11.勇敢の巫女
レラを手放すのは怖かった。
明松たちの居た場所から逃れ、手を伸ばす先は聖樹の膝元。御殿の中庭に許しもなく侵入して、わたしはその神聖な空気に身を包んだ。
聖域なんて馬鹿にしていた。聖樹を頼りにする人々を甘く見ていた。むしろ、エルリクや饕餮の支配と上手く付き合いながら生き延びることこそ賢いのだと信じていた。今だってコタンの人々の賢さをわたしは信じている。
それでも、勇敢の民が愚かだと言う事は誤解だったのだと言う事は分かった。聖樹はたしかに有難いもの。どんなに魔物とつき合おうと、わたしの中には人間の血しか流れていないのは確かであるし、この空気が悪魔とは対極的なものであるのだということも身をもって感じる事ができた。
そして何よりも、中庭に寄り添いたかった理由は、聖樹の根元で座り込んで祈りを捧げ続けていた果実の巫女サヤ様の姿にあった。レラに身を潜めているうちから、サヤ様はふと振り返り、わたしのいる場所を迷いなく見つめた。夕暮と同じだ。
「どうかそのままで」
サヤ様は小さな声で言った。この場にはサヤ様とわたしと聖樹しかいない。間違いなく、わたしに対してだろう。目と目があって、思わず固まってしまった。緊張と魅惑でどうかなりそうだ。レラに身を潜めたまま困惑するわたしに、サヤ様はそっと微笑みを浮かべる。
「番人たちが怖がってしまうの。ごめんなさいね。でも、あなたの話を邪魔されたくないわ。カタナを助けてくれたのでしょう?」
穏やかに言われ、わたしは息を呑みながら近づき、小声で窺った。
「サヤ様。あなたには何処までわたしの事が分かるの?」
聖樹の根元に座るサヤ様を前にひざまずき、まるで崇めるかのようにわたしは美しい少女の形をした果実を見つめた。
そんなわたしの風貌をじっと眺め、サヤ様は答えた。
「何処までか、分からない。でも、あなたの御名前は分かるわ。鴉というのは通称ね。懐かしさと悲しみがあなたの心を覆っている。茜という人の無念も、あなたが抱くどこまでも純粋な願いもわたしには分かる。それでも、あなたは気高さを失わずにカタナを助けてくれた。コタンに居る人々もきっと、あなたのように勇敢を正しく受け継いだ人々なのでしょうね」
「ああ……サヤ様……」
その言葉に全てが詰まっていた。
黄金の果実は何もかも見通してしまうのだろうか。わたしの罪など分かっている。何をしようとしていたのかも分かっているだろう。それでも、サヤ様は静かに微笑んでいた。わたしを拒むことなく、受け入れるように見つめていた。
「聖域は悲劇を防げない」
サヤ様は言った。
「悲しい事はどうしても起こってしまう。起こされてしまう。それでも、神は天使を通してそれを乗り越えるための勇気を授けてくださった。あなたもその一人。あなたの気高さで悪魔の手が少し遠ざかったのね。……ありがとう」
「礼には……及びません」
まっすぐな感謝の言葉がくすぐったかった。今更、心変わりをして味方をしたところで、ここに侵入して果実を盗もうとした過去は消えないのだから。それでも、温かかった。有難くその言葉を胸にしまいこむと、何故だか紅につけられた呪いの印も疼きを忘れてしまったように思えた。
心を落ち着かせてから、わたしはやっとサヤ様に訊ねた。
「あなたは御自分に近づく脅威をどのくらい把握していらっしゃるの?」
するとサヤ様は不思議そうに顔を上げた。見つめる先は低い位置にある聖樹の枝。そのざわめきを耳にしてから、何かを整理するように考え込み、そうしてやっとサヤ様はわたしを見つめ直した。
