13.悲劇の継承
決して安請け合いをしたわけではない。魔術師長やカタナとも話したうえで、サヤの願いを聞き入れることこそが最善の策であると判断したうえで、私はレラに身を包んで夜風となって大神殿の周囲を彷徨い続けていた。
白椿という女人狼。知らない人物だが、紅に目を付けられているとなればすぐに分かりそうなものだった。それに人狼という独特な気配は辿ろうと思えば簡単に辿れるものだと見積もっていた。その思惑通り、大神殿からさらに外れた森林――十六夜の美しい月が一望できる丘の上にて、それらしき人狼を見つける事が出来た。
彼女だろうか。
レラに身を包んだまま背後へと降り立つと、その途端、カタナよりも荒々しい人狼特有の眼光が素早く振り返り、わたしのいる辺りを探った。
「隠れても無駄だ。臭いで分かる」
しっかりと見つめられ、大人しく姿を露わした。
わたしの姿を見るなり、白椿は眉を顰めた。だが、しばし目を凝らすと、表情を変えて不思議そうに首を傾げた。
「魔族ではないな。しかも未成年か。私に何の用だ? 魔術師なら私が何者かが分からないなんて事は言わないだろう?」
「白椿というのは、あなた?」
震えそうな声で訊ねれば、彼女は目を見開かせた。
「何故、私の名前を?」
よかった。やはり彼女だ。安心して一歩だけ近づいて、白椿に訴えた。
「わたしは鴉。神殿の御使いで来たの。サヤ様があなたを待っている。毛皮をお返ししたいって。彼の言葉をあなたに伝えたいって。あなたを連れてくるとカタナと約束したの。カタナ、分かるでしょう?」
「カタナ。印とやらのせいで雌犬に成り下がったあの哀れな同胞の事か」
「そんな風に言わないで。カタナはあなたを心配していたわ。なかなか現れないから――」
「鴉……だったね。悪いが一人にしてくれないか」
「いつまでも待つわ」
「そうじゃない。君と一緒にはいけない。私は今、人を待っていてね」
「人? どんな人?」
探してこようかと提案する前に、白椿は答えた。
「私に殺されたがっている女だ。彼女を解放するには骨も残さず食べてあげなくてはならない。それが決まりなんだって。変だよね。最初はこんなつもりなかったのに」
「どういうこと? 食べてあげる?」
「純血の人間には関係ないことだ。この光景はあまり見ない方がいい。人間の女を貪る私の姿も非常に醜いだろうからね」
「どうして食べなくてはならないの?」
嫌な予感がした。白椿の待っている人とは誰だろう。とても嫌な予感がした。
「これが決まりなんだ。大きな力を借りるには、その人間を食べなくてはならない。そうして彼女の無念の全てを引きうけて、人狼なんかとは比べものにならないような無限の力を手に入れるんだ」
「手に入れてどうするの?」
思わず近寄りそうになる私を、白椿が一睨みで牽制した。
「復讐する。饕餮の国からやってきた鬼族の兄妹とその仲間。違法な狩りで私の夫を殺したあいつらに復讐したいんだ」
「……復讐」
毛皮だけではなかったというのか。
鬼族と言っただろうか。饕餮の国の、しかも密猟者。人狼の力では敵わないような者を相手にどうやって復讐するのか。どうやってそんな力を突然得るのか。どうしてその力を得るために不幸な人間が殺されにやってくるのか。
全てが繋がるのにそう時間はかからなかった。
「駄目」
恐れを忘れて私は白椿に走り寄った。その手を掴んで必死に訴える私を、白椿はやや戸惑い気味に見つめてきた。
「そんな事しては駄目! 復讐なんかしたって何もならない。そんな怪しげな力に手を出しては駄目よ!」
「年端もいかぬ子供が説教か。いや、子供だからこそか。手を放した方がいいぞ、鴉。私は人狼。お前のような人間を食う化け物だ」
「あなたよりも魔物の血が濃い人たちを知っている。だから、そんな脅しは無駄よ。分かってくれるまで離さない。ねえ、白椿。考え直して。あなたに力を与えると言った人の正体を、あなたは分かっているの?」
「ああ、分かっている」
白椿は言った。しっかりとした表情で言った。
「あれはきっと悪魔だ」
その声はあまりにもはっきりとしていた。
「天使と名乗っていたが、あれは悪魔。悪魔のような力を私に見せてくれた。ぼかしてはいたが、あれはまさしく悪魔だ。果実の巫女を欲しがっている。心優しき赤い礼服の少女を自分のモノにしたがっている。大罪を私に唆しているんだ」
「分かっているのなら、何故……」
訊ねるわたしの肩を誰かの別の手が掴んだ。
