かる。もう遅いんだ。私は紅の大切なしもべを殺した。喰い殺した。これでもう私は後戻りできない。今はもう、人の肉が喰いたくて仕方ない。こんな私はもう大神の末裔ですらない。出来る限りの我がままでこの国をめちゃくちゃにしてやるよ」
「……やめて。白椿!」
走りだそうとするわたしを紅が抱きしめた。
「やめておきなさい」
優しい声で紅は言う。
「今近づけば白椿は我慢出来ずにあなたを食べてしまうわ。白椿は食人鬼。食べても食べても満たされない。人一人食べたくらいではどうってことない。あなたの全てを食べてしまう余地くらいあるの」
ぞっとする言葉だったが、それでもやはり訴えずにはいられなかった。
「サヤ様はあなたを待っていた」
脳裏を過ぎるのは純粋無垢な巫女の顔。
「あなたに毛皮を返して、亡き人の言葉を伝えたがっていた。それなのに……」
「勿論、会いには行くよ。毛皮も返してもらうし、話も聞くつもりさ」
「……それだけじゃないのでしょう」
問えば、白椿は妖しげに振り返った。愉しそうに目を細めている。
「ああ、そうだ」
彼女は言った。
「君なんかよりもずっとずっと美味しそうな香りが漂ってくる。あの子の香りだ。果実の巫女。カタナに守られながら私のことも受け入れるように見てくれたあの優しくて純潔なあの子の香りだ。欲しい。誰にも渡したくない。私だけのものにしたい。大罪だろうが何だろうが、あの子の全てを喰い尽くしたい」
「あの人たちに……手を出さないで!」
悪魔の取引は取り消せない。無駄なことだとは分かっている。それでも、わたしは訴えた。白椿に万が一、勇敢の民としての心が残っているのならば、これ以上化け物にならずにいてくれないだろうかと。
だが、無茶な願いだった。
「私は確かに大神の子孫だった。だがもう人狼ですらない」
わたしを見つめるその目は、敵意しか含まれていなかった。
「だから君の言葉は無意味だ。……紅」
静かに命令が下ると、紅は軽く頭を下げてわたしの目を手で覆った。視界を奪われ敏感になる耳に彼女は囁く。
「眠りなさい、鴉」
魔力を含んだその危険な声に鳥肌がたった。
抵抗する事は出来ず、意識が少しずつ夢へと誘われていく。
「夢に抱かれながら、安らかに。次に目が覚める時、あなたに待っているのはきっと絶望だけでしょうね」
不吉なその予言を子守唄に、わたしの意識は睡魔に攫われてしまっていた。