「漠然としか分かりません。ただ、母は悪魔がわたしを攫いに来ると恐れています。悪魔の虜となった明松という人のことも、カタナやあなたの記憶から少しだけ感じ取ることが出来ました。どうしてあのようなことが、起きてしまうのでしょう……これも悪魔の所為だと言うのかしら」
「ええ、そうです。悪魔に騙されて怪物になってしまったのです。悪魔の姿もわたしは見ました。紅という名前の女です。でも、一部の人にしかその姿は見えない。あなたに近づくために不幸を連鎖させている恐ろしい存在です」
興奮しかかる気持ちを必死に抑えながら、わたしはサヤ様に訴えた。訴えたところで恐怖心を煽ってしまうだけだろう。けれど、せめて危機感をもってくれるのならば、無意味な事にはならないはずだ。
だが、サヤ様が真っ先に抱いたのは恐怖でもなければ危機感でもなかった。
「どうしてかしら」
それは純粋な疑問であった。
「どうしてそこまでして、紅という人は果実を欲しがるのでしょう。悪魔が何者なのか、母は教えてくれません。何か知っているようですが、彼女の言葉が肝心なところで途切れてしまうのです。……どうして」
「悪魔は聖域を壊したがっているんです。そうして自分の為の国を作る。エルリクの国も饕餮の国も、そして此処より南のルマカカの国もそう。全部悪魔がやったのです。わたしの馴染んだ聖典にはそう書かれてありました。三百年前のものですよ」
「……どうして、聖域を壊したいのかしら。どうして、自分の為の国を作りたいのかしら」
考え続けるサヤ様の姿が怖くて、わたしは首を振った。レラに身を隠している手前、大声は上げられない。必死に声を潜めつつも、叫ぶように心をそのまま言葉にした。
「理由なんてきっとないのよ。悪魔は悪魔なのだもの。偽りを重ねて神と天使の作りあげた恵みを壊したいだけ。きっとそうなの」
そして、泣きそうになった。
いわば天界への嫌がらせということ。それだけの為に、茜は殺されてしまったのだろうか。わたしの抱く純粋な未来は砕かれてしまったということだろうか。なんで、こんな事が許されるのだろう。どうして悪魔など存在しているのだろう。
泣きそうな気持ちを堪えつつ俯いていると、サヤ様は心配そうにわたしを窺ってきた。だが、特に何も話しかけず、わたしの心が落ち着くのを待っていた。涙は零れぬままようやく心は落ち着き、やっと顔を上げてから、サヤ様は落ち着いた様子で一言呟いた。
「そうなのかもしれませんね」
同意を示し、そしてぽつりとさらに付け加える。
「だとすれば、やはり紅という悪魔に目を付けられている人々は守るべき存在。わたしがずっと待ち焦がれている人もそうみたいです。大神の御婦人を知りませんか? 大昔、この大地に天使が降りたつより前の時代、この地域の人々を守ってきた古い神様の末裔です」
「大神――人狼のこと?」
サヤ様は頷いた。
人狼は人と狼の狭間である魔族。彼らを大神と呼ぶのは勇敢の国の田舎か、コタンに住まう者くらいだ。人狼は決して珍しくはないが、差別される事が多々ある。神様と崇められていたのは昔の事。むしろ、崇められていた過去が彼らの首を絞めている。毛皮は御守りとして高値で取引され、懐かせる事に成功すれば守り神となるとも一部では信じられている。その為、特に女子供は誘拐されることが多い。男も集団で狩られればひとたまりもない。町には毛皮が溢れ、権力者の豪邸の地下には檻に囚われる幼い人狼が涙を呑みながら虐げられているという噂を聞いたことがある。あるいは、洗脳され、狭い幸せしか知らずに過ごしているか。それが真実なのなら、人狼という民もまたこの世に嘆きを溜めやすい存在と言えるだろう。
「白椿という人です。真っ白な髪、毛並みを持つ女性。訳あってカタナを傷つけてしまった御方ですが、本当は悪い人ではないの」