その強い感触に身が強張った。肌を刺すような異様な寒気が不快だった。怯えがわたしを支配しているその隙に、艶やかな紅色の袖に通した美しい肌の手が背後からわたしの身体を抱きしめ始める。
誰がそこにいるのか、考えたくもなかった。だが、残酷にも答えはもたらされる。
「鴉」
その妖艶な声はわたしの脳裏をまさぐった。
「私のお気に入りの子にまで近づくなんて、手癖の悪い子」
「……紅」
絶望的なこの様子を白椿は虚しさに支配された眼差しで見つめていた。暴れるわたしを紅は放してくれなかった。やがて長い爪で喉笛に触れられ、震えは更に強まった。
「この子はわたしが抑えていてあげる」
紅は白椿に向かって言った。
「だから、あなたは気にせずにやりなさい」
私は気付いた。息使い荒く雑草を踏み荒らしながら歩いている者がいる。その者はわたしと紅には目もくれず、ただ真っ直ぐ白椿に向かってとぼとぼと歩いていた。
亡者のように生気の削がれた歩き方だった。くたびれた衣服はすっかり色褪せ、元が高貴なつくりであったことも忘れさせるほどだった。かつては持て囃されたこともあっただろうが今や見る目もない。病人のように痩せこけたその顔。目鼻立ちには美貌の片鱗が今も残っている。けれどもう、彼女に残されているのは破滅のみ。
それが、わたしが死ぬほど恨んだ殺人鬼――明松の今の姿だった。
何をするつもりなのか、白椿が何を決心したのか、分からないわけがなかった。
「駄目……お願い……話を……」
喉を抑えられながら虚しく訴えようと、白椿の耳には届かない。
「毛皮だけじゃ……駄目なんだ……」
彼女の呟きは飽く迄も冷静さを伴うものだった。
無念のあまり涙が流れそうだった。神は本当にいるのだろうか、天使は本当にいるのだろうか、ならばどうして彼女たちを助けてくれないのだろう。
そう嘆いているわたしを明松がちらりと振り返った。
その目は何処か輝いているようにも見えた。わたしを見つめ、そしてやがては紅を見つめ、明松は口を開いた。
「ありがとう」
紅に向かって迷いなく、明松はそう言った。その声は幼児のように舌が回っていない。
「もうやりきった。これで、かいほうされるのね」
それが彼女の最期の言葉であった。
紅は何も言わなかった。何も言わないままわたしを抑え、その目でじっと白椿と明松を見つめていた。わたしも何も言えなかった。何も言えないまま紅に囚われ、この目を背ける事が出来なかった。
聖域の外は怖い場所だ。
魔物がうろついているものだから、無謀にも国と国を行き来しようとする者たちがたまに襲われている。多くは旅人の不注意や無知が招くものだが、中には運が悪かったとしか言えない場合もある。そんな彼らの悲劇の一部始終を目撃する事はあった。嫌なものだった。生きながら引き裂かれる人間の姿や悲鳴など、見ていて気持ちがいいはずもない。聖域の外は自由だが怖い世界なのだ。
だがそれらの記憶がかすれてしまった。今目の前で繰り広げられている光景に比べて、魔物というものは恐ろしかったものだろうか。
明松は震えていなかった。ただ涙を流していた。両目を閉じて、白椿の前にしゃがみ、服従でも誓うかのように項垂れていた。そんな彼女の前に同じくしゃがみ、白椿はゆっくりと衣服を脱がしていく。それ以上は見たくはなかった。だが、目を逸らす事が出来なかった。目を閉じる事すら忘れてしまった。
白椿は人の姿のままだった。狼になることもせず、その表情には明松への慈悲なども窺えない。人間と変わらぬ姿で、人間の女の肉をその手で確かめる。そうして程なくして始まった。痛みはあるのだろう。苦しみはあるのだろう。悲鳴は大きくはなかったが、それでも我慢しきれるものではないようだった。
明松が食べられていく。人間の姿をしたままの狼に食べられていく。
これは夢だろうか。
悲劇が継承されていく。
「あなたは不幸な娘だった」
紅は明松の消えゆく命に対して言った。
「あなたは私を求めた。救いを欲しがった。だから、私は手を貸した。今は痛くて苦しいかもしれない。でも大丈夫よ。あなたの全ては受け継がれる。あなたの魂はずっと私が守ってあげる。今はただ眠りなさい」
なんて事なのだろう。
悲しい。とても悲しい。明松が食べられていく。わたしの恨みを背負ったまま、残酷にも食べられていく。後には骨すら残らない。全てを食べられていく。
果実の巫女サヤ様が待ち焦がれている女の手によって。