そういえば、人狼にやられたと聞いた。悪魔の力を借りた、怪しげな人。
「紅が目を付けているのだとしたら、きっと今に危険な人になってしまうわ」
「ああ……」
呟くわたしの言葉に、今度はサヤ様が顔を両手で覆った。
「どうしてこうも上手く行かないのでしょう。わたしは直接伝えたいだけなの。彼女はわたしが預かっている毛皮を返して貰いたいだけなの。だから御通しして欲しいってかねがね頼んでいるのに、どうしても許して貰えない。前みたいに忍び込んでもらいたいけれど、カタナを傷つけて何処かへ去ったあの日から、音沙汰もないの。どこにいってしまったのかしら……」
恐れているのではない。本気で心配している姿だ。
きっと果実の巫女として一人の民を憂えているのだろう。相手が人狼であったとしても、その血に勇敢の民のものが混じっている以上、聖樹の定めた聖域を歩める以上、サヤ様はその白椿という人狼の事を人間として扱うつもりなのだろう。
人狼。
正直、あまり馴染みのなかった一族だ。
聖域の外にも彼らと同じ一族や、よく似た種族の者はいる。その始祖にもっとも近い狼の魔物たちは部落を作り、コタンの人々に恐れられていた。怒らせなければ友好的でいてくれる。大神と呼ばれる通り、聖域のない時代は人間のすぐ傍で暮らし、人々の暮らしを支えていた。けれど、聖樹は彼らを魔物と認定し、人間と血を交えたものだけを選び、後は聖域の外へと追い出してしまったのだと聞いている。
聖域の外に居た大神はともかく、その血の薄いものとはあまり深く関わった事はなかった。それでも、常々恐怖は抱いていた。人狼は哀れな一方、純血の人間にとっては恐ろしい存在でもあるのだ。何故なら彼らは恵まれた知恵で人を欺き、恵まれた力で人を喰い殺す事もあるのだから。
しかし、サヤ様は白椿を純粋に信じていた。あらゆるものを見透かす瞳が信じるのなら、きっと白椿という女は悪い人狼でもないのだろう。もしくは、慣れてしまっているのかもしれない。いつも傍に忠犬のような狼が控えているから。
「サヤ様」
聖樹に身を寄せて困った顔をしているか弱き巫女に、わたしは静かに跪いた。
「勇敢の赤い天使はいつだってあなたを見守っているはずです。サヤ様の心からの祈りを神が無視するはずも御座いません。だから、安心してこの場所でお待ちください」
毛皮とやらがどうしても大事なものならば、また神殿へ来るだろう。
姿をみせていなかったのはきっと満月の所為だろう。満月の夜というものは、人狼にとって苦難の時だと聞いている。その夜だけ魔物に近づく彼らは、聖樹に睨まれて動けなくなってしまうのだ。だから、満月の夜は人気のない場所でじっとして耐えるのだと聞いている。その姿を見た事はないけれど、聞いた事は何度かある。
白椿とやらも人狼であるのならば満月には苦しめられるのだろう。忍び込みたくても忍びこめない事情があるのだ。問題が片付けば、きっとまた姿を現すはず。
けれど、やはり引っかかった。
――紅は人狼に目を付けた。
もう印をつけてしまったのだろうか。誇り高い人狼が怪しい他人の手を簡単に握ったりはしないだろうけれど、相手が素直でなくとも手に入れてしまうのが悪魔というものだ。明松に襲わせてわざと殺させてしまうかもしれない。
人狼の手駒なんて紅にとってもみればあまりにも魅力的だろう。
わたしの安い慰め程度では不安を拭えなかっただろうサヤ様に向かって、わたしははっきりと約束した。
「その白椿という人について、頭に入れておきます。あなたの希望通り毛皮を御返しできるように、わたしからも計らってみましょう」
するとようやくサヤ様の表情に安堵が窺えた。




